『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)

2013.11.2
村川 淳一

はじめに


本書の表紙

 これは今年の8月8日に講談社から出た単行本である。戦後旧軍高級将校らが、私利私欲からではなく、純粋な気持ちで国防軍を創設したいと願って行動するが、それに対し内務省出身者や一部の政治家たちが、自らの勢力の回復・維持・拡大などのために反対したことが述べられている。
 服部卓四郎大佐(陸士34期:元参謀本部作戦課長)がGHQの目を逃れ、いかに必死で大東亜戦争史料を収集し隠匿したか、また、国防軍創設のために尽力したかなど、大佐の行動を巡る出来事が実に詳細に描かれており、警察予備隊保安隊そして自衛隊がどのような経緯で成立したのかが、よく理解できる。証言記録も多数あり、説得力に富む。著者・阿羅健一は「20年間材料を温めてきたが、国防軍の創設が叫ばれるようになった今、初めてこれを世に出した」と述べている。
 この本の最後に、自衛隊の上級幹部を独占していた内務省出身者が、服部らが作成した『大東亜戦争全史』に続いて戦史研究を続けようとする旧軍人の動きに対して、  
「敗戦に終わった大東亜戦争には学ぶべきなにものもない。戦史研究とはもってのほか」 と言って反対したことが書かれている。この事実からも、私は、内務省出身の素人幹部が形だけ自衛官の制服を身にまとい、偏った考えのもとに自衛隊を導いてきたのではないかという疑念を抱く。
 防衛省は来年度から制服組も内局の重要ポストに就くことを検討しているようであるが、これまでの体制が改善されるのではないかと期待する。
 本の標題の『日本国防軍クーデター計画』は、売り上げを伸ばすために講談社が付けたものであろうが、内容を読むと、実際にはクーデター計画はなかったことが分かる。戦史編纂のために多忙で余計なことは考えられなかった。この作品の概要と若干のコメントを記述する。敬称は省略する。

第1章 松本清張の最後の仕事「服部機関」

 松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。
 服部はGHQの戦史編纂業務を任されていたが、裏でいわば『服部機関』を指揮して諜報活動をしていたのではないか、また、警察予備隊の総指揮官に予定されたが、なぜ実現しなかったかについても書きたかったそうである。服部は帰国当初から、新日本軍を国防軍と呼んでいる。
 著者は、平成2年から4年にかけて、元参謀本部第二部長・有末精三(ありすえせいぞう)中将(29期)と元作戦課員・井本熊男(いもとくまお)大佐(37期)から服部について話を聞いており、平成10年に南京への団体旅行で偶然知り合った大谷一枝(おおたにかずえ)曹長からも服部の下で働いていたときの貴重な証言を得ている。さらに大谷からは、佐藤公貞(さとうきみさだ)曹長谷内守男(たにうちもりお)という二人の下士官を紹介され、取材している。

 昭和21年5月23日、歩兵第65聨隊(会津若松の部隊)長であった服部は、部下を連れずに一人で、辰巳栄一(たつみえいいち)中将(27期)らとともに大陸から帰国した。服部の帰国は、戦史編纂に当たらせるためのGHQの命令だった。服部は対米作戦について最も詳しかったからである。
 復員省には史実部が立ち上げられていた。部長は宮崎周一(みやざきしゅういち)中将(28期)で、その下に天野正一(あまのまさかず)少将(32期)、細田 煕(ほそだひろむ)大佐秋山紋次郎(あきやまもんじろう)大佐(37期。のちに第2代空幕副長)、和田盛哉(わだもりや)中佐高木作之(たかぎさくゆき)中佐原 四郎(はらしろう)中佐(44期)、岩越紳六(いわこししんろく)中佐(44期)、田中耕二(たなかこうじ)中佐(45期。のちに空将)、舞 伝男(まいでんお)中佐たちがいた。同じ史実部だが、別の部屋に堀場一雄(ほりばかずお)大佐(34期)と橋本正勝(はしもとまさかつ)中佐(45期。のちに北方総監)がいた。服部を呼んだのは堀場であった。服部堀場は、西浦進(にしうらすすむ。のちに防衛研修所初代戦史室長で戦史叢書を編纂)大佐とともに、『34期の三羽烏』と称される秀才であった。服部は史実調査部員を命ぜられ、米軍の質問に答えるよう命令された。

