ガダルカナル島慰霊の旅

元自衛官 浦山 志郎

日本からの距離:5,450km

○一式陸攻
機首(機尾?)の部分です。ガ島をめぐる空の戦いでは、陸攻隊の戦いは戦闘機隊の陰にかくれあまり知られていませんが、制空権のない状況での出撃は特攻に等しく、この機首部から必死に敵艦を捜した搭乗員の気持ちを思うと胸が痛くなりました。(機首か機尾か、帰国後に調べたのですが判明しませんでした。)

(零戦のエンジン と館主は言うが未確認)

グラマンF-4  翼折りたたみ部はまだ動く

館主夫妻と

○もう一つの敵?蚊
海岸やムカデ高地のような開闊地ではほとんど気にならなかった蚊ですが、少し草むらに入ると猛烈に襲ってきました。
虫よけ剤をたっぷりスプレーしたお陰で刺されませんでしたが、ジャングルに分け入った将兵はどのように対処したのでしょうか?夜は眠れたのしょうか?
敵の砲弾、飢え、疲労、蚊、そしてマラリヤや下痢。その中で生き続けそして戦ったことは奇跡のように思えます。

(6)タサファロング・鬼怒川丸
附近は、2師団をはじめ主力部隊が上陸した場所で、兵士はここからジャングルの中を飛行場を目指しました。

ルンガ岬と飛行場方向

輸送船鬼怒川丸の船体の一部

鬼怒川丸は、今はほんの一部が水面上に出ているだけですが、直後は下のようでした。この地点をGoogl Mapで見ると船体が透けて見えます。(WWⅡShipwreckと印された地点)

ガ島とフロリダ島、ツラギ島、サボ島に囲まれた海域には、日米の100隻ほどの艦船が沈んでおり、別名:鉄底海峡(Iron Botom Sound)と呼ばれています。

(7)全国ソロモン会慰霊碑(Tシャツの背中)
ソロモン諸島方面戦没者慰霊碑と部隊(野戦重砲隊)の慰霊碑があわせて4基並んでいます。
各地の慰霊碑のまわりは比較的きれいに草刈り等が行われていました。慰霊団等により清掃が行われていますが、土地所有者等の好意に依存するところ大とのことでした。立ち入り料はその報酬の意味もあるそうです。

(8)平和公苑慰霊塔
20数基ある日本の慰霊碑の中で最も大きい碑でアウステン山中腹にある。コンクリート製の為かところどころ欠けたり塗料が剥げたりしており、銘板も剥ぎとられ荒れたままの感じがしました。

ガ島にある日本軍の慰霊碑は全て遺族会や戦友会が建立し維持しています。ただ、それらの会も高齢化による解散等で放置されている碑も少なくないとのことです。
(参考)政府の慰霊碑等に関する方針は、戦域一方面につき1基で、ソロモン方面はラバウルにあるそうです。

(9)米軍慰霊碑
ホニアラ近郊にある米軍慰霊碑は、米国が建て、管理を現地の人に委託しているとのことで、手入れがいきとどき国旗も掲揚され立派です。
この日米の違いの大きさに、20年近くガ島に勤務されているホテル支配人は、英霊に申し訳ないと嘆いておられました。ただ平和公苑については、寄付等による資金の目途がついたので近く整備を始めるとのことでした。

(10)川口支隊慰霊碑

ホニアラ空港入国手続き中

一木支隊の後続として投入された部隊の碑で、ホニアラ市街地にあります。

7 雑記

(1)ホニアラ空港出国ロビーで便を待っていたら、モレスビー発フィジー行きの便から数人の若い日本人男女が中継で降りてきました。えらくはしゃいでいましたが、この島での出来事を知っているのでしょうか。

(2)T氏の哲学なのでしょうか、その土地々々の生活・文化を少しでも感じるため、食事はホテルではなく街で、交通は電車・バスを利用という方針でのぞみました。ただ、ガ島では食堂は少なく、あっても決して清潔とはいえず(はっきり言って汚い)車の埃もひどかったので断念しました。

