東日本大震災被災地訪問記
元自衛官 浦山志郎

 平成24年3月末、同期のS君(仙台在住)と2人で東日本大震災の被災地を訪問してきました。
 同期HPに、彼が石巻や被災地を訪問したことをレポートしていたことに触発されたこともありましたが、数百年から千年に一度の大地震・大津波に襲われた日に居合わせた者として、それがいかなるものだったのか、この目で確かめておかなければと思っていたからです。
 何のボランティア活動もしなかったのに、1年を経過しそれなりに復旧した時点での訪問は、物見遊山の謗りを免れない感もあり躊躇しましたが、現地への旅行は、ささやかながらも経済的復興の支援になるのではとの思いもあり,同君に相談したところ快く案内役を引受けてくれました。
1泊目は南三陸町、2泊目は勿来(なこそ)(福島)の2泊3日の行程で、白河・水戸以北の高速無料(3月一杯まで)の恩恵を最大限に活用した計画にしました。

(1日目:3/26) 午前10時、仙台空港近くのJR駅でS君と合流しスタート。白石蔵王ICから合流地点までの国道4号線沿いは全くといっていいほど被災の様子が見られなかったのに、空港が見え始めたあたりから景色が一変、土台だけの住居跡が広がり所々にコンクリートビルや骨組だけの工場・倉庫が残っています。まさに荒野の様相です。そしてこの状況が、名取、仙台、塩竃、東松島、石巻、南三陸町、気仙沼へと、訪ねた先々延々と続いているのです。


(名取市閖上(ゆりあげ)港の高台から)


(石巻市日和山公園から)



 被災地の映像は、まさに津波が襲っている様子も含めイヤというほど見ていましたが、それはあくまで断片的な映像です。実際に現地を車で走り、延々と目前に情景が展開されると、改めてその巨大さが実感され言葉を失います。「百聞は一見に如かず、百見は一行に如かず」です。
 土台だけの住居跡に、今もなおたたずんでいる人やまだ散らばっている食器の欠けら等を見ると、ここは遺跡ではなく、1年前までは現実の暮しがあり、そして暮しを取り戻すべき地であることがわかります。しかし、とてつもない時間がかかりそうです。

 石巻市の壊れた店舗跡で、奥様が未だ不明という店主の方と話す機会がありました。 「このあたりだけでも、25人ほどが死んだんだよ・・」の話しには胸がつかえました。「遠くから、バスを仕立てて見に来てくれるのはいいけれど、大勢での立ちションには腹がたつ・・」には返す言葉がありませんでした。また、ボランティアに対しても「現地のニーズとかみ合わず、自己満足のためにやっているようでね・・」と、厳しいことを述べておられました。
 左の写真は、その店主の方に撮っていただいものです。その人は、仮設トイレ設置の願いが叶わないながらも、来訪者への案内役を自ら買って出ていました。何としてでも焼きそば屋の商売を復活させたいとの希望を今も抱き続ける辛抱強さには、ただ「頑張って下さい」と励ましの声を掛けることしかできませんでした。
 
(大川小学校と裏山:当時、雪があった。)

 上は、石巻市の大川小学校です。108名の子供達のうち70名が死亡、4名が今も行方不明、先生も校内にいた11名中9名が死亡、1名が行方不明の悲惨な状況となったところです。避難する猶予が十分あったにもかかわらず1時間近くもグランドで待機した挙句の惨事でした。この事実を知った時、原因は、いじめの問題等が示すように事なかれ主義で自ら考え行動しようとしない先生達の体質にあるのではと考えていました。しかし、現地を訪れてそうではないと思うようになりました。校舎の写真の左端に僅かに見えている北上川の堤防沿いの立地で、しかも、後背地は急斜面の杉林です。そのような細長く狭い窪地に、学校は建てられています。山が海を隠し、堤防の向こうまでは教室や校庭からの視界が効かず、川の様子も見えないとなれば、津波が堤防を越えてきて初めて異常さを認識したのではないでしょうか?校舎も2階建です。すぐそばの裏山は、木立の中は暗く、逃げるには、高学年はともかく低学年には厳しく、100人もの生徒を逃げさせるには難しいように思えます。
 避難計画の不備や不的確な状況判断等の問題が明らかになり、関係者が厳しく追及・非難されています。しかし、学校は周辺地区の避難場所にも指定され、校内には、当初、高齢者を含む多数の住民が逃れて来ていました。このような結果となって初めて避難場所としては不適だったことが明らかになったわけですし、早い時点での避難行動に思い至らなかった背景も浮かび上がってきます。
 幼子を失った親の気持ちは痛いほど分かりますが、一方的に誰かの責任を追求し続けるだけの対応では、この教訓が生かされないように思いますが、皆さんはどう思いますか?

