『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第2回)

2013.11.2
村川 淳一

第10章 吉田 茂という名の壁

 昭和25年7月8日にマッカーサー書簡を手にしたとき、吉田は喜んだ。しかしそれは、警察予備隊を治安維持部隊と捉えたからである。再軍備には反対であった。一方で、吉田が駐英大使をしていたときの駐在武官であった辰巳栄一を呼び寄せ、軍事のことについては素人の吉田に、専門家として助言を依頼していた。吉田は辰巳に部隊中央本部長になるよう依頼したが、辰巳は断った。服部の就任が流れたあと、内務官僚で宮内庁次官の林 敬三(はやしけいぞう)に決まりかけていたときである。
 辰巳は吉田に、「元大佐クラスの採用が必要です」と説いたが、「私は旧陸軍にさんざんいじめられた男だよ」と拒否された。二・二六事件のあと外相に吉田の名が上がったが、朝日新聞の下村 宏(しもむらひろし)副社長の名が出るに及んで陸軍大臣・寺内寿一(てらうちひさいち)大将が入閣を拒んだが、同事件後実権を握った軍事課高級課員の武藤 章(むとうあきら)中佐が、大臣代理の資格で組閣本部に出向き、吉田と下村の入閣を拒んだ。吉田らが身を引き、寺内が辞退を撤回し、この件は収まった。
 直後に駐英大使になった吉田は、日独防共協定にも反対し、昭和14年に国家機密が漏れた際に、政治上層部が疑われ、吉田は親英米派の一人として憲兵の監視を受けるようになった。ただし吉田は、寺内正毅元帥、田中義一総理大臣、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、前掲の辰巳中将らと親交があり、必ずしもすべての軍人を嫌っていたわけではなかった。ただ、憲兵に監視されたことから、その頭目とみなした東條英機大将を最も嫌った。実際には、東條は吉田をどうこうしたことはないが、服部らは東條グループとみなされたのであろうと著者は言う。

 昭和25年8月4日、米軍から早急に警察予備隊員を募集するよう督促があり、13日から募集が始まった。部隊の編成は、軍事常識では上から下に行くのだが、服部らが協力を拒否したため、下から始まった。そして9月末には7万5千人の合格者が決まった。司令官、師団長、連隊長もいなければ、小隊長もいない。すべて二等兵だった。
 第1回目の入隊者7千数百名が8月23日に警察学校に入り、その後続々と入隊者が送りこまれた。警察学校では、とりあえず中隊、小隊、分隊を編成し、仮の中隊長、小隊長、分隊長を任命して米軍基地に送った。米軍は、改めて部隊長を選んだ。英語を話せるだけで部隊長になれる。日を置かずに、中級・上級幹部に昇進する者もいた。一般隊員から選ばれていた中級・上級幹部は解任された。
 隊員として入隊した、あるNHK記者などは、2ヵ月の間に、二等兵から大尉、中将級の軍団司令官、師団長、連隊長、連隊付将校、少尉と、過激な昇進と降格を経験した。
 10月12日に合格者全員が米軍基地に入った。米軍の将校は当初三十数名、下士官はわずかであった。年末には将校が約60名になったが、それでも足りなかった。暮れにカービン銃が全員に手渡されたが、教範もなく、通訳にも手間取った。何よりも教官の人数が足りなかった。臨時編成の隊長は文官で、指揮はできないし、兵器の使用方法も分からない、全くの烏合の衆であった。
 遡って7月20日、警察予備隊本部長官増原恵吉次長江口見登留が決まり、8月には石井栄三(いしいえいぞう)警務局長以下が決まった。警備課長後藤田正晴であった。すべて内務省出身の警察官僚である。9月初旬には部隊中央本部長に林 敬三が就任しようとしたが、米軍参謀第二部は全員が「その資格がない」と反対した。しかし、吉田がマッカーサーに訴えて10月23日、やっと林に決まった。
 後藤田と内務省同期の海原 治は後藤田と入れ替わりに内局に入ったが、入隊を拒否された将校を指して「彼らは失敗したんだ。その失敗の責任者は引っ込んでいろというのだ。同じ失敗するなら、彼らが失敗するよりボクらが失敗する方がまだマシじゃないか。しかもそんなこと言っている連中なんか決して尊敬に価(あたい)するような人はいなかったな。われわれの判断では」と述べている。

