ガダルカナル島慰霊の旅

元自衛官 浦山 志郎

日本からの距離:5,450km

旧聞の類に属しますが、昨年6月に1期先輩のT氏と2人でガダルカナル島(以下ガ島)へ行ってきました。
皆さんの中にはガ島を知らない人はいないと思いますが、筆者の周辺では知らない人の方が大勢でした。
日本とアメリカが戦争したことすら知らない人が多くなっているという世の中、一戦場にしかすぎなかったガ島にしてしかりでしょうか。残念ながら我が愚息も婿殿も??という反応でした。

1 経緯

皆さんも同じと思いますが、定年が近づいた頃、自衛官生活の区切りとして何かを・・・と考え始めました。
その中で、今までの勤務地巡りや海外旅行などの案とともに、我々と同じ国家の平和と安全を守る任に就きながら、先の大戦で、悲運にも生の半ばにして国に殉じられた先輩の皆さんを現地に追悼し、感謝と敬意の気持ちを表す慰霊の旅が有力な候補として浮かびあがってきました。

幹部学校で学んだ空自の戦史教育の主要課目「南東方面航空作戦」の地である東部ニューギニアを意識してのことです。
ご存じのとおりそこでは劣勢な兵力に加え「撃つに弾なく、食うに糧秣なし・・」、そしてアミーバ赤痢やマラリアに悩まされながらの悲惨な状況下で戦いが繰りひろげられ,十数万もの方が散華されております。

その戦いの過酷な状況と悲惨さに深い思いを至すことなく、僅かな資料だけの勉強で、「何故にこんな無謀な作戦を・・」などと安直に議論していたことに対する自責の念もあり・・、東部ニューギニアへの慰霊の旅こそ自衛官としての区切りに最もふさわしいとの結論に達しました。
退官後の再就職先では余裕がなく延び延びにしていましたが、再退職により毎日が夏休み・冬休みとなったのを機に実行すべく情報収集を開始しました。

ある時、何気なく、長年お付き合い頂いていた先輩にこのあたりのところを話したところ、先輩も同じ考えを持っておられたようで、即、2人で行くことになりました。海外経験豊富な先輩が一緒ということで随分気が楽になり、旅行の不安や疑問も一気に解決していきました。

2 ニューギニアからガ島に変更

当初は、前述のとおり東部ニューギニア(ラエ・マダン・ウエワク等)を目指しましたが、ダイビング等の観光目的ならともかく、慰霊目的でかつ個人となると現地でのガイドや移動手段等の確保の問題があり、遺骨収集団か遺族・戦友会の慰霊団に加わらない限り難しい事が判明しました。

しかしながらその情報収集の過程で、ガ島に,某日本企業が経営し,支配人以下数名の日本人スタッフが駐在するホテル(ソロモン キタノ メンダナホテル)があることを知り、メールで問い合わせると、4月~10月が乾季で適していること、慰霊碑巡礼も対応可能と回答してくれました。

同期の古庄君(元海上幕僚長)が女流作家(故人)に同行しガ島を訪問していたので、彼からも情報を収集しました。
ガ島作戦は戦史にのこる戦いでしたが、空自の戦史教育では縁の薄い場所です。しかしながらニューギニアと同様の悲惨な戦いがあり2万人以上の方が亡くなっています。
慰霊という目的においてはニューギニアに劣らずふさわしい場所と考え変更することにしました。

3 出発

6月1日(木)、先輩夫人の「何を盗られてもいいから、命だけは盗られないように」という見送りの言葉に一瞬緊張しながら、所沢発のリムジンバスに乗車、成田へ。

ガ島は、今は独立したソロモン諸島国の首都ホニアラがある島です。もちろん直行便はなく、次の三つのルートの中から選ぶことになります。

(1)ポートモレスビールート 成田からモレスビーへニューギニア航空が週2便(直行)。
  モレスビーからホニアラへは同航空が週3便運航。このコースが最短で最安。(飛行距離:6,500km)

(2)ブリスベンルート 成田からケアンズ又はシドニー経由でブリスベンへ複数社が毎日運航。 ホニアラへはソロモン航空が週6便運航。(飛行距離:10,700km)

(3)ナンディ(フィジー)ルート フィジーはガ島の南東にあり、かつハワイか香港経由となる大変な遠まわりのルートで非現実的?です。

 本旅行では、運航の安定性や遅延等のトラブルが発生した場合の日程の柔軟性等を重視し(2)のブリスベンルート(シドニー経由)としました。
ガ島で2泊、その前後にブリスベンで各1泊、機中2泊の全行程6泊7日です。
航空券だけを旅行社に頼みあとは自分たちで手配しました。

4 ブリスベンにて

ブリスベン川のほとり

ガ島へ渡る前日と帰国の前日にそれぞれ1泊したのでブリスベンでも比較的ゆっくりできました。シドニー、メルボルンに次ぐオーストラリア第3の都市だけあって近代的できれいな街です。

日本から来たと言うと、一様に地震・津波・原発のことが話題になり同情してくれましたが、実はブリスベンも昨年1月に大洪水に見舞われており、各所に壊れた家や到達水位を示す痕が残っていました。

5 ガ島へ

日本を発って3日目、ガ島へ向け出発。
なぜか予約と違う航空会社(ソロモン航空と共同運航?)のA-320機は、オーストラリアに出稼ぎ?に来ている人や高齢者で余生を楽しんでいる感じの釣り竿を抱えていた一団などで満席に近い状況でした。
パイロットは欧米系でしたがCAは現地人でなかなかの知的美男美女です。

(余談:離陸時、膝にサブバッグを載せていたら、その美女が前席の下に入れろと言うので、入れようとしましたがシートベルトをしていたのでもたついていたら、何と足で押し込むのです!)

