第1部 日本海海戦/日露戦争(その5)
バルチック艦隊の航路の予想 ―東郷提督は最初から分かっていたのでは

笹本 憲一

① 東郷平八郎提督の頭の中

「バルチック艦隊がどのコースでウラジオストックへ向かうか、対馬海峡を通るか津軽海峡か、それとも宗谷海峡を突っ切るか、東郷提督は頭を悩まし続けた。大本営(海軍軍令部)は津軽、宗谷海峡への進出も考慮に入れるべきと考え東郷に迫った。5月24日25日と連合艦隊の参謀や司令官たちで喧々諤々の議論が戦わされ、25日朝の会議に遅れてきた元東郷の参謀長である島村少将の「そりゃあ対馬へ来るに決まっているよ」の一言で東郷は決意を新たにした」。などなどは司馬遼太郎「坂の上の雲」の大きな「見せ場」になっています。
 しかしながら筆者は東郷提督は既に対馬に来ることは九分九厘間違いないと考えていたと思います。
「宗谷海峡は最狭部が32キロ、東側が千島で、そこにある日本の前哨基地からは、ロシア艦隊がオホーツク海に進入するのはすぐ観測でき、もし連合艦隊が日本海北域のどこかにさえいれば、すぐ通報ができてロシア艦隊が宗谷海峡へさしかかるときまでに海峡の西端で待ちぶせするゆとりはある。また、この海峡には、鋭い岩の暗礁が多数あってきわめて危険。晴天ですら避けることは難しく、五月といえば濃霧は普通でその困難さは言うまでもない。艦が通れる深さの狭隘部には、むろん機雷がたくさんしかけられている。それに、南から宗谷海峡へ達するには、長い日本列島を大きく廻って通過しなければならず、ロジェストヴェンスキーの大航海は、さらに1500キロほど伸びることになり、石炭補給の問題からも相手に多少でも常識があるならばこのルートは捨てる」
「津軽海峡は、最狭部は14キロ、広い所でも18キロを超えない。航海可能水路は、強い潮流があって危険であり幅が11キロ以上の所はひとつもない。両岸の強化された港湾基地の砲撃をしのいで通過したとしても、ロジェストウェンキーがその艦艇の半分でも無傷で残せたら、幸運といわなければならない。それに出口には当然、我々の艦隊が用意万端で待ちかまえていることができる」 非常に冷静沈着で勉強家の頭のいい東郷提督ならこの辺のことは十分調査済みだったと思います。
 5月半ばには連繋機雷 (乙雷)50組を繋げば津軽海峡を8マイルに渡って防備できる見通しがついていましたが、大本営参謀の山下源太郎大佐がこのことを東郷提督に知らせたいと山本権兵衛に具申したところ
「全て東郷さんに任せてあるから外の人間ががたがた言うものじゃない」と止められています。山本権兵衛は東郷提督を連合艦隊司令長官に推薦した人ですから東郷提督の判断の的確さを誰よりも信頼していたと思います。
 26日正午までにバルチック艦隊を発見できない場合は津軽海峡の渡島(おしま)に向かえという命令「密封命令」が出され、その開封が5月25日午後三時となっていたことは有名な話ですが、筆者は東郷提督はあくまでも対馬に来るという信念は捨てていなかったと思います。
 しかしながら、これは筆者の私見ですが、ロ提督が本国に意見具申した艦隊を二手に分ける戦略を東郷提督も心配していたのではないか、旅順・ウラジオ艦隊なきあと、バルチック艦隊と連合艦隊の戦力差は日本有利になっていて、ロ提督もそのことを十分わきまえている筈である。となると旧式の艦隊を囮にして対馬に向け日本艦隊と対峙させ、新鋭戦艦4隻を中心にした本体は太平洋ルートでウラジオに向かうのではないか、というものです。大艦隊を預かる司令長官ならロ提督も同じようなことを考えているのではないかと東郷提督が想像したとしても不思議ではないと思います。
 東郷提督はバルチック艦隊の操艦能力の低さは余り知らなかったと思うので、新鋭戦艦と巡洋艦の十数隻なら津軽海峡や宗谷海峡の突破は出来なくはないと考えたのではないか。大陸への陸軍の輸送はたった三隻の巡洋艦のウラジオ艦隊に振り回され散々な目にあっているので心配したとしても当然だと考えます。
 従って東郷提督は対馬に来るという信念は信念として、万が一の場合も想定していました。
 東郷提督の主力、第一戦隊6隻(戦艦三笠・敷島・朝日・富士、装甲巡洋艦春日・日進)と上村提督の装甲巡洋艦6隻(出雲・八雲・常盤・吾妻・浅間・盤手)は馬山浦鎮海湾に集結し、出羽重遠中将の第三戦隊(20ノット〔時速約38キロ〕の巡洋艦4隻)は、片岡七郎中将の率いる第三艦隊(主として軽巡洋艦よりなる第五、第六、第七戦隊)の大部分、及び駆逐艦五隊と共に対馬の真ん中にある三浦湾の良港に待機していました。この配置なら、もしロ提督が対馬を目指せば、対馬海峡か朝鮮海峡の北端で、全艦隊をもって迎え撃つことができ、もし、北方の海峡のいずれかを選ぶとすれば、連合艦隊は通報を受けてからでも十分な余裕をもって北航してこれと出会うことができるというものです。