 ドイツでも国防軍は解体されたが、すぐに再軍備の話が持ち上がり、昭和23年、アデナウアー首相は、安全保障のために、ホイジンガー中将シュパイデル中将を顧問に任命した。そして、日本に警察予備隊が創設された昭和25年10月5日には、彼らに再軍備の検討を命じた。この2名を含んだ15名の大将から少佐までの要員により五日間で作成された再軍備基本案が首相に提出され、昭和30年に連邦軍が創設された。旧軍人は連邦軍の中心となった。

第11章 内務官僚の大罪

 昭和21年6月、吉田内閣のもとで憲法改正案の審議が始まったが、吉田は自衛を含めたすべての戦争を否定した。朝鮮戦争が始まっても、再軍備を否定し、代わりに米軍の常時駐留を提案した。昭和27年1月、李 承晩ラインが設定され、我が国の漁船が拿捕され、船員が射殺されても動かず、米軍に拿捕された漁民の返還を依頼しただけであった。また、竹島が占領されても動かなかった。
 新聞の世論調査では、半数以上の国民が再軍備を支持しているのに、しようとしなかった。朝鮮戦争で米軍に要請されて、南朝鮮周辺海域における機雷除去のために海上保安庁から掃海隊を出したが、それを秘密にするよう命じた。しかもこの際には一人死亡、18人が重軽傷を負っているが、公表されたのは30年後である。当時の掃海隊指揮官は、命令に逆らって帰国した。

 米軍は文民統制について、「警察予備隊の頂点に立つのは文官の本部長官で、本部長官に助言するのは文官の首脳部と武官の幕僚である。組織は分かれ、文官首脳部は予算や政策を受け持ち、武官の幕僚は部隊の運用や作戦を担当する。部隊の最高指揮官たる部隊中央本部長は武官で、本部長官の指揮下にある」と説明したが、将校を排除したために、部隊の最高指揮官には軍事に素人の内務官僚出身者が就いた。文官首脳部の100名も内務官僚出身者が占めた。武官の幕僚たる総隊総監部の700名も官僚で占められ、本格的に軍事を学んだ専門家はいなかった。狂気の沙汰である。
 コワルスキー大佐「その能率は絶望的なものがあった。内局に勤務する者と総隊総監部に勤務する者の唯一の相違点は、後者が制服を着ていることだけであった」と述べている。かつての将校は「大砲の動かし方も、号令の掛け方も、ましては飛行機には乗ったこともないようなズブの素人ども」と評していた。
「警察予備隊の最終的な権限は文官の本部長官にあり、部隊を指揮する部隊中央本部長はその指揮下に入る」という『文民統制』について増原、大橋、加藤は理解できず、「警察予備隊には将校を入れないので文民統制を謳う必要はない」と、とぼけたことを言った。旧軍人が入ってきて、自分たちの地位が脅かされることを恐れたためである。その後、やっと憲法66条に文民統制の文言が入った。

 やがて、警察予備隊が機能しないため、士官学校40期生以下を採用したが、43期の白井正辰中佐は、軍務課国内班長時代の内務省に対する折衝要領がよくなかったということで内局から入隊を拒否された。将来は陸軍大臣が期待された人物である。昭和27年4月28日に日本独立後の4月30日、大橋は、「追放された旧軍将校がすでに警察予備隊内に入隊しているので、彼らを完全に統制するためにも、顧問団の支援が不可欠であり、林総監も同様の考えである」と、とぼけたことを言った。自分たちの権益を米軍に護ってもらおうというのである。他方で林総監は、岩越伸六中佐を秘密裏に傍に置き質問をして、自らの軍事的素養のなさを米軍にバカにされないために利用したのである。