右がルンガ岬

ガ島の海岸線が視界に入ってきた時、海軍が建設し日米の熾烈な戦いの発端となったルンガ飛行場(現ホニアラ空港)を見のがすわけにはいかないと、空いていた最後尾の席で右側へ行ったり左側へ行ったりとかなり必死に捜しました。
幸いサークリングしながら着陸したのでしっかりと見ることができました。

上空から見る激戦の中心地域(飛行場周辺)は、樹木の少ないなだらかな丘陵とジャングルが混在し、「一面の深いジャングル」というイメージとは少し違いました。(開発のため伐採されたわけではないらしい。)

ホニアラ空港入国手続き中

ホニアラ市街地

キタノ メンダナ ホテル

6月3日(金)現地時間1400、ガ島に着陸。飛行機を降りるとムッとするような湿度の高い暑さで沖縄の真夏という感じです。
   (南緯9度30分 東経160度 日本との時差+2h)
空港からホニアラの街まで車で約20分。途中の道路のそばには高床式の粗末な家が点在し、何をしているのか?たくさんの人が木陰の地べたに座り込んでいました。

ソロモン諸島国は世界の最貧国の部類に属し、衣服は御世辞にもきれいとはいえず、多くの人は裸足またはゴム草履で、靴を履いている人は希です。
ただ、体格は立派な人が多く、食べ物には不自由していない印象を持ちました。しかし田畑は見当たらず、自生しているものを採取するだけなのでしょうか。
中心部は2~3階建てのコンクリート造りの事務所や商店等が並び、いわゆる街らしくなり車も多くなりますが、信号機は1基もなく、人々は車の間をぬうようにして横断しています。車のほとんどは日本製(中古)。

6 慰霊碑巡礼

ガ島2日目、1日かけての巡礼に出発。
日本から線香・ローソクとお供えの「最中を持参しました。
案内は、遺骨収集団や慰霊団の案内を数多くつとめている現地人のベテランガイドで、英語は堪能、日本語も片言ですが話し意思疎通に大きな問題はありませんでした。
戦いの経過は我々よりも良く知っています。

まずルンガ川等の戦史にでてくる川をわたり島の東部へ。戦場の最東端となる一木支隊が上陸したタイボ岬は、行程上、無理とのことで訪れることはできず、米軍が上陸したテテレビーチから西の方向へスタートしました。
車はトヨタのRAV4です。

多くの慰霊碑は私有地にあり、その都度、立ち入り料1人あたり25~30ソロモンドルを支払わなければなりません。
(為替レート 1S$=12.3円)

(1)テテレビーチ

米軍上陸地点で、リゾートビーチにでもできそうな手つかずの美しい砂浜が続いています。海岸を少し入ったところに朽ちた米軍の水陸両用車が30台ほど放置されていましたが、車体を貫いて大きな木が根を張っていて年月を感じさせました。

(2)一木支隊鎮魂

地形・敵情の正確な情報もない中で、飛行場奪還に向かった一木支隊が奮戦壊滅したイル川河口は遮断機が降り入れませんでしたが、少し内陸にある碑にお参りしました。

(3)ムカデ高地・2師団慰霊碑

飛行場がすぐ北に見える高地で米軍が前線を置き、「血染めの丘」と呼ばれるほどの戦いがありました。
樹木が少ないなだらかな丘で、戦いの痕跡もなく激戦があったとは全く想像できませんでした。ただ米軍が仕掛けたワナの支柱が数本残っていました。南方向にアウステン山やギフ高地がのどかに続いています。

同高地にある米軍の碑

ムカデ高地からアウステン山方向

(4)エスペランス岬

1万人の部隊がここから奇跡的に撤退(転進)。エスペランスはスペイン語で「希望」の意味だそうですが、将兵にとってはまさに生への希望の岬だったことでしょう。
海を挟んですぐそこ(15kmほど)にサボ島がありますが、この狭い海峡で艦隊同士の数次の戦いがありました。しかも夜戦です。

海岸で遊ぶ子供たち

附近にYOSHIMORI HOMEという学校(といっても小さな小屋)がありました。
背景はよく理解できなかったのですが、付近の海戦で戦死された海軍将校の遺族の寄付により建てられたようです。
大人は怖い感じの人が多いが、子供は実にあどけなく可愛い。

(5)ビル村戦争博物館

地主が、放置されていた日米の兵器類を集めてそのまま置いているだけですが、戦いを物語るたくさんの展示物がありました。

15糎榴弾砲
放置されてから70年が経過しているにもかかわらず「大正十五年製 大阪工廠」等の刻印がはっきり残っています。
未だこの地に眠る英霊の皆さんの、声なき「鬼哭」のような気がしました。
(鬼哭:浮かばれない霊魂が恨めしさのあまりに泣くこと。また、その泣き声。)

傍らのより小口径の砲の外れていた車輪を動かそうとしましたが、我が細腕には重くてビクともしません。 ジャングルの中を運んだ兵士の難渋苦行がしのばれました。

(第1回了)