 下の写真は、南三陸町の防災対策庁舎です。津波対策の象徴的施設であり,最後の命の綱として屋上まで避難したものの、庁舎の高さを越える想定外の津波により20数名もの職員が亡くなっています。
 大川小の事例と同様、人間の限界、そして愚かさを示しているのではないでしょうか。

 

左の写真はネットからの流用ですが、防災庁舎が屋上まで津波に洗われており、人がアンテナや手すりにしがみついている様子が写っています。(は筆者挿入)

 夕方、南三陸町の津波の被害を免れたホテルに投宿。観光客!等で満室状態でした。その中に多国籍の若者グループがいました。S君によると「ハーバード大学生が被災地訪問」のニュースを見たとのこと。その目で見ると、相応の知性が感じられたのでそうなのでしょうか。でも、一様に携帯を操作しているのをみて、彼らであっても日本の若者と同じかと、なぜかホッとしたような感じになりました?


(2日目) まずは気仙沼へ向かいました。市街地が目に入り始めた頃、湾を隔てた先に大島が見えてきました。フェリーや船が流され孤立した島で、米軍の「トモダチ作戦」が展開された主要な地域の一つです。
 気仙沼では、プレハブの商店街ができたりしていて、石巻では余り感じられなかった復興への歩みがありました。
 ここを北限とし反転、S君を仙台中心部の自宅まで送り届けたが、彼のマンションにも壁面のヒビ等、地震の傷痕が今も残っていました。
 仙台から高速(東北・磐越・常磐)を乗り継いで福島の勿来へ。かろうじて予約がとれた小さな宿は,復旧作業の人たちで一杯でした。宿は海岸からわずかに国道を挟んだところにあり、津波の危険を感じたので避難場所を確認したところ、「屋上へ逃げて下さい」とあっさりしたものでした!? (3.11の時は国道を越えなかったらしい)
(3日目) 勿来から再び、常磐道を北上し広野ICへ。30km圏から北へ向かう道路はどこも通行止めで、原発には近寄れませんでした。
 広野町では、そこかしこで屋根を洗浄したり土地をはがしたりの除染作業が行われており、道を行く人のほとんどがマスクをしているのが印象的でした。
 車の換気をつい車内循環にしてしまいました。
 広野町からは国道6号線や海岸沿いの道を、いわき、小名浜を経て北茨城まで南下。その間も、各所に津波の爪痕があり被害の甚大さを再々認識させられました。
 そして、3日間にわたる訪問で見届けた被災地の状況をしっかりと脳裏に焼き付けて帰路に着きました。なぜか、ひどく無力感と脱力感につつまれながらの家路でした。
(後 記) 豊かな表情を見せる山と海、中でも変化に富んだ海岸線、また、木々の緑と澄み切った海の青、三陸地方は実に美しいところです。そしてそこにあった人々の日常、それらを一瞬にして破壊し尽くした津波、自然の力の前には人間が如何に無力であるかを強く感じさせられた旅でした。
 また、くっきり残っている生と死と破壊の境目を見て、ちょっとした運・不運に命運を左右される人間のはかなさをも強く感じさせられました。
 石原慎太郎は、この災害を「堕落した日本人に対する天罰」と言いました。私にも、氏の言う「我欲にとり憑かれた日本人」への鉄槌であり、日本復活への試練のように思えます。
 尊い犠牲者に報いるためにも、この鉄槌・試練に立ち向かい、一日も早く被災地を復興させて人々の日常を取り戻し、そしてより安全な国土を築くことこそ我われ日本国民の義務であると強く思いました。

 10年後、是非、再訪して復興を確認したいと思っています。そのためにも元気でいることを自分自身に義務付けた次第です!!

(2012年4月23日 記)