 警察予備隊員の募集に当たっては、吉田が「質のよい者を採用するため、金を惜しむな」と指示したために、初任給は5千円、2年間勤務した後の退職金は6万円という好条件で募集が始まった。当時の警視庁巡査の初任給は3,991円、国家警察巡査のそれが3,772円であり、衣食住がタダで5千円貰え、退職時に6万円貰えるというのは、いかにも好待遇であった。この破格の待遇に米軍が反対し、折衝の後に初任給が4,500円となった。

 米国は、MSA(相互安全保障法)により、軍備を強化する国に経済面と軍事面の援助を行った。英・仏はこの援助を受けた。吉田は「防衛力強化を強制される」と躊躇したが、改進党が自衛軍の創設を強く主張したこともあり、4千万ドルの兵器が無償供与され、1千万ドルの贈与を受けて兵器生産設備の整備を行った。

第12章 警察予備隊か国防軍か

 警察予備隊が軍隊であることは国民の認めるところとなり、服部らは国防軍創設の研究を継続した。
 そして昭和26年早々、『日本再建要綱』『新軍構想骨子』などがまとめられた。この頃から国民は自由に国防を論ずることが許可されるようになった。戦後初の総選挙で、鳩山一郎日本自由党が第一党となったが、組閣直前に本人が公職追放となり、代わりに吉田が組閣した。吉田が首相の間は国防軍創設を望めないので、服部らは鳩山に働きかけることにした(堀場が鳩山を知っていた)。
 昭和26年1月初旬、服部らが出した結論は、「①日本の防衛は国連軍に頼ることがあっても、最小限の防衛力を建設すること、②講和の中心点は独立条約か属国条約かにあること、③軍事基地の提供はできるだけ避けて、国の主権が侵されないようにすること」であった。そして1月23日に、『講和会議に於ける問題 軍事に関する考察』が堀場から鳩山に渡された。

 昭和26年1月25日にダレス大統領特使が来日した。26日に鳩山とダレスの会談が実現した(追放は事実上解除されたようなものであった)が、前日すでに吉田がダレスに再軍備の密約をしていたので、鳩山との会談に進展はなかった。
 一方、ウイロビーは服部の計画を実現させようと考えていた。服部の部隊中央本部長就任が流れて、日本側が林 敬三を指名したが、ウイロビーは反対し、再び服部を推したが、実現しないまま、6月に帰国した。服部らは、警察予備隊が日本軍の反省の上に立ったものではなく、軍隊組織とはかけ離れたものであるため、警察予備隊の在り方を厳しく非難するようになり、堀場も吉田を許さなかった。そこで、彼らが吉田首相を倒すクーデターを計画していると見られるようになる。このことが、本書の標題として掲げられる要因になったのであろう。

 警察予備隊が編成されて半年後、シェパード少将ジョンソン陸軍次官補に次の報告を行った。  「大隊以下のレベルでは指導体制が整っているが、それ以上は弱体である。予備隊の最大の弱点は指導力であり、これを改善するにはパージとなっている旧軍将校、特に大佐クラスを使う以外にない。加えて、予備隊の上層部が警察官僚によって占められている現状も問題であり、官僚出身者を除去することが必要である」。
 吉田はついに、このままでは予備隊が機能しないと覚って、マッカーサーの許可を得て正規将校の導入を決めた。「将校を使わない」という方針が半年後に撤回されたのである。早速、陸士58期を入隊させることにした。この期は昭和20年春に卒業し、戦闘にはほとんど参加していないことから、昭和25年10月に公職追放が解除されていたのである。昭和26年3月に特別募集が始まり、6月1日には245名が採用された。
 5月23日、マッカーサーに代わってリッジウェイが長となったGHQでは、日本政府に「旧軍将校によって警察予備隊が指導されることを強く望む」という申し入れをすることを決めた。当時の米軍の調査結果は「予備隊本部の上級幹部は専ら警察官僚であり、部隊にも質の良い将校は不在で、軍団レベルの司令部が存在せず、装備と兵器の水準からして国内騒擾に対処する能力は有するものの、外国からの攻撃に対しては戦術運用が不可能である」というものであった。

