第1部 日本海海戦/日露戦争(その2)
イギリス様々―日英同盟が導いた日本海海戦の大勝利

笹本 憲一

 日英同盟が日露戦争における日本の勝利に大きく貢献した点は広く知られていますが、日本海海戦の大勝利は英国とその海軍の全面協力のたまものといっても過言ではないと言えます。本当に「イギリス様々」といってもいいくらいお世話になっている事実をご紹介します。


① 装甲巡洋艦春日、日進の購入…親日国アルゼンチンの協力

 当時日露の関係が一触即発状況だったことから世界の武器商人たちは日露双方に商売を働きかけていました。『明治36年10月にイタリアの造船所から東京麹町の某氏(誰かは不明)宛に「建造中の巡洋艦2隻を208万ポンドで買わないか」という電報があり、その2ヵ月後英国のギブス社から「アルゼンチン巡洋艦2隻が153万ポンドで売りに出ている」という情報があった旨、駐英武官玉利海軍大佐から齋藤海軍次官宛に急電があった。さらにその10日後イタリア駐在山綱全権大使からも小村寿太郎外相に同様の情報が入った。
 海軍省はロンドン駐在の玉利大佐、パリ駐在の竹内大佐、ベルリンに居た鈴木貫太郎中佐、また、ロンドンの松尾造船大監、岩本大佐にジェノバ入りして2隻の詳細な調査を命じた。その結果両艦は当時世界最高の性能を持っており、その主砲の射程は2万メートルにも及ぶことが分かり即購入を決意した。ギブス社はロシアにも購入を働きかけていてこのときロシアとは妥結寸前だった。12月23日、小村外相はロンドンの林薫全権公使に2隻を言い値の153万ポンドで仮契約を結ぶよう指令している。
 さらにブラジルの堀口臨時代理公使にも電報が打たれアルゼンチンに行って軍艦購入の了解を取るよう指令が出た。堀口公使は即アルゼンチンに急行してクリスマスの夜半にドゥラゴ外相宅で了解を求めたがすでにアルゼンチンは英国を通じて日本側の希望を知っており、事前の会議で日本を支持することを決めていた。当時アルゼンチンは英国と友好関係にあり、また時の海軍大臣は日本を訪問したことがあって大の親日家だったことも幸いしたと思われる。当時アルゼンチンは隣国チリと国境線問題で紛争中にあり、英国の仲介で和解協定を結んでいたが、これには海軍力削減の条件がついていて両国とも建造中も含め新規の軍艦の入手を禁じていた。よってアルゼンチンもイタリアで建造中の巡洋艦の売り手を捜していた』というのが真相です。 (「日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言」マヌエル・ドメック・ガルシア著)
 このような経緯でイタリアのジェノバで建造中のアルゼンチン装甲巡洋艦リバダビアとマリアノ・モレノは日本に売却され、それぞれ「春日」「日進」と命名されて日本海海戦では第一戦隊の5番艦6番艦として大活躍しました。英国だけでなく、アルゼンチンの協力も忘れてはいけないと思います。


「装甲巡洋艦 春日」 25センチ砲一門と20センチ連装砲
一基を備え、その射程は2万メートルという当時最新鋭の
艦であった

1919年マルタで撮影された「装甲巡洋艦日進」。春日と
同形艦だが20センチ連装砲を前後甲板に二基備えている。
海戦では殿艦だったためかなりの命中弾を喰らって中破した


② 装甲巡洋艦春日と日進の暗黙の警護―英国及び英国海軍の協力

 さて、高性能巡洋艦を購入したまではいいのですが、これをイタリアから日本まで無事に回航するという難題が残りました。途中での石炭や水等の補給の問題もありましたが、特に地中海ではロシア海軍の巡洋艦や駆逐艦、水雷艇がうようよしていて、ことあれば春日・日進の日本回航を妨害しようと手ぐすね引いて待っていたようです。日本の二艦には甲板部をイギリス人、機関部をイタリア人の合計400人が乗り込み、イギリス海軍のリー予備役少佐とペインター予備役大尉が艦長を引き受けました。なお、1月5日に現地の松尾大監から「両艦の外舷を地中海のイギリス海軍の色と同じ鼠色に塗った」と連絡があり、これがきっかけかどうか不明ですが同10日に海軍は「全艦艇は速やかに黒一、白三の割合で濃鼠色に塗り替えるべし」という艦隊長官命令を出しています。実際この色は海上戦闘時に敵からは艦形等の識別がしににくく有利で、逆にバルチック艦隊は黒色塗装の艦に黄色の煙突というきわめて目立つ色で塗装されており遥か遠方からもロシア艦と分かる信じられないことをしています。
 両艦には鈴木貫太郎中佐も同乗しており、後にその自伝で、「地中海の島影からイギリスの新鋭一等巡洋艦「キング・アルフレッド」が二艦にそっと付いて来た。キング・アルフレッドは春日・日進を快速で追い抜き、先の方を進んでいたロシア艦隊の後ろに回りこんだ。それでロシア艦隊、イギリス艦隊、日本の軍艦という形で地中海を歩くことになり、間接的に我々を保護してくれた」と言っています。また、「ポートサイトでロシア艦が石炭を積み込もうとしたときも、イギリス政府の指示で会社側が、ここの石炭は全て日本軍艦に積み込む予定のものなのでロシアへの積み込みはその後にしてもらいたいと言ってくれた。おかげでこちらが先に出発することができた」と記述しています。
 イギリス巡洋艦キング・アルフレッドはインド洋まで日本艦と行動をともにした後、目的地のオーストラリアに向かいました。このように春日・日進の購入と日本への回航ではイギリスは同盟国として最大限の協力をしてくれました。



