第1部 日本海海戦/日露戦争(その6-II)
そして世紀の大海戦は始まった

笹本 憲一

② バルチック艦隊は単縦陣できたのかどうか…軍事法廷でのロ提督の証言はウソか

 明治38年5月27日午後 1時39分、連合艦隊旗艦三笠がバルチック艦隊を発見しました。その直前にバルチック艦隊と並行してこれを監視してきた第三艦隊の片岡提督から「敵は二列縦陣でやってくる」という無線連絡が三笠にありました。 また、司馬氏の「坂の上の雲」でも「敵はダンゴでやって来た」とか、加藤参謀長の証言でバルチック艦隊を双眼鏡で認めた東郷提督が「ヘンナカタチダネ」と話されたという逸話も書かれています。このように一般的には連合艦隊がバルチック艦隊と会敵したときはバルチック艦隊は二列縦陣のような変なごちゃごちゃとした陣形で迫ってきたと言われています。
 海軍軍令部編の「明治37、38年海戦史」でも「敵ハ(中略)ソノ右翼列ハ先頭ニハ「ボロヂノ」型ノ戦艦四隻ヨリ成ル一隊ヲ置キ「オスラービア」「シソイ・ウエリーキー」「ナワリン」「ナヒーモフ」の四隻ヨリ成ル一隊ハ左翼列ノ先頭ニ占位シ「ニコライ一世」及ヒ海防艦三隻ヨリ成ル一隊之ニ次キ(以下略)」と記載されていて、バルチック艦隊はやはりダンゴ状態でやって来たようです。
 ところが、日露戦争後ロシアの軍事法廷でのロ提督の証言は全く違っていました。
 明治39年3月、ロシア新聞「ノーオエ・ウレミア」は「対馬海峡戦に突入した時、バルチック艦隊は膨大愚鈍な集団となって戦闘を始めた。東郷大将の報告書にそう書いてある」というロシア海軍グラート大佐の論評を掲載しました。これに対してロ提督は軍事法廷で「私は戦闘開始の当初、ロシア艦隊は、日本艦隊の戦艦四隻・装甲巡洋艦八隻からなる単縦陣形艦列と相対して、戦艦四隻小隊の三列・戦艦十二隻からなる単縦陣形艦列を編成した」と反論しています。ロ提督は戦闘開始時点では第一戦艦隊から第三戦艦隊12隻が単縦陣を組み、巡洋艦やその他の特務艦もあらかじめ命令したとおりの位置にあって、整然とした陣形で臨んだと主張しています。(日本海海戦100年目の真実、菊田愼典著、平成16年光人社発行)
 さてどっちだったのでしょうか。

 もし、ロ提督の証言通りだとしたら、会敵時のバルチック艦隊の陣形は右図のようになると思われます。  筆者の結論はバルチック艦隊は二列の変形縦陣で連合艦隊と会敵したと考えます。ロ提督の発言は「私はわが艦隊に単縦陣を命じた」だから「単縦陣で向かったハズ」というものだと思います。
 しかしながら筆者の意見としては、バルチック艦隊の操艦は誠にお粗末で敵を目前にして急遽艦隊運動で単縦陣を作れるような状態ではなかったと推察します。
 戦艦アリーヨール生き残りの水兵プリボイは5月13日の日記に次のように記述しています。
「何しろ様々な型の軍艦を寄せ集めものだけに、戦闘陣形を作る上に非常な困難があった。縦陣を作ると横へ外れて、だんだんに陣形が崩れて行った。それ以上にうまくいかなかったのは「全艦その場に」方向転換する場合だった。ニ、三の艦は信号を理解せず「順次」に方向を換えようとして混乱をきたした」
 そもそも艦隊の将兵自体も寄せ集めで経験不足、訓練不足なうえ、長い航海の間に艦の修理や船底の貝殻落とし等の整備も出来ておらず、まだ完全に完成していない新造艦等もあって、これらが一体となって東郷艦隊のような整然とした艦隊運動などできたはずがないと言えます。