第2章 焼かれていなかった機密資料

 昭和20年8月7日、外務省は重要書類を焼却することを決め、14日の閣議で日本に不利となる機密文書の焼却が決められ、その日から外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、内務省などで焼却が始まった。こうして、明治以来の政府資料の多くが焼かれた。
 それから8年後に服部著『大東亜戦争全史』が刊行されたが、そこには、大陸命(たいりくめい。大本営陸軍部命令)、大本営政府連絡会議決定事項などの多くが引用されていることが判明した。多くの有志が焼却したように装って隠蔽したが、大陸命は、清書係であった椎名典義(しいなのりよし)中尉が持ち出し、宮崎中将の命令で、参謀本部庶務将校の古野直也(ふるのなおや)中尉が8人のタイピストに複写させた。それは厚さ10センチで、30冊に及んだ。

 10月には合衆国戦略爆撃調査団が来て、焼却を免れていた史料を発見し没収、昭和21年1月には、八王子に隠していた大日記(だいにっき。陸軍省大日記)も没収された。昭和21年5月に服部が帰国してからは、GHQが「史料を不当に隠匿している者は厳罰に処する」と言い始めた。史料収集は危険な作業になったのである。しかし、服部はひるまなかった。
 大本営政府連絡会議議事録重要国策決定綴御前会議議事録などが見つかった。軍務課高級課員・山田成利(やまだなりとし)大佐の許可で、中根吾一(なかねごいち)少尉がドラム缶に入れ、八王子の自宅の地下に隠したものである。そして、それを原中佐が表紙を焼却し、偽装名を付して生家に隠した。服部はそれをもとに、戦争指導班にいた原中佐と橋本中佐に一大冊を作るように命じ、翌、昭和22年に東京裁判の清瀬一郎弁護人に届けられた。

 その後、作戦に関する発来翰綴上奏原文も見つかり、清瀬事務所で秘密裏に複写された。この間、史実部史実調査部になっており、その後は資料整理部になった。因みに陸軍省第一復員省になり、その後復員庁第一復員局となった。
 昭和21年11月、服部は米軍に呼ばれ、大陸命大陸指(たいりくし。大本営陸軍部指示)の複写の一部を見せられ、本文のありかを尋ねられた。なぜか復員局で最初に複写したものが流れていたのである。服部は「原本は焼却した」と答えるとともに、復員局にある原本は宮崎の松戸の自宅、写は杉並区にある兄の家に隠した。

 前年の昭和20年11月、関東軍の特務機関の名簿提出を故意に遅らせているとして、復員局主任の山本 巍(やまもとたかし)中佐を逮捕しに来た米軍の憲兵は、出張中であった山本中佐の代わりに、人事課長の榊原主計(さかきばらかずえ)大佐を逮捕している。したがって、服部に協力する者はあまりいなかった。米軍の対敵諜報部隊隊員の尋問に遭ったこともあった。保管場所はめまぐるしく変わる。
 服部は陸軍大学校教官の本郷 健(ほんごうたけし)大佐が自宅に隠していた史料を、本郷が中華民国の軍事顧問として台湾に渡る前に、すべて引き取った。大きなリュックを背負って歩いていた山下義之(やましたよしゆき)と大谷が闇米運びと疑われて警官に取り調べを受けたりした。