イギリス海軍装甲巡洋艦キングアルフレッド。インド洋
まで春日と日進をそれとなく護衛してくれた。感謝!!




③ バルチック艦隊(正式には第二太平洋艦隊)への様々な嫌がらせ

 明治37年10月、バルチック艦隊はリバウ港を13日に出港する予定が荷物積込の遅れや、14日の出港時に戦艦シソイウェルキーが曳船のミスで艦首左舷の錨鎖が36メートル引き千切れこれを回収するのに手間取ったりと、なんと2日も出港が遅れるというドタバタを演じました。そもそもバルチック艦隊―第二太平洋艦隊は新鋭艦と老朽艦を急遽寄せ集めて突貫編成されたもので、おまけに水兵や士官の質的レベルは最悪と言っていいくらいお粗末でした。水兵の中には一度も艦隊勤務の無いものや老齢の予備役、また囚人まで含まれていました。
 このような艦隊は対馬への航路でさんざんな失態、事故、果ては艦内での暴動等を繰り返しロジェストヴェンスキー提督(以後ロ提督と略します)を半ノイローゼ状態にしてしまったようです。後で詳述しますが出港7日後の10月22日の午前零時45分にイギリスとデンマークの間辺りにあるドッガーバンク礁でイギリスの漁船団を日本の水雷艇部隊と誤認して大砲を撃ちまくり、イギリスのトロール漁船1隻を撃沈するという大失態を演じました。世に言う「ドッガーバンク事件」でイギリス政府はもとよりイギリス国民も大激怒し、反ロシア、嫌ロシア感情が爆発してロシアとの間で一触即発の危機になりました。
 日本政府はバルチック艦隊の航海における寄港地での石炭等の補給を極力妨害するため、イギリスの協力のもとドイツ、フランス、スペイン等アフリカや中東、東南アジアに植民地を有する国々に中立を厳しく要求しロシア艦隊への港湾内での荷積み作業や休養をさせないように要請しました。しかしながらロシアと同盟を結んでいるドイツとフランスは遠い極東の日本政府の要請を右から左に聞き流すような態度でした。
 ここでは日本と同盟を結んでいてドッガーバンク事件で頭にきているイギリス政府は大変日本政府を助けてくれ、ドイツやフランスに対して厳正中立を守るよう積極的に要請してくれました。特に軍事的にやや脆弱なフランスはイギリスの抗議に対しては比較的神経質になっていて、特にマダガスカル島でバルチック艦隊が落ち合う予定のディエゴ・シュアレス港での停泊を拒否せざるを得なくなり、代わりに大艦隊が停泊できる施設が何も無い小さな漁村のノシベというところに錨を下ろさざるを得なくなりました。
 バルチック艦隊はジブラルタル海峡近くのタンジールで二隊に分かれ、喫水の浅い戦艦シソイウェルキーやナワリン等14隻はウエズ運河を通過して、本隊とマダガスカル島北端のディエゴ・シュアレス港で合流する計画でした。ノシベは港と言うよりは単なる入り江で本当に何も無いところで日中は30度を超え、湿度が異常に高く寒帯のロシア人達にとって地獄のようなところでした。ノシベでは当初2週間ほどの滞在予定が、別働隊の到着が遅れに遅れノシベ湾の沖合いで2ヶ月半の間合流を待つ羽目になりました。
 フェリケルザム少将の率いる別働隊は戦艦シソイウェリキーを旗艦とし、マダガスカルを目指して信じられないくらいチンタラした航海をしていたようです。地中海を通ってきたわけですが、途中石炭の積込等や艦の修繕に数倍の日時を費やし、隊員達は旅順艦隊の壊滅を知ってどうせ帰還命令が出るだろうと寄港地で遊びまわっていたようです。フェリケルザム少将は5月27日の海戦直前に第二戦艦隊旗艦オスラビアにて病死しますが、すでにこの頃には相当弱っていて適切な指揮ができなかったのだろうと推察されます。

