第1部 日本海海戦/日露戦争(その4)
ニコライ2世とロジェストヴェンスキー提督は無能だったのか ―ロシアの驕り

笹本 憲一

① 日本人をマカーキー(猿)と呼んでいたニコライ二世

 日露戦争時のロシア皇帝ニコライ二世は父アレクサンドル三世が明治27年11月1日薨去した後、長子として皇位についたがその資質に関しては父アレクサンドル三世には遠く及ばないことを蔵相ウィッテ伯がその回顧録で嘆いています。
 ウィッテは一時失脚しますが、日清戦争後に清国の李鴻章を50万ルーブルの賄賂で買収し旅順・大連を租借し、シベリア鉄道敷設の責任者でもあった凄腕の古狸です。彼はニコライの側近中の側近ではありましたが、アレクサンドル三世を崇拝していて、国の安定を第一とするその絶対君主としての能力を高く評価していました。しかしながらその子ニコライ二世は自分より知識や徳望の優れている者が嫌いで狭量な面が強く、絶対君主としての能力は父に遠く及ばないことを見抜いていました。

 ニコライ自身、日本に対しては有名な大津事件(②で後述)で負傷させられたこともあって悪感情を持っていたことは否定できませんが、欧州列強も恐れる大帝国ロシアからみて極東のちっぽけな有色人種の島国日本など眼中に無かったのかもしれません。
 ウィッテはロシアは満州の占有に専念すべきで日本との戦争を回避するため、朝鮮は諦めるよう何度もニコライを説得しましたが、ドイツ皇帝で従兄弟でもあるヴィルヘルム二世や極東総督アレキセーエフ海軍中将らにそそのかされて朝鮮への侵略も当然と考えていたようです。なぜなら大ロシアに対して日本が戦端を開くなどとは想像もしていなかったと思いますし、もし日本と戦争になったところで鎧袖一触、あっという間に殲滅できると高をくくっていたと思います。


ロマノフ王朝第14代最後
のロシア皇帝ニコライ二世

 この判断の甘さ、リスク感覚の欠如は生涯変わらなかったようで、日露戦争後には国内が騒乱状態であるにもかかわらず第一次世界大戦に参戦するという愚を犯しています。結局国内での革命の波を止めることもできず、帝政ロシアは崩壊してニコライは家族全員とともにウラル地方のエカテリンブルクのイパチェク館というところに監禁され、1918年7月17日家族全員銃殺されました。
 白軍に身柄を奪い返されることを恐れたソビエト首脳の判断と思われますが、このときの処刑隊は帝政ロシアに迫害され続けていたユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成され、ユダヤ人ヤコブ・ユロフスキーが指揮していたということです。
 残酷な結末ですが、今風に言えば、会社内にいかに優秀な従業員や役員が居てもオーナー社長がアホだと救われないと言うことでしょうか。他山の石にすべきでしょう。