 ここで、増原長官は明治36年生まれ、石井警務局長は明治40年生まれであり、自分たちより高齢の者は採用をしたくないため、陸士40期以降の中佐・少佐400名の入隊を決めた。明治40年生まれは陸士40期であるから勘定がしやすい。「採用が決まった者は公職追放を解する」というものであった。しかし、40期から53期までは6千名余りもいて、誰に招請状を送っていいのか分からない。
 そこで再び旧軍上級幹部に相談せざるを得なくなって、下村 定大将辰巳栄一中将額田 担(ぬかだひろし)中将服部卓四郎大佐美山要蔵大佐新宮陽太(しんぐうようた)大佐たちが集まった。その結果、人事局補任課・高級課員であった吉江誠一(よしえせいいち)中佐と課員であった小林友一(こばやしゆういち)少佐が名簿を作成することになり、1,700名の中佐と少佐に手紙が届けられた。
 手紙を受け取った者たちは当惑し、「はい、そうですか」とは言わなかった。特に40期から45・46期にかけて批判が起こった。結局900名が応募し、406名が採用された。和田盛哉中佐で復員し、大佐として久里浜の総隊学校に入ったが、初年兵の基本教練を2ヵ月もやらされた。大佐が何をすべきかを予備隊首脳はまったく理解していなかった。

 9月下旬、54期から58期までの大尉と中尉の募集を行った。予備隊を辞職する者が多く、中堅・初級幹部は不足していたのである。12月1日には407名が採用された。
 予備隊の首脳は、治安警察の方向だけ向いていて、防衛に関する知識も意識なく、入隊した中佐・少佐の能力を生かそうともしなかった。また、他省出身者も含めた寄せ集め部隊で指揮統制が取れていなかったため、昭和27年春、辰巳は吉田に大佐級を入隊させるよう進言した。大佐は34期から39期までなので、増原より年上に当たった。
 吉田が大橋に大佐級の入隊について述べると、内務省出身者は一斉に反対した。増原は「長官を差し置いて部外者が幹部の人事を左右するとは何事か」と怒った。警備課長兼調査課長・後藤田正晴も「部外の者が総理に直結して、予備隊の人事に容喙(ようかい)するとは怪しからん」と憤慨した。人事局に戻っていた加藤陽三も「佐官クラスといっても、中・少佐クラスと大佐クラスでは大きな差がある。部隊幹部要員に旧軍人を採用せざるを得なくなった時にも、少・中佐クラスまでならまあよかろうということになったんだが、大佐級はあくまで入れない方針だった」と反対した。
 しかし、彼らは「首相の決定だ」ということで、それに従うことにした。増原が辰巳に人数を尋ねると、30名という回答であった。増原が「問題にならぬ。自分は10名と聞いている。軍人は6名、残りの4名は大佐クラスの文官を入れる」と言うと、辰巳は怒った。結局、陸軍から10名、海軍から1名ということで決着した。辰巳は服部のところへ相談に行った。服部自身は入隊を固辞した。入隊した大佐は、34期:岸本重一、35期:松谷 誠、36期:杉山 茂、37期:井本熊男・杉田一次、39期:細田 煕・高山信武たちであり、彼らは年齢が増原よりも上であることに、ためらいもあった。