 ホニアラには、何でも売っている右のような雑貨店が結構あり現地の人で賑わっています。また、店の経営者はすべてといっていいほど中国人で、なぜか一様に風呂屋の番台のような高い台に座っています。
たぶん万引き防止なのでしょう。
街を歩いている外国人・観光客は全くといっていいほどいませんでしたが、土産物屋は小さな店を1軒だけ見かけました。
 為替レートは1ソロモンドル(S$)=12,3円で、コーラ缶20S$、ホテルの朝食は100S$です。US$を持参しました。

 治安は良いようで街を歩いていて危険は感じませんでしたが、T氏は1度若者からお金をせびられました (もちろん拒否)。夜は街の明かりもほとんど消えて歩ける雰囲気ではなくマラリア蚊の心配もあり出かけませんでした。
(街の中心部 ワンボックスカーは路線バス)

(3)ガ島から戻ったブリスベンで、ジョギングしている人を見たとき、文明?の違いを感じ複雑な気持ちになりました。
ガ島ではジョギングしている人など全く見かけませんでしたので。
また東南アジアなどで多い自転車やバイクも全く見ませんでしたが、そこまで発展していないということでしょうか。

(4)対日感情はODAのおかげで良好のようです。各所に日本の支援による橋や建物があります。
ただ中国も増加させているようで、最近完成したという中国製の立派なスタジアムには大きな中国国旗をこれ見よがしに掲げていました。
日本の場合は、右のような銘板程度です・・。

(5)左は、ガ島のお土産です。ビールの味はまぁまぁ、ツナ缶(日系企業製造)はトウガラシ入りでとても辛いのですがつまみには結構いけます。
紙幣の左は新しい方で、大部分は右のように汗が染みたように汚れていてよれよれです。

(6)英霊の皆さんからのご褒美でしょうか、全期間、好天に恵まれ、シドニーからの帰国便はプレミアムエコノミー席でした。

(7)帰国後、やや疲労がでましたが腹痛等の体調不良はありませんでした。

(8)費用?知りたい方は個人的にお尋ねください。

8 結び

ガ島における戦いを舞台にした、兵士の内面や戦いの実相を描いた「シン レッド ライン(The Thin Red Line)」というアメリカ映画があります。

家族への思いと戦闘の恐怖にさいなまれ仮病をつかう兵士、負傷し痛さと死の恐怖に泣き叫ぶ兵士、未熟な新任小隊長と古参下士官の指揮をめぐる争い、前線の状況を無視して勲章をチラつかせながら後方から命令を出し続ける部隊長、任務遂行と仲間のため決死的に行動する兵士等を描写しています。

その映画の中に、危険な敵陣への潜入偵察を命ぜられた兵士が「なぜ自分に・・」と訴える場面があります。
比較は無理かもしれませんが、何の必然もなく、所属する部隊がガ島作戦にたまたま投入された偶然により、日本から5千Km以上も離れた孤島に派遣され悲惨な戦場に立たされた将兵は何を考え何を思ったでしょうか。
軍の宿命ですが、命令がもつ非情さと運・不運の結果をもたらす不条理さを、ガ島の地に立ってつくづく感じさせられました。
そしてそのような場に立つことがなかったわが身の幸運を強く感じた次第です。

野口健という世界的に有名な登山家がフィリピン方面における遺骨収集活動を推進しているそうです。しかしながら未だ戦地に眠る英霊は、戦後67年経過した今も全戦没者の約半数・110余柱といわれています。

ガ島でも約1万の御柱が未だ地に埋もれたままとなっています。
お国のために散華された方の帰還事業の大部分を遺族会・戦友会やNPOに依存し、わずかな予算でお茶を濁しているような国は、国家としての体をなしていないのではないでしょうか。政府の怠慢ではありますが、結局は我々国民の責任でもあります。

日本人・日本国家のありようが問われているような気がします。
遺骨収集に参加することが真の慰霊になるのではと思いましたが、諸般の事情から、今回はお参りするだけとさせていただきました。
一人でも多くの英霊が、一日も早く祖国への帰還を果たされることをお祈りする次第です。
  合 掌

(完)
(2012年2月11日 記)