 ノシベでの2ヶ月半の間に艦隊の士気は完全におかしくなり、発狂する者、病死する者、上官への反抗や暴動、挙句は上陸して強盗を働く者等、軍隊としての規律は崩壊状態になったようです。さらに本国からネボガドフ少将を司令官とする第三太平洋艦隊が編成されこれとも合流するよう指令がありました。この艦隊は老朽戦艦ニコライ一世の他、主砲の射程が短い時代遅れで鈍足の海防艦や巡洋艦の寄せ集めで、ロ提督にとってはただの足手まとい、世話が焼けて何の役にも立たないお荷物だということは分かっていたので頭を抱えたようです。おまけにケープタウンに寄港していた病院船アリヨールが最新情報として旅順陥落と第一太平洋艦隊つまり旅順艦隊の全滅の知らせをもたらしたため、このときのロ提督の失意と落胆ぶりは想像を絶します。このかなり遠慮がちなフランスの寄港拒否はネボガホフ艦隊との合流地点であるベトナムのカムラン湾でも繰り返され、最後の休息と補給の地であるここでも日がな湾内をウロウロする羽目になりました。いずれにしろノシベでの2ヵ月半はバルチック艦隊の隊員の士気を著しく低めて士官と下士卒との連帯感を崩壊させ、ロ提督自らの精神状態をも蝕んだと言えます。さらに重要なことはこの2ヶ月半の時間は連合艦隊にとり最大の贈り物になり、艦の修繕や射撃等の訓練をたっぷり実施する好機となりました。
 これらは日本の外交努力もさりながら同盟国イギリスの列強への圧力が功を奏したものであり、ここでもイギリスの協力がものを言ったといえます。




④ 三六式無線機開発の協力

 日本海海戦では世界の海戦史上初めて無線機が活躍しました。当時日本海軍は「三六式無線電信機」を開発し、全艦隊に装備していましたが、この「三六式無線電信機」の開発にもイギリス海軍の協力がありました。日本海軍は明治34年にすでに「三四式無線電信機」を開発していましたが、電波到達距離が短く満足のいく性能ではありませんでした。同じ年の明治34年にイギリス国王エドワード7世の戴冠式のため遺英艦隊が差し向けられましたが、この艦隊の司令官は伊集院信管で有名な伊集院五郎中将でした。ロンドンに向かう途中でマルタ島に寄港した際、イギリス地中海艦隊からイギリスの無線機を調査する機会が与えられ、技術士官に優秀なイギリス製無線機を調べさせました。その成果を元に海軍技師木村駿吉が完成させたのが「三六式無線電信機」で、日露開戦のわずか2ヶ月前のことで大至急全艦艇に取り付けられました。
 明治38年5月27日午前2時45分、バルチック艦隊を四角形203地点(なんという偶然か!!)に発見した仮装巡洋艦信濃丸は午前5時丁度巡洋艦和泉に向け待望の信号「敵艦見ゆ」の意味である「・-・、・-・」を、繰返し繰返し無線機で送り、これが日本海海戦の幕開けとなりました。
(注:四角形とは伝達を容易にするため、対馬付近の海域は経度緯度10分ずつの四角形にわけられていた。そして四角形の四隅に番号がつけられ、番号は、その周辺の海域を示しました)

 もちろんバルチック艦隊にも無線機はあり、特に仮装巡洋艦ウラル(艦長ステバノフ中佐)には当時世界最高水準といわれる強力な無線機が設置されていました。しかしながら何故かロ提督は無線の使用があまり好きでなく、またウラルからの日本海軍への無線妨害の提案も却下しています。無線を使用することでこちらの位置が分かるのを嫌ったと言う説もありますがよく分かりません。
 なお日本海海戦では戦艦三笠は無線アンテナに直撃弾を喰らったため無線通信ができなくなり、手旗信号や旗旒信号で二番艦敷島に命令を伝え敷島からは無線で各艦に命令が伝えられました。いずれにしろイギリス海軍の協力で「三六式無線電信機」が開発され実戦で活躍したのは事実です。