 昭和27年7月14日、中・少佐225名と大佐11名の入校式が総隊学校で行われた。その後、米軍式の訓練が2ヵ月ほど実施されたが、訓練の途中、大橋と後藤田が来て、大橋が全員の前で「敗戦の責任は君たちにある。二度と国を誤ることがあってはならない」という訓示を垂れた。岸本大佐の証言によると「竹下正彦中佐(42期)が反論し、大橋は黙ってしまった。一同、溜飲を下げた」そうである。
 警察予備隊は10月15日、保安隊と名称を変えた。
 中村龍平少佐(49期。のちの統幕議長)は「入ってみると、内務官僚が牛耳っていて、やっているのは治安警察だけだった。組織は米軍と同じで、スタッフはG-1(人事行政)、G-2(情報)、G-3(作戦・運用)、G-4(兵站・技術)となっていたが、作戦という言葉は使われず警備という言葉が使われた」と回想した。堀江正夫少佐(50期。のちの西方総監)は「私が防衛担当を命ぜられ、防衛計画を考えることになったが、警察予備隊には防衛計画などないから、計画書を作ったり、企画をしたりするわけではなかった」と回想している。

第13章 『大東亜戦争全史』の秘密

 米国は、早くも昭和18年8月、各地で戦っている軍司令部に軍事史編纂の通達を出した。昭和20年8月15日、千人を越す軍人・民間人から成る合衆国戦略爆撃調査団が組織され、10月~12月の間来日し、聞き取り調査が行われた。それは海軍を含め戦争指導の分野まで行われた。証言したのは、近衛文麿、小磯国昭、鈴木貫太郎、畑 俊六、永野修身、米内光政、梅津美治郎、福留 繁らの軍人や経済人、合計700名に達した。
 我が国にも戦争調査会というものができて、昭和21年2月26日から調査が始まった。しかし、前述のようにソ連からクレームが出て、9月30日にこれが廃止された。以後は復員省でひそかに作業が行われることになった。史料収集を行ったのは、服部である。
 作戦記録の収集も大切な仕事であった。昭和20年暮れ近く、谷川一男少将田中耕二中佐、中村龍平少佐、小村谷康二少佐を召集し、泊まり込みで大陸命・大陸指などをもとに、1週間で書き上げた。昭和21年5月に服部が復員すると、8月にそれをまとめ上げ、真田穣一郎少将、堀場一雄大佐、原 四郎中佐、橋本正勝中佐に回覧して、『大東亜戦争に於ける大本営陸軍統帥史』として完成させた。
 また、昭和21年1月に復員した杉山 茂大佐は、百日間かけて『東部ニューギニア作戦史』を完成した。さらに堀場は、昭和23年7月に『支那事変戦争指導史』を脱稿、昭和25年9月に『満洲事変正統史』を書きあげた。
 服部たちは、マッカーサー戦史に関わったお蔭で、米軍史料が楽に手に入るようになった。出来上がった原稿は日系二世のクラーク河上が翻訳した。開戦経緯は大井 篤海軍大佐が執筆したが、米軍の文章と差し替えられ、服部が書いた特攻も削除された。それは昭和26年初めに完成した。
『大東亜戦全史』は服部の名前で刊行されたが、西浦、堀場、秋山、水町、稲葉、藤原、原、田中、橋本、山口、井本の11名も関わった。一級の資料を使い、政戦略を浮き彫りにし、対米英の戦闘を全戦域にわたって記述したのは、本書が初めてであった。米国防省も感嘆し、世界各国で翻訳された。

第14章 史実研究所の狙い

 昭和27年5月に資料整理部資料整理課になった。すでに復員局から将官は辞めており、服部は原にあとを頼んで8月に戦史課を辞め、12月に復員局を辞めた。しかし、研究は継続し、昭和28年12月に『国防軍の中央機構に関する研究』をまとめた。
 服部は、昭和27年9月に市ヶ谷の砂土原町に750坪の土地を求め、家を建てて、昭和28年4月に『史実研究所』の看板を掲げた。『大東亜戦全史』はそのころに刊行された。かつての将校たちは、日本が独立すると偕行社を作って結集し、史実研究所は毎月の講演会などのために会議室を提供した。士官学校34期生の集まりである『二金会』も、毎月ここで開かれた。そのほか、服部との軍事情報の交換などのために『二水会』が毎月開かれた。服部の金回りの良さは、荒木光子らのお蔭であったのか・・・。