第3章 極秘・国防軍計画の全貌

 敗戦から2週間目の昭和20年8月29日、首相以下7名から成る終戦処理会議において、近衛師団から選抜した4千名による特別皇宮警察隊の創設を決めた。禁衛府(きんえいふ)のもとに特別皇宮衛士総隊が置かれ、最後の近衛第1師団長・後藤光蔵(ごとうみつぞう)中将(29期)が禁衛府長官となった。また、近衛歩兵聨隊長が第1皇宮衛士隊と第2皇宮衛士隊の隊長となった。しかし、昭和21年1月4日、将校が公職追放となって衛士総隊の将校はいなくなり、下士官と兵だけになった衛士総隊は機能しなくなった。そして2月13日に戦争放棄の憲法草案がGHQから示され、3月26日、皇宮衛士総隊は皇居の護衛を皇宮警察に委託して解散した。日本再軍備の芽が摘み取られたのである。
 しかし、服部は帰国後、一貫して再軍備の研究をしていた。井本大佐、堀場大佐、元支那派遣軍高級参謀の西浦大佐に声を掛け、服部、堀場、西浦の34期三羽烏が国防軍創設の核となった。そのほか、航空の水町勝城(みずまちかつき)中佐(41期)、軍事課の稲葉正夫(いなばまさお)中佐(42期)、戦争指導班の原 四郎中佐(44期)、ニューギニアから帰った田中兼五郎(たなかけんごろう)中佐(45期)にも声を掛けたが、彼らはいずれも陸大を優秀な成績で卒業している。井本と同じ第2総軍にいた山口二三(やまぐちじそう。のちに空幕防衛部長)少佐(49期)も井本から誘われた。

 マッカーサーは戦争中から戦史編纂を進めていたが、昭和21年11月に参謀第2部長のウイロビーが新しい責任者になると、同部に50人から成る戦史課を設けた。そして、編纂作業を進めているうちに、日本側から見た戦史編纂の必要性から、昭和22年3月、有末中将に相談してきた。有末は、共に米軍との窓口となっていた海軍の中村勝平(なかむらかつへい)少将と相談し、元参謀次長の河辺虎四郎(かわべとらしろう)中将(24期)を長として有末と中村が加わり、服部と海軍の大前敏一(おおまえとしかず)大佐が主任に就くという案を提出したが、ウイロビーは、河辺、有末、中村を顧問とし、元東大教授の荒木光太郎(あらきみつたろう)を責任者とした。主任は日本案どおりとした。

 編纂官は、陸軍からは史実調査部にいた者を中心に、杉田一次(すぎたいちじ。のちに陸幕長)大佐原 四郎中佐小松 演(こまつえん)少佐曲 寿郎(まがりとしろう。のちに陸幕長)少佐(50期)が選ばれ、遅れて加登川幸太郎(かとがわこうたろう)中佐(42期)、太田庄次(おおたしょうじ)中佐藤原岩市(ふじわらいわいち。のちに陸自調査学校長)中佐(43期)、田中兼五郎中佐が加わる。海軍からは大井 篤(おおいあつし)大佐千早正隆(ちはやまさたか)中佐が参加した。戦史編纂の場所は日比谷通りの日本郵船ビル3階であった。
 服部はここでウイロビーと仲良くなり、国防軍創設意欲を膨らませたが、ここの主任と市ヶ谷台の資料整理部長の両方掛け持ちとなり、忙しくなった。

第4章 GHQを手玉にとった女帝

 服部がウイロビーの信頼を得ることになった要件の一つに、荒木光子の引きもあった。光子は東大農学部教授兼経済学部教授であった荒木光太郎の夫人である。光太郎は反マルクス主義であったため、戦後復活したマルクス主義の大内兵衛(おおうちひょうえ)に大学を追い出された。そして、昭和21年4月に日本商工会議所専務理事に就いた1年後に、戦史編纂の長となった。
 光子は美人で男まさりであり、東條英機夫人の勝子とも親しい間柄であった。彼女は編纂の指揮を執り、経費の采配も振るった。ウイロビーと直接会えるのは光子だけであり、専用の車も持っていた。
 いっぽう、民政局次長のケーディス大佐は、鳥尾(とりお)子爵夫人鶴代(つるよ)と恋愛関係に陥り、日本人の中には、鶴代にケーディス大佐へのとりなしを頼む者もいた。しかし、昭和23年ころからは、日本弱体化政策から日本重視政策に変わり、ケーディスが進めていた民主化が見直されて、彼は帰国する。ケーディスは離婚し、鶴代の夫は亡くなり、代わりに莫大な借金だけが残った。