(「日本海海戦100年目の真実」より)

 また、第一戦隊装甲巡洋艦日進に乗艦していたアルゼンチン海軍観戦武官のガルシア大佐も、その報告書で会敵の際の状況を次のように記載しています。「そして戦列の陣形が完全に識別できるようになったところで、日本艦隊から最も近い左側には「オスラービヤ」が視認できた。(中略)ロシア艦隊の最先頭の部分で、日本艦隊から最も距離が離れた右手には、ボロジノ型の大型戦艦四隻が航行していた。(中略)約七マイルの距離があったにもかかわらずロシアの軍艦を望遠鏡でよく観察することができ、各艦とも、かなり積載過剰の状態であることが認められた。(中略)艦橋や甲板上に短艇やその他の物品が高く積み上げられ、さながら倉庫のような様子になっているのが見て取れた」(「日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言」より)
 午後2時5分にロシア艦隊で最初に発砲したのはこの第二戦艦隊旗艦オスラビアで、その直後東郷提督は有名な「東郷ターン― 左八点回頭、取り舵一杯」を命じました。さらに「2時10分、日本艦隊に射撃開始の信号が発せられ、選定された目標は敵の左隊列の先頭艦「オスラービア」であった」(ガルシア大佐報告)
 バルチック艦隊の戦艦群のなかで真っ先に落後、撃沈されたのはこのオスラビアでした。戦艦オスラビアは第二戦艦隊の旗艦ですがボロジノ級戦艦13,500tに比べ基準排水量が12,683tしかなく、装甲が薄いうえに三本煙突で目立ちやすいこともあり、日本艦隊に一番近かったために真っ先に砲撃を開始し、そして真っ先に集中砲火を浴びて撃沈されたものと考えられます。
 もしロ提督の言うように戦艦12隻の単縦陣できたならば、オスラビアは先頭から5番艦になるため、日本艦隊からかなりの距離があって、最初の攻撃目標になったとは思えません。オスラビアの次の目標がバルチック艦隊旗艦クニャージ・スワロフだったとガルシア大佐は報告していますから、一番近い艦に集中砲火を浴びせるのが海戦の常識だとすれば、やはりバルチック艦隊は二列縦陣に近い「ヘンナ」陣形でやってきたのものと考えます。
 27日の海戦での日露両艦隊の運動図は「明治37、38年海戦史」や多くの書籍で紹介されていますが、アルゼンチン海軍観戦武官のガルシア大佐の報告書にも詳細に記録されています。ガルシア大佐は日進艦上でこの日の海戦をその目で見ていた訳でその記録は大変信憑性が高いと思います。ガルシア大佐の報告書にある当日の艦隊の動きを筆者が写して次に記載しますが、ロシア語の艦名をスペイン語で記録していて、また手書きで判読しにくいものもあり筆者の学力と視力では翻訳するのに大苦戦しました。概ね当たっていると思いますが誤訳があればご容赦ください。また、どうしても判読できない艦名(特務艦と思われます)もあり、駆逐艦名に関しては全く記載はありませんでした。

 なお、そもそもロ提督は何故二列の縦陣で来たのかという疑問が残ります。これには一説があり、ロ提督は東郷艦隊との会敵まじかとみてそれまでの二列の縦陣を単縦陣に変えようとしました。ところがその直前、バルチック艦隊と並走して監視していた第二艦隊の第四駆逐隊朝霧(鈴木貫太郎中佐)がバルチック艦隊の陣形をより詳細に調べようとして大胆にもそのまん前を横切ったため、ロ提督は機雷敷設の危険を感じて艦隊運動を急遽中止した為、後続の艦が混乱して「ヘンナ」陣形のまま東郷艦隊とぶつかったという説があることをご紹介しておきます。

(その6-Ⅱ配信 了)

【5月27日― 午後2時12分の日・露艦隊の位置】





【午後2時30分の日・露艦隊の位置】