 井本大佐は服部の勧めで予備隊に入ったが、「井本は服部一味だ」「あいつは服部グループの一番の悪者だぞ」という内務省出身者の悪口が聞こえてきた。井本の入隊に反対した同期生が、内務省出身者の差し金だということも分かった。それでも、服部は周りの者に入隊を勧めた。そのころ、服部には内務省のスパイが近づいてもいた。
 昭和29年7月1日に自衛隊が発足した。国防軍の創設を進めてきた服部は、昭和30年に「今になって自衛隊を御破算にすることは空論であって現実的ではない。今後の日本の努力は、いかにしてこの自衛隊を改善強化して、最少にして精鋭なる日本の自主的軍備に持っていくかという一点にあると考える」と述べている。
 空軍については、昭和25年春ころから、谷川一男・三好康之・原田貞憲少将と、服部・秋山紋次郎大佐及び田中耕二・浦 茂(うらしげる)中佐が研究し、『航空戦力創設に関する意見書』を作成していた。海軍においても空軍の研究は進められており、合同研究の末に航空自衛隊が発足した。航空自衛隊には、秋山水町田中が入隊した。

 三幕を調整する機関が必要となったが、この機関に指揮権など強い権限を持たせようとする改進党に対し、自由党は調整だけの限定機能しか与えようとしなかった。そして、自由党の主張が通った。また、首相の諮問機関として国防会議の設置が提案され、改進党は下村 定たち旧軍人を入れることを入れることを考えていたが、自由党の反対でかなわなかった。
 昭和29年12月、吉田が退き、鳩山一郎が首相になった。鳩山が率いる日本民主党は、第9条を改正し自衛軍の創設を訴えていたので、完全に風向きが変わった。昭和30年3月に第2次鳩山内閣で防衛庁長官になった杉原荒太(すぎはらあらた)は、服部に国防会議の設置について意見を求めた。杉原が服部を防衛庁に招いただけで、大橋らは「軍人が集まって謀議をしている」と騒いだ。元陸軍作戦課長の服部と元海軍作戦課長の大前敏一が、国防軍の一元的な運営を求めたが、海軍の中には、「敗戦の原因は陸海軍の対立ではなく、科学の遅れや物資の不足であった」という意見や、陸軍を毛嫌いする者もいた。
 昭和30年5月、鳩山内閣は『国防会議構成法案』を提出するが、7月に不成立となり、杉原が辞任し、砂田重政(すなだしげまさ)が就任した。砂田は、国防省への改組を提案し、旧陸海軍人の各7名を顧問に迎えた。ところが信じられないことに、内局には「三自衛隊が一つにまとまると謀反する力が強くなるので、相互に反目牽制させておいたほうがよい」と言う者もいた。
 日本民主党は第一党となったが過半数に達しなかったため、昭和30年11月15日、自由党と合併して、自由民主党となった。このときの政策・綱領で「自衛軍備を整える」ことが規定された。
 昭和31年7月2日、国防会議に民間人を入れないことで発足した。事務局長として政府から服部の名前が出たが、防衛庁幹部や自由党系議員は反対した。軍隊のことをよく知っている服部を排除し、自らが主導権を握りたいがためである。また、「服部の系列は自衛隊に入っても上に行けない」と防大生が噂した。同年9月から陸自幹部高級課程の教育が始まり、服部と西浦が、海軍については大前が担当して、意見を述べる機会を得た。