 マッカーサーの忠実な部下であるウイロビーは、戦争放棄には反対しなかったが、「国家が軍隊を持たないことなどありえない」という考え方で、昭和24年6月、斎藤 登(さいとうのぼる)国家地方警察本部長田中栄一(たなかえいいち)警視総監たちの前で、「日本は共産主義に対する防壁であり、軍備をここまで潰すことは、私は反対であった。これは連合国の一大エラーであった」と述べた。
 また、辰巳中将は、昭和25年ころ、ウイロビーが、「講和ができたら米軍は撤退することになる。そのときは、日本は自分の力で国を守らねばならぬ」と明確に述べたと、著者・阿羅健一に証言した。マッカーサーに次ぐ地位の第8軍司令官・アイケルバーガー中将やマッカーサーの後任のリッジウェイ中将も同様の考えであった。

第5章 国防軍に集まった軍人たち

 昭和20年12月1日に陸軍省が第一復員省になり(海軍は第二復員省)、省全体の采配を振るう文書課長に元陸軍省高級副官の美山要蔵(みやまようぞう)大佐(35期)が就き、総務局長に元軍務局長の吉積正雄(よしづみまさお)大佐が就いた。これが昭和21年6月に第一復員局総務部長となった際には、荒尾興功(あらおおきかつ)大佐が就いた。美山と荒尾は士官学校同期で、二人を中心に第一復員局が運営されていった。
 また、陸軍省が廃止される前に、米軍の命令で陸軍省軍務局に史実部が設けられ、陸軍省廃止とともに、史実部は第一復員省の一部局となった。史実部は昭和21年6月に史実調査部となり、昭和22年5月に資料整理部となった。
 ソ連は、昭和21年6月26日~8月7日の対日理事会で戦争調査会を取り上げ、これを解散させた。そして今度は12月2日の対日理事会で、「史実調査部など、復員と関係のない部課をただちに撤廃し、保存する書類はすべて最高司令部に差し出せ」と主張した。米国はやむを得ず、史実調査部の仕事を年内に終えるよう指示した。また、ソ連の批判をかわすために、将官を辞めさせることとし、後任の史実調査部長に服部が指名された。このときに籍を置いていたのは、次の幹部である。
 34期:西浦 進大佐・堀場一雄大佐、37期:秋山紋次郎大佐、39期:岡田安次(おかだやすつぐ)大佐、40期:宮崎舜市(みやざきしゅんいち)中佐・安崎 操(あんざきみさお)中佐、41期:水町勝城中佐・山口英治(やまぐちえいじ)中佐、42期:幸村健一郎(こうむらけんいちろう)中佐、43期:藤原岩市中佐・渡部長作(わたなべちょうさく)中佐・田島憲邦(たじまのりくに)中佐、44期:橋詰 勇(はしづめいさむ)中佐・原 四郎中佐・高橋 晃(たかはしこう)中佐・神 直道(じんなおみち)中佐、45期:橋本正勝中佐・田中耕二中佐(のちに空将)・深谷利光中佐・神田八雄(かんだやつお)中佐、46期:岩野正隆(いわのまさたか)中佐・久野清之介(くのせいのすけ)中佐、47期:小村谷康二(こむらたにやすじ)少佐、49期:山口二三少佐。
 やがて米軍からの要求が少なくなり、資料整理部時代から残っているのは、服部卓四郎、秋山紋次郎、水町勝城、原 四郎、橋本正勝、山口二三、顧問の堀場一雄、西浦 進くらいになった。彼らは国防軍創設を研究する私的集団の構成員でもあった。原、橋本、山口は、服部の戦史の検討、国防軍の研究及び『大東亜戦争全史』編纂に深く関わった。

第6章 旧陸海軍の対立

 日本の軍事史料は、防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室に収められているが、かつては、陸軍将校の親睦団体である偕行社(かいこうしゃ)にも貴重な史料が集められていた。平成に入って会員の減少が進み、偕行社は靖国神社に3万5千余の蔵書を寄贈し、同神社が元々持っていた1万5千余の蔵書と合わせて靖国偕行文庫として平成11年に開館した。
 その中に『日本再建・再軍備方策の研究史料綴 復員庁史実調査部内(服部グループ)原 四郎』というものがあるそうである。反省として、その中に最初に挙げられているのが、陸海軍の対立である。海軍は日本の戦力が開戦後2年以内に米国の4割以下になることを予想し、早期決戦を敵に強要しようとし、陸軍は、資源を確保し、長期の戦争を遂行し得る不敗態勢を築こうとした。