② 大津事件の意外な効果

 明治24年(1891年)ウラジオストックでシベリア鉄道の起工式が行われることになり、当時皇太子だったニコライは世界旅行を兼ねて7隻の艦隊でウラジオに向かう途中5月に日本に立ち寄りました。
 このときの日本は2年前に帝国憲法を発布したばかりの極東の弱小国でした。そこに欧米屈指の軍事力を持つ超大国ロシアのそれも次期皇帝候補の皇太子が来日したわけですから、日本は国を挙げて大歓待しました。京都を訪れた際、何と8月にやる大文字焼きを5月にしてニコライに見せようとする大サービスでした。
 ところがニコライが琵琶湖見物に来て滋賀県の大津町(現在の大津市)を通りかかったとき、あろうことか周辺警備を担当していた津田三蔵巡査が突然ニコライに切りかかり右頭部を負傷させました。
 この津田巡査の動機については諸説があり、ニコライは日本の侵略の準備のために偵察に来たという噂を信じ込んだためと言われています。他方、津田巡査は鎮台兵(陸軍兵士)時代に西南戦争で激戦を経験しており、敵将西郷隆盛は生き残ってロシアに逃れロシア皇帝がこれをかくまっていると言う当時の俗説を信じていて、かつての敵将西郷を匿っているロシア皇室はけしからんということで事に及んだと言う説もあります。
 いずれにしても日本政府首脳はもとより日本の皇室も国民も仰天してパニックになり、世界的にも大事件として報道されました。おまけに沖合いにはロシアの艦隊7隻が遊弋している状況で、日本中が震え上がったわけです。当時の松方正義首相を初め山田顕義法相ら政府全員が津田巡査を即刻死刑にしようとしましたし、ロシアの世論も当然でした。しかしながら当時の日本の刑法では第116条に日本の皇族へ危害を及ぼした場合は死刑に処す旨の定めがあったものの、外国の皇族に関してはその適用は考えていませんでした。ここで政府と大審院長(今の最高裁長官)児島惟謙との間で激しい議論になり、通常感覚では死刑が当然と思われても法律上該当する条項がないと言うことで、政治的判断(日本が危ない)と司法の独立という大論争になりました。結果、津田巡査への死刑の適用は見送られ無期徒刑(無期懲役)の判決となり、司法の独立を守り通したのです。
 この間、明治天皇自らニコライ皇太子を見舞って陳謝し、また日本中から皇太子へ沢山の見舞いの品々や金銭が届いたこともあり、ロシアも皇太子の傷が軽かったのと大国としての寛容を見せる意味で事態は無事収束しました。
 しかしながらこの大事件は世界中に日本が近代国家としてしっかり歩んでいる姿を印象づけました。
 それはあのような危機的状況の中でも「司法の独立」を守り通したことが高く評価されたということです。
 西欧列強の一般的な評価を覆して日本は時代遅れの野蛮な後進国ではなく、三権が独立した近代国家として遜色ない国であることを証明したということです。
 日露が開戦したとき、アメリカの新聞は「これは東西戦争だ」と論じました。普通、東は文明の遅れたアジア、西は先進国の西洋諸国という意味ですが、ここでは違っていました。日本は三権が分立した先進的な立憲君主国(イギリスやオランダも立憲君主国)であるのに対し、ロシアは100年以上古い皇帝専制帝国で国会も存在しない野蛮国と論じています。当時のアメリカの富裕層はロシア貴族との間に縁戚関係が多かったのですが、新聞は日本は本当は文明国だと主張してくれました。この頃のアメリカにはちゃんとした
 ジャーナリスト達が居たんですね。今はトランプさんが嘆いているようですが。
 日本中を心肝寒からしめたこの大事件は世界に近代国家としての日本の姿を示したという副産物があったのです。



③ ロジェストヴェンスキー提督(中将)は無能だったのか

 バルチック艦隊―正確には太平洋第二艦隊の司令長官ロジェストヴェンスキー提督(以下ロ提督)については毀誉褒貶、無能説、有能説色々語られています。

 筆者の意見を先に述べますが、ロ提督は当時のロシア海軍の中では優秀なほうだったと考えています。
 ロ提督はトルコとの戦争でも活躍していますし、砲術指揮の技術もなかなかだったようでニコライ皇帝のお気に入りでした。砲術士官として1870年のトルコとの戦争で名声を得て、1902年、レヴァル(エストニアの主都タリンの旧名)の観艦式においてロシア皇帝とドイツ皇帝のヴィルヘルム二世の面前で、ロジェストヴェンスキー大佐の指揮するバルチック艦隊の砲術将校たちは三時間にわたって驚異的な射撃妙技を見せました。そのとき感心したヴィルヘルム二世は、自国のアルフレート・フォン・ティルピッツ海軍大将に聞えるような声で、「陛下のロジェストヴェンスキー大佐のようなすばらしい士官を、私の艦隊でも持ちたいものですな」と言ったといわれています。