 ところが海戦直前の上海からの情報で、東郷提督の判断の正しさが証明され、ほぼ全艦隊が対馬を目指して来ることが判明しました。5月26日未明、バルチック艦隊の輸送船6隻と護衛の巡洋艦2隻が25日に上海に入港したとの重要連絡が大本営にもたらされたのです。



② 三井物産上海駐在代表 山本条太郎の活躍

 明治38年5月26日午前零時5分、大本営に「5月25日、上海にバルチック艦隊のものと思われる輸送船6隻と護衛の仮装巡洋艦2隻が入港した」との電報がありました。
 この電報を打ったのは三井物産上海支店長の山本条太郎でした。
 山本条太郎(明石元二郎大佐とほぼ同年配らしく、元治元年1864年頃の生まれか)は、15歳のとき三井の横浜支店に給仕として雇われ、しだいに出世して色々の仕事に従事したが、その一つに、イギリス人の海員が運航した三井の蒸気船「頼朝丸」の乗組員になった経験もあるようです。彼は、三井物産上海支店長として、情報担当の多くの陸海軍将校のためにオフィスを見つけてやり、また自分の交際関係を利用して、私的な情報網を張り巡らしました。彼の情報網は、東南アジア沿岸部にはりめぐらされ、遠く香港までのびていたと言われています。ビジネス活動に密着した彼の愛国的情熱は、電報一つをとってみてもはっきりとわかり、三井本店ヘ100通以上の電報を打っており、その中には、陸海軍の大本営へ伝達される情報がいくつも含まれていました。
 5月14日午前8時ロシア艦隊はネボガドフ艦隊も含め全50隻でベトナムのヴァンフォン港を出港しましたが、連絡を受けると山本条太郎はすぐに、部下の森恪(つとむ)に命じ会社のランチでロシア艦隊のその後の進路を調べさせています。5月25日には上海で、条太郎自身もランチにのり、河口を出て沖へ様子を見にいっていますが、こうした観察の結果は、直ちに東京の海軍軍令部へ打電され、次いで馬山浦の東郷提督のもとへ連絡されました。
 バルチック艦隊は巡航速度でも1日当たり約3,140tの石炭を消費していました。1000哩(約1,600km)航海するのには約5昼夜かかり、途中補給のための停泊も含めると石炭は約17,000t必要でした。当然これに近い試算は東郷提督はとっくにやっているはずで、バルチック艦隊が6隻もの輸送船を艦隊から切り離したと言うことは、上海以降海上での石炭補給をやらないと言うことであり、ウラジオへは最短コースで行くことが確実になったと東郷提督は判断したでしょう。
 余り知られてはいないですが、三井物産上海支店長山本条太郎の活躍とこの報告が有ったればこそ、信濃丸の「敵艦見ゆ」が実現したものと思います。



(私見として)
 バルチック艦隊がどのルートでウラジオストックを目指すかについては、海外からも色々な情報が東郷提督の元に寄せられていて、航路に関しては世界中でも注目を集めていました。既に引退していた有名な米国海軍のマハン提督もトンデモ見当はずれの予測を新聞に投稿したりしています。
 東郷提督はこのような色々な情報に惑わされず、ひたすら研究を重ねて何通りものシミュレーションの結果確固たる見解を築いたのでしょう。現代はインターネットの時代でもあり情報過多と言われていますが、「情報」とはあらゆる「データ」を集めて自らの見識、知識、経験で判断し「作り出す」ものであり、与えられるだけの情報に頼ることは危険だと考えます。
 東郷提督の思考パターンこそ我々現代人も学ぶ必要があると思います。

(その5配信 了)