 ミッドウェイ作戦の実施は海軍が陸軍に伝えるだけで行われ、同作戦に敗れたのちも検討はされなかったし、海軍からガダルカナル島の救援を求められたときも、陸軍はガ島がどこにあるかも知らなかった。陸軍は太平洋の東正面は海軍担当と考え、この正面においては施策が控えめであった。
 航空機の製造にしても、三菱と中島では陸海軍の工場は分かれており、技術者や機材の融通もなかったが、昭和18年11月1日に軍需省が設けられてから、生産が一元的に行われるようになった。

 昭和23年2月に西独自治政府が成立し米ソの対立が激化すると、服部たちは第三次世界大戦勃発の危機感を抱き、『今後約十年に亘る内外情勢推移に関する観察』をまとめた。そして、ただちに部隊を編成できるように、国防軍指揮官の人選を始めた。その対象は士官学校30期代半ばから40期代半ばであった。そして、年齢、簡単な略歴、住所などを記した名簿を作成した。
 昭和24年に入ると、秋山紋次郎大佐、浦 茂(うらしげる)中佐、田中耕二中佐が研究に加わった。また、議題によっては、岸本重一(きしもとじゅういち)大佐、杉山茂大佐、野尻徳雄(のじりとくお)中佐、藤原岩市中佐、白井正辰中佐、天野良英(あまのよしふさ)中佐たちが出席した。ただし、復員局で再軍備を取り上げることは禁止されていたために、美山要蔵や荒尾興功が加わることはなかった。

 服部が昭和24年4月にまとめた『国防軍の中央機構(第一次案)』には、「国防軍は所謂国防軍であって、旧観念に依る陸・海・空の対立思想を完全に放棄したるものとする。従って其の機構も亦地上部隊、航空部隊、海上部隊を完全に一体化する如く簡素強力なるものとする」とある。また、昭和25年3月にまとめられた編制大綱では、「国防軍は空、陸、海の三軍より成り」と、空軍を最重視した。統帥権についても、「統帥は内閣総理大臣、内閣、政治の最高機関に帰属せしめる」とされ、軍事行政は文官大臣に任せ、空陸海に分けずに一人とした。

第7章 女スパイ・荒木光子の蝶報活動

 昭和20年10月4日、マッカーサーは日本の体制を壊すために、民主化の名のもとに治安維持法を廃止し、政治犯を釈放した。それをやったのは、民間蝶報局と対敵蝶報部隊を指揮したソープ准将だったが、昭和21年5月に反共主義者のウイロビー少将が着任してからは、この二つの組織を掌握したものの、いったん解き放たれた共産主義者の動きは止まらす、各地でデモ騒ぎが起きた。
 ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。

第8章 毀誉褒貶の軍人・辻正信


辻 正信(本書から)

 服部は辻を高く評価していた。昭和14年5月のノモンハンの戦いでは、関東軍の作戦主任参謀が服部で辻は作戦参謀であった。ノモンハンから2年後、参謀本部作戦課長の服部は辻を呼び寄せ、対米英戦の初戦で大勝利を収めるが、ガダルカナル戦で敗れ、作戦課長を解任された服部は辻と戦時中に会うことはなかった。
 戦後辻は、国民党軍で対共産党軍の作戦指導にあたっていたが、幹部の汚職などに嫌気がさし、服部の誘いかけもあって辞職し、英軍の追及が厳しかったことから偽名で帰国、秘密裏に手紙のやり取りや自宅訪問をしたが、昭和25年1月に追及が解除となった。
 辻は幼年学校及び陸軍士官学校を首席で卒業し、陸大においても御賜の軍刀を受けている秀才だが、毀誉褒貶の激しい人物であり、服部が辻を高く評価していたことについては、かなり疑問を感じる。
 ノモンハン事件を引き起こし、陸軍内における下剋上の風潮を助長し、また、その後も科学的視野に欠け、精神力中心主義を捨てなかった二人は、私は同罪であると思う。