ロジェストヴェンスキー中将

 当時のロシア海軍においては家系や系閥によらず、実力と資質によって頭角を現した高級将校は多くはいなく、ロジェストヴェンスキーはその数少ない一人であったようです。
 世情、ロ提督は敗軍の将としてその無能さを語られていますが、筆者はむしろ彼に同情的です。
 何といっても新旧寄せ集めの艦艇で作ったにわか艦隊で、士官、兵員とも素人同然の未熟集団。ロ提督の結構合理的な戦略もことごとく本国に却下され、日本やイギリスの外交工作で行く先々で補給に難儀をきたし、マダガスカルのノシベでは2ヵ月半も熱帯のジャングルの横で待たされ、おまけに足手まといになるだけの欲しくもないネボガトフのおんぼろ艦隊を押し付けられ、という訳でよく我慢して対馬まで来たなぁというのが感想です。
 乗員の技量も最悪で、錨鎖を海中に落としたり、砂洲に乗り上げて座礁する戦艦ありと操艦もまともにできないお粗末さでした。
 ノシベで待機中に最後の訓練をやった際、各艦の信号書が新旧のものが混存して使われており、古い信号書で“単縦陣”の意味が、新しい信号書では“沿岸索敵”となっているので、“単縦陣”の命令をうけた艦船は四方八方へ散ってしまったということです。また、水雷艇の夜襲を仮定した訓練をやっても、まるで話にもならず、静止している標的に対して「一発の命中弾もなかった」というありさまでした。
 さらに弾薬が乏しくなったので本国に発注し、待ちあぐねた補給船がついてみると、積荷は弾薬ではなく、ウラジオストクで使用するための12,000足の長靴と、有り余るほどの毛皮コートが詰まれていました。
 おまけに艦隊員の士気の乱れは酷く、発狂する者、自殺する者、暴動を起こす者、また革命運度家の共産党員が扇動したり(「ツシマ」の著者ノビコフ水兵も共産党員でした)、艦隊の一体感など全く喪失されていました。
 このような有様の上に、ノシベでロ提督は旅順艦隊全滅の知らせを受け打ちのめされました。これでこのバルチック艦隊のみで東郷艦隊と戦わざるを得なくなり、到底勝つ見込みはないと覚悟したようです。
 ロ提督はこのとき東郷艦隊を殲滅して日本海の制海権を握ることは諦め、最後の手段として新鋭戦艦隊の4~5隻がゲリラとなって日本軍の海上輸送を妨害し日本陸軍の補給路を断つ作戦を本国に提案しています。この為艦隊を二手に分け、フェリケリザム少将の支隊とネボガトフの艦隊を囮として東郷艦隊と交戦させ、その隙に太平洋周りでロ提督率いる第一戦艦隊のみでウラジオに駆け込む作戦を考えていたようです。
 が、本国からはあっさり無視され、ロ提督は辞意を伝えましたがこれも完全に無視されています。
 というような訳で筆者としてはロ提督に対しては同情の念しか沸かないのです。現実を何も理解できず、無能で権威主義的な皇帝の側近達や、全く未熟でやる気のない士官・兵隊達へのやり場のない怒りをじっと胸に秘め、甘んじて敗将の汚名に耐えたロ提督の心中は察して余りあります。
 多少の救いは負傷入院中のロ提督を見舞った東郷平八郎の暖かい慰労の言葉と、ニコライ皇帝の励ましだっただろうと思っています。



④ ロシア軍は日本軍を舐めきっていたのか

 日露開戦前にも海外の高級軍人が多数来日し陸海の日本軍の装備、組織、訓練等の状況を視察しています。
 アルゼンチン海軍駐在武官のマヌエル・ガルシア大佐もその一人ですが、後にア海軍に提出された報告書類では非常に公正な目で日本軍を観察していて、その実力を正当に評価していたことが伺えます。そこでは、フランスやロシアの訪日軍人たちの日本軍に対する感想文を全くどこを見ているのかという風にこき下ろしています。例えばフランス軍人の、日本陸軍の兵士は小柄で貧弱な体つきでとても近代陸軍の歩兵にはなり得ないという評価に対して、馬の絶対数が足りないこの国では日本人は古代から移動は全て徒歩であり、日本人ほど歩きなれた民族はいなく、60万人も登録されている人力車夫(?ですが)は一日65キロ以上走り回っているとして反論しています。
 また、日本海軍の演習を見たロシア人海軍士官は操艦は全くお粗末で到底海軍の体をなしていないような報告を出しているのに対し、同じ演習を見ていたイギリス海軍の士官は「日本海軍の艦隊操艦にかろうじて比肩できるのはイギリス海軍だけであろう」という報告書を出しています。ロシアの士官は演習を見ているフリをしてウォッカでもあおっていたのでしょうね。
 ロシア海軍はどうだったかですが、バルチック艦隊のウラジオへの回航は反対のほうが多かったようです。ロシア極東総督のアレキセーエフ海軍中将や海軍本部長でニコライ皇帝の叔父である海軍元帥アレクサンドロウィチ大公も乗り気ではなかったようですが、ロシア満州軍司令長官のクロパトキンの強い要請などもあり、またロジェストヴェンスキーの決意を聞かされてニコライは第2太平洋艦隊(バルチック艦隊)のウラジオへの回航を決意します。海軍軍令部長心得・侍従将官のジーノウィ・ペトロウィッチ・ロジェストヴェンスキー少将(リバウ港出港直前に中将に昇進)はアレクサンドロウィッチ海軍本部長の命令で同艦隊司令長官を拝命しました。ロ提督はニコライ皇帝に対し「皇帝陛下がこの遠征を臣に実行するよう勅命を下さるのなら一戦を交えるためにバルチック艦隊を日本へ導きましょう」と言いニコライの決心を促したとウィッテの回想録に書かれています。