第15章 再軍備の日

 昭和27年4月28日に日本が独立を回復すると、軍人の追放が解除された。辻 正信大佐、宇垣一成大将、野村吉三郎海軍大将、保科善四郎海軍中将、堀内一雄少佐、真崎勝次海軍少将、松村秀逸(まつむらしゅういつ)少将、大谷藤之助(おおたにとうのすけ)海軍中佐たちが国会議員となった。
 服部は政治家になる気はなかったが、鶴岡市長にという話があった。軍人の追放が解除されると、自由に集まれるようになり、昭和30年に『日本戦友団体連合会』としてまとまり(会員数24万人以上)、昭和31年に『日本郷友連盟』と名称を変更した。服部は同連盟に当初から関わり、国防の基盤として育てようとした。
 服部は『大東亜戦争全史』の編纂を終えると、国家によって本格的な大東亜戦争史が編纂されることを願った。杉山 茂らは戦史編纂の研究機関立ち上げを訴えたが、米軍が反対し、内務省出身幹部も「敗戦に終わった大東亜戦争には学ぶべきなにものもない。戦史研究とはもってのほか」と反対した。
 それでも、昭和30年7月、防衛庁に戦史委員会が設立され、8月に、名称は『戦史室』、所属は陸自幹部学校となった。10月20日、西浦 進が室長となって正式に発足した。人員は十数人であったが、内務省出身者は「この原爆時代に鉄砲、竹槍の大東亜戦争を研究して、今更何の役に立つんだ。まるでドブに銭を棄てるようなものだ」と、戦史室員に聞こえるように言った。そして、昭和40年を目途に戦史の編纂を終えることが決まった。
 西浦は「戦いに敗れたときの戦史ほど大切なものはない。この戦史編纂の事業は、自衛隊の将来のため、さらには日本の将来のためにきわめて重要な事業で、いまのうちにやり遂げなければならない」と言って部下を引っ張っていった。昭和31年4月、戦史室は格上げされ、防衛研修所所属となった。史料も充実し、市ヶ谷台に史料庫を造って移ることになった。また、米国から没収されていた史料が返還されることになった。取り敢えず、受け入れ作業が容易だということで、芝浦駐屯地の音楽隊が使用していた二階建て倉庫の片隅に移動した。昭和33年4月に史料が返還され、その数は4万点にも及び、陸軍省大日記も含まれていた。このころから、マイクロフィルムが使用され始め、複写作業が非常に楽になった。

 昭和35年4月29日夜、服部は自宅で突然倒れ、そのまま昏睡し、30日未明に亡くなった。以前から高血圧症を患っていたという。服部が亡くなってからは辻(当時参議院議員)を諌める者はいなくなった。辻はその後、ラオスで行方不明となったが、兄のように敬慕していた服部が亡くなったことで、自分の死に場所を求めたのではないかと言う人がいるそうである。

おわりに

 服部卓四郎大佐は、辻 正信大佐とともに、関東軍作戦主任参謀時代に多大な犠牲者を出した  ノモンハン事件を引き起こした中心人物であり、参謀本部作戦課長になった服部が辻を呼び寄せたのちのガダルカナル戦においては、敵の兵力を見誤って戦力の遂次投入をして多くの犠牲者を出した。
 また、辻は関係していないが、大東亜戦争末期、絶対国防圏に兵力を注ぎ込まなければならない時期、東條陸軍大臣秘書官から参謀本部作戦課長に返り咲いた服部は、絶対国防圏に兵力を送るのを遅らせ、支那大陸で大陸打通作戦を行った。これは、「勝ち戦をしたい」ということ以外は、ほとんど意味のない、無駄な作戦であった。さらには、悲惨な結果を生んだインパール作戦を決定したときの作戦課長でもあった。
 多くの汚点を残した服部であるが、「大東亜戦争戦史をこの世に残したい」として、必死の努力をしてきたことには、心から敬意を表したい。

(第2回了)