第9章 GHQ内部の対立

 昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発したとき、米国は南朝鮮にわずか500人の軍事顧問団を置いているだけであった。その頃、札幌・仙台、東京、大阪、九州には4個師団・7万5千人がいたため、急遽九州から先遣隊が出動するが、日本占領軍は戦闘部隊から警備部隊に変更されていたために、簡単に撃破された。そこで今度は、東京と大阪の部隊が派遣されることになる。


コートニー・ホイットニー(本書から)

 当時の警察は、米国と同様に、国家地方警察と自治体警察に二分されていた。すなわち、市及び5千人以上の町村は自治体警察、それ以下の自治体は国家地方警察のもとに置かれていたが、それは日本の実情にそぐわないものであった。また、北朝鮮を支持する在日朝鮮人が数十万人いた。米軍が朝鮮半島に出たなら、日本共産党の蜂起、朝鮮人の騒乱、あるいは北方からのソ連軍の侵入という恐れが出てきた。
 朝鮮戦争勃発から十日足らずの7月上旬、マッカーサーは独断で警察予備隊創設を決め、7月8日朝、日本政府に書簡を手渡した。そこには、在日米軍と同じ7万5千人から成る警察予備隊の創設と海上保安庁の職員を8千人増やすことが書かれていた。当時、警察官は全体で12万5千人いた。
 現在のちょうど半数である。
 岡崎勝男(おかざきかつお)官房長官大橋武夫(おおはしたけお)国家地方警察担当国務大臣ホイットニー民政局長を訪問すると、国家地方警察と自治体警察は公安委員会の管理下とし、警察予備隊は政府直轄だという。また、警察予備隊は治安維持に当たるだけでなく、外国から侵略があればこれに対抗し、当面はカービン銃を持つが、将来は機関銃、戦車、榴弾砲を持つ。そのために軍事顧問団を派遣するという。
 しかも、立法処置だと野党の反対などで時間がかかるため、政令でやるよう命令された。大橋は斎藤 昇国家地方警察長官に命令し、斎藤は総務部長の部屋を創設事務所とし、加藤陽三(かとうようぞう)総務部長に準備を命じた。因みに大橋武夫は同姓同名の中佐(39期)とは別人である。

 米軍は、7月10日に文書を出した。「警察軍を9月15日までに創設し、3ヵ月後に4個の師団に改編して、抜けた米軍4個師団のあとを埋める」というものだった。ただし、警察軍では憲法草案に反するので、警察だと思わせるため、警察予備隊と称し、国家地方警察の募集に関わった参謀第二部公安課に管理させ、採用した者を国家地方警察管区学校で訓練させることとした。
 ウイロビー参謀第二部長は、マッカーサー指令が出たその日、越中島の旧東京高等商船学校に創設準備の連絡室を設けた。第1騎兵師団が朝鮮に出兵した二日後に空き家となっていた。
 警察予備隊創設に当たり、まずやらなければならないのが、幹部の人選であった。追放されている将校は採用できないが、専門家がいなければ、軍隊が烏合の衆になってしまう。実は、これより先の昭和20年9月18日、海軍省軍務局掃海部が設けられ、田村久三(たむらきゅうぞう)大佐が部長に就いて、1万9千人・391隻の掃海部隊が活動していた。海軍省が廃止されると第二復員省、さらに第二復員庁復員局運輸省海上保安庁と改編・縮小され、800人の将校は92人になって活動したが、この実績から、「警察予備隊に軍人を使うのは当然」と考えられた。