 大方は日本海軍の実力を軽く見ていたと思われ、もし旅順艦隊とバルチック艦隊が合流できたら日本海軍など恐れずに足りずと考えていたでしょう。しかしロシア海軍にも日本海軍の実力を見抜いていた優秀な海軍軍人も居たようです。
 レヴァル港で公式の送別の式があった十月九日の夕方、皇帝が式典から帰ったあと、叔父でロシア海軍総司令官のアレクサンドロウィッチ大公は、艦隊の士官を呼んで送別の晩宴会をひらきました。
 数しれぬシャンパンの乾杯とスピーチがあったなかで「戦艦アレクサンドル三世」の艦長ブハウォストフ大佐の痛烈な一言がありました。それは次のような悲壮なスピーチだったと伝えられています。

「皆さんは、我々に幸せな航海を望んで下さった。そして皆さんは、我々の勇敢な水兵が、日本水兵を粉砕するに違いないと考えておられる。好意あるご意見に、私たちは感謝します。しかし、それはあなたがたが、この艦隊について何もごぞんじないからです。我々は、ロシアが海軍国ではないこと、それに政治資金がこれらの艦船に無駄に使われたことを知っています。あなたがたは勝利を望まれたが、しかし勝利などはありえないのです。おそらく我々の艦隊の半分は、途中で失われるでしょう。たぶん私が悲観的すぎるので、全艦艇はあるいは無事に黄海に着くかもしれません。しかし着いたとしても、東郷は、我々を木端微塵に撃破してしまうでしょう。東郷の艦隊は、我々よりもはるかにすぐれており、それに日本人は根っからの水兵なのです。しかしここに、私は一つだけみなさんに約束できます。ここにいる我々すべて、第二太平洋艦隊の全将兵は、少なくとも、いかに死すべきかは知っています。我々はけっして降伏しないでしょう」。

(“TOGO and the Battle of Tsusima” ノエル・F・ブッシュ著)


 それから36時間後に全艦隊は、最新鋭のクニャージ・スワロフ、ボロジノ、アレキサンドル三世、アリヨールの戦艦四隻を殿艦(しんがり)として出港しましたが、戦艦アレキサンドル三世は翌年5月27日午後7時、大火災の末にブハウォストフ艦長とともに日本海の海底深く沈んでいきました。



(私見として)
 現代の企業も大勢の人員によって構成されていますが、そのトップである社長は一国の皇帝あるいは司令官や艦長としての立場にあります。会社の運命は最終的に社長の判断にかかっていると言っても過言ではありませんが、どんなに優秀な役員や従業員が大勢居てもトップがアホだと救われません。トップにとって一番重要なことは人の意見を良く聞くこと、特に批判的に提言する人を大事にすべきです。あらゆる角度から物事を判断するには蜻蛉の目が必要ですが、一人では無理があります。往々にしてトップは耳障りのいいイエスマンを回りにおきたがりますが、イエスマンに囲まれたトップはいずれ皆で仲良く地獄巡りをする羽目になるでしょう。


(その4配信 了)