第1部 日本海海戦/日露戦争(その6-Ⅲ)
そして世紀の大海戦は始まった

笹本 憲一

③ 丁字戦法のウソと東郷ターン ― 海防艦厳島(旧戦艦)からの報告の誤差

 日本海海戦と言えば東郷提督の「丁字戦法」「東郷ターン」が大変有名です。しかしながら「丁字戦法」は当時の世界の海軍ではごく一般的な戦法であり、とりたてて東郷提督や秋山参謀の独創とは言えません。
 明治38年1月に東郷提督は「連合艦隊戦策」という小冊子を連合艦隊の全将校に配付しており、単隊として行動する場合は丁字戦法を原則とし、二隊分割で戦闘する場合は「乙字戦法」を取るよう艦隊に指示していますが、この時の命令を特に極秘扱いはしていません。このことからも当時の海軍では常識的な戦法だったと推察されます。連合艦隊の特色は各艦隊ごとに広範囲な自由裁量が認められていることであり、ロ提督の艦隊とは大きく異なる思想を持っていました。艦隊の分割作戦は日本海軍のお家芸で、日清戦争の黄海会戦でも快速の「第一遊撃隊」と三景艦の「本体」とを分割して戦い大勝利を収めています。
 ただ旅順艦隊との黄海海戦の時、ひたすらウラジオストックへ遁走しようとする旅順艦隊に丁字戦法を仕掛け、東郷艦隊の後ろをすり抜けた旅順艦隊を初戦でまんまと取り逃がすという失態を演じています。この時は必死で後を追いかけ何とか海戦に持ち込みましたが、その反省から、同じ目的のバルチック艦隊に対しては丁字戦法ではなく併航戦で臨むつもりだったようです。

 次に「東郷ターン」ですが、以前から筆者は「なぜ敵のほぼ真正面で集中砲火を浴びる危険を顧みずに一斉回頭をやったのか、もっと離れた敵の射程距離外でUターンして快足を生かして追いあげながら敵の頭を押さえていく併航戦を挑まなかったのか」という疑問を持っていました。艦隊が方向転換中はこちらからは射撃はできず、ほんの十数分ですが一方的に敵の射撃の的になるわけで、実際に旗艦三笠はこの約15分間に15センチ砲以上の弾を32発喰らっています。
 この点についは一説が有り、もともと東郷提督はバルチック艦隊の東側約1万メートルほどの射程外を反航しながら、途中Uターンして敵艦隊を西方向(大陸とは反対側)に頭を押さえつつ右舷戦闘に持ち込むつもりだったとする説です。これなら筆者も納得できますが、ところがそうはならなかった。
 その原因は「第三艦隊旗艦厳島からの敵の進行方向や位置の報告が、東側に約1万メートルずれていて間違っていた」という説です。
 海戦の直前まではバルチック艦隊の左側を厳島達の第五戦隊が、右側を巡洋艦和泉がちょうどサンドイッチのように挟んで監視しながら併航していました。東郷提督のもとへはこの厳島と和泉さらに出羽中将の第三戦隊からも逐次、バルチック艦隊の進行方向や現在位置、速度や陣形が次々と連絡されました。
 当時の無線はごく初歩的なものなので、一時に一通信しか扱えずこれらの通信を区別し続けるのは、さぞ困難だったと思われます。それに、もっと大変だったのは、通信がそれぞれちがう敵の位置を知らせてきたことです。しかも、陣形も運動も、ひとつひとつの報告がくい違っていて、「敵艦隊は八キロの間隔を保つ三縦陣で近づいてくるように見えたようだ」と、当時三笠の無線室の責任者だった清河少尉が後に語っています。
「我々はどの縦陣を本ものと考えてよいか迷った。それに基づいて、味方の速力、航路を調整しなげればならないからである。加藤、秋山両上官は、ただちに答えろとせまる―「つまるところ、敵はいまどこなんだ?」。「和泉」の報告が一番きちんとしており、私はこれを信用したかったが、事実、「和泉」のが最も正確だった。しかし第三戦隊の「厳島」は、艦級が上であるから、はじめは「厳島」の情報に従っていた。
 この混乱のまっ最中に、我々は出羽隊の旗艦「笠置」を見た。一時間前に我々は「笠置」から情報を受けていたのであるが、それが敵をどの方角で発見したかがはっきりしていなかった。いま目の前に「笠置」を見つめているのだから、私は地図上に敵の位置を印すことができなければならぬはずであった。しかし、我々は全速力で走っており、たえず方向が変化している。それに、私はくいちがう報告で、すでに頭がおかしくなっていた。
 しかし、これは真に大切な任務である。帝国の運命が、事実上、私の判断によって左右されるのである。 そのとき、私は言葉に言いつくせない困難に陥っていた。」
(“TOGO and the Battle of Tsusima” ノエル・F・ブッシュ著、川口正吉訳)

 ということから、恐らく厳島からの報告でバルチック艦隊が実際より約1万メートル東寄り(日本側寄り)と判断して、会敵時の戦闘方法を検討したのではないかと思います。すなわち東郷艦隊から見て約1万メートル左側を北上してくるバルチック艦隊に向けて、途中まで反航し、頃合いを見てUターンしながらバルチック艦