 警察予備隊の育成・指導は、参謀第二部がやるのか参謀第三部がやるのか問題になったが、偽装のため民事局がやることとなった。ただし、採用の実権はウイロビー少将が握った。ウイロビーは服部を総指揮官に決め、中枢の人選を服部に任せた。突然のことであったが、服部は承諾し、国防軍の研究をしてきた者を中枢要員として推薦した。西浦 進堀場一雄井本熊男和田盛哉水町勝城原 四郎橋本正勝田中兼五郎山口二三らである。すべて陸士・陸大を優秀な成績で卒業し、陸軍の中枢で働いてきた者ばかりであった。
 次いで、中堅指揮官の人選に入った。すでに3千名の名簿が準備されていて、それから500人を選んでウイロビーに提出した。部次長ブラットン大佐公安課長プリアム大佐も、服部らの登用に向けて動いた。ブラットン大佐は、昭和12年12月6日に解読した暗号電報によって真珠湾攻撃の危険を察知し、マーシャル参謀総長に知らせようと秘書官のスミス大佐に情報を渡したが、なぜかそこに留め置かれた。スミス大佐は中将にまで昇進するが、ブラットン大佐はそのまま留め置かれた。

 昭和25年7月17日、警察予備隊の大綱がGHQから政府に示された。拳銃や小銃を持つ治安警察隊で、全国を四管区に分け、本部長官が統括するというものであった。この日、関西と関東の米軍が朝鮮半島に上陸し、残るは札幌・仙台の師団だけとなって、警察予備隊の編成が急務となった。また、18日には、軍事顧問団長・シェパード少将が岡崎と大橋に首脳人事を急ぐように要求した。そして20日、政府は香川県知事の増原恵吉(ますはらけいきち)を警察予備隊の本部長官に内定した。また、服部は制服組の長に内定し、いつでも主要幹部を招集できるよう、準備した。

 ところで、警察予備隊創設の準備を進めていたのは内務省出身者であった。内務省は「官庁の中の官庁」といわれ、大学で最も良い成績の者が入った。警察を扱う警保局、地方行政を扱う地方局、河川や道路を扱う国土局などに分かれ、絶対的な権限を有していた。しかし、陸海軍が解体されると、次は内務省が睨まれ、昭和20年10月には、警保局や警視庁の特高(とっこう。特別高等警察)が廃止され、内務大臣以下各県の警察部長までと特高課員全員が罷面された。
 さらに、昭和21年1月には公職追放令が出され、地方局の主要官僚が追放された。追放された者たちは、血眼になって新たな地位を求めた。そして、外部に対しては結束するが、内務省出身者同士では激しい地位獲得のための争いもした。そこで大橋は服部の任用に対し、「旧軍人をパージ解除して使うことは許されない」と言って反対した。増原、加藤も大橋とともに反対した。占領軍の中でも意見が分かれた。
 警察改革について、警察を監督する参謀第二部長・ウイロビー少将は、従来の中央集権的機構を残そうとしたが、遅れてマッカーサーの配下に加わった民政局長・ホイットニー准将(戦前、フィリピンで弁護士をしていたとき以来、マッカーサーに好かれた人物)は、米国のように、二つに分けて公安委員会に任せ、政府の関わりを弱めようと主張し、マッカーサーの承認を勝ち取った。実はこれより先、公職追放のやり方で二人が争ったときも、ホイットニーが勝っている。
 次に警察予備隊で三度目の対立があった。昭和25年7月8日、ホイットニーは岡崎官房長官に、「警察予備隊は普通の警察ではない。内乱や外国からの侵略があったとき、それに立ち向かうべきものだ。だから警察予備隊の隊員には、さし当りカービン銃を持たせる。将来は大砲や戦車を持つことになろう」と述べ、ウイロビーには、「予備隊は軍隊ではない。治安部隊だ。日本民主化推進のためにも、公職追放中の元軍人を採用すべきではない」と主張した。吉田首相は増原たちの意見を採用しホイットニーと手を組み、ウイロビーと対立した。

 昭和25年8月9日、服部はシェパード少将から呼び出しを受け、自分が召集した西浦堀場橋本山口らと越中島に行ったが、示された内容は「旧軍人を不採用とする」というものであった。服部は「事態は変わったようです。私は手を引きましょう」と宣言し、椅子を蹴って会議室から退出したが、堀場、原、橋本は激高し、堀場は「吉田なんか斬り殺してしまえ」と叫んだ。事前の吉田からの直訴もあって、マッカーサーは「当面、正規将校は使わない」という決心をしていた。7月上旬に国防軍創設の動きが始まったが、早くも一ヵ月後にそれが潰えたのであった。

(第1回了)