⑤「一斉射ち方」の伝授と「変距率盤(計算尺)の提供」

 日本海海戦では連合艦隊の砲の命中率がバルチック艦隊のそれを大きく上回ったためあの大勝利をもたらしたと言われています。しかしながらこれに先立つ黄海海戦では艦隊同士の射撃戦はほぼ互角で、戦闘終了直前に三笠の30.5センチ砲の一発が旗艦の戦艦ツァザレビッチの艦橋に命中しウィトゲフト司令長官以下の幕僚達や操舵手を吹き飛ばしたため、からくも旅順艦隊のウラジオストックへの逃亡を阻止できました。この時点ではバルチック艦隊の砲手の下手さを割引いたとしても彼我の射撃技術の差はそれほどではなかったと思われます。ただ旅順艦隊の方が損傷が大きかったのは事実で、これは伊集院信管と下瀬火薬の威力によるものと思われます。
射撃に関してはバルチック艦隊がモタモタした航海で日本海軍に時間を与えてくれたおかげで、海戦の直前まで連合艦隊がたっぷり射撃訓練を積めたことは事実です。
 ただし海戦の直前に連合艦隊の射撃方法が大きく変わったことは余り知られていません。
 ロシア海軍も含めてこの当時の砲射撃は「独立射ち方」といって各砲の砲台長が照準を砲手に示して射たせる方式でした。日本海軍の砲手はこの独立射ち方でも相当な腕前だったと言われていますが、実戦では各艦の全ての砲が同じ目標に射たれると無数の水柱がばらばらに上がり、また命中弾があってもどれが自分の射った弾か分からなくなって照準の修正が難儀でした。敵艦の未来位置の予測も砲台長の経験とカンに頼ることになりどうしても砲によって命中率にばらつきが出てくることになります。
 明治38年の初頭、イギリス海軍からウォルター・ヒュー・スリング大尉が、イギリス海軍が今後採用予定の「一斉射ち方」の方法と未来位置予測のための計算尺の一種である「変距率盤」を持参して来日しました。海軍はスリング大尉から一斉射ち方の方式を伝授されるとその二日後には連合艦隊の射撃方法を全て一射ち方に変更するよう命令が出されています。
 バルチック艦隊がいつ来るかも正確にわからない時点で一番重要な射撃方式を根底から変えるというのは信じられない命令です。しかし考えれば当時一番合理的な射撃方法で、現に海戦ではこの方式によって大勝利を収めたわけですが、イギリス海軍としては実戦では一度も経験していないこの方式を日本海軍に試させる意図もあったのかなと思います。まぁ結果良ければ何とかですが・・・
 いずれにしろ射撃方式に関してもイギリスのお世話になったことは事実だとしましょう。



⑥ 日英同盟のおかげでフランスの参戦を防げた

 日英同盟が日露戦争での日本の勝利に大きく貢献したなかで、日本にとって最も助かったのはこの同盟によってロシア以外の列強国、特にフランスを敵に回さなくて済んだことだと思います。
 日英同盟協約の第2条は「締結国(日・英)いずれかが利益保護のために第三国と戦う場合は他の締結国は厳正中立を守る」とあり、第3条では「締結国の一方が2国以上と交戦したときは他の締結国は参戦の義務を負う」となっていました。すなわちもしロシアに他の国が加勢したときは自動的にイギリスが参戦することになりイギリスを敵に回すことがうたわれています。

 この時代にロシアに組して日本と戦う可能性があったのはフランスでした。フランスは当時ロシアに巨額の投資をしていて露仏同盟を結んでいました。
 またフランスはベトナムを植民地とし東南アジアへの進出が著しく、清国への権益拡大も狙っていて日本が当面の邪魔者でした。もし日英同盟が無かったらフランスの参戦もありえたと思われ、場合によっては清国への権益拡大を望んでいたドイツの参戦も有り得たかもしれません。そうなると日清戦争での三国干渉の悪夢の再来となったでしょう。さすがにフランスやドイツも世界最強のイギリス艦隊を敵に回す度胸は無かったようで、日英同盟のおかげで日本はロシアと言う100年時代遅れの専制帝国だけを相手にすることができました。

 また、イギリスのみならずアメリカ大統領のテオドア・ルーズベルトも陰に日に日本を応援してくれました。バルチック艦隊が出港を前にして火力の強いイギリスのカーディフ炭(無煙炭)を購入しようとしていたとき、これを知ったルーズベルトはイギリスのランスダウン外相に抗議の手紙を送ってくれました。
 すなわち「イギリスは日本の同盟国でありながら日本の敵のロジェストヴェンスキーの艦隊にイギリス商人が無煙炭を売るのを黙諾しているのは何事か。余りにも酷く、それでも日本の同盟国か」とかなり厳しく抗議してくれました。おかげでランスダウン外相は直ちに中止させる約束をしたそうです。


合衆国第26代大統領
テオドア・ルーズベルト


(私見として) 
 日露戦争の勝利は日本の外交政策によるころが大きいと思います。仏・独の同盟国からも積極的な支援をもらえなかったロシアと、同盟国イギリスとその兄弟国でもあるアメリカから全面的な支援をもらった日本との差が出たものと考えます。現在わが国では集団安全保障の問題で政治家達がナンダカンダ騒いでいますが、国民は歴史を振り返ってよく考えてほしいと思っています。


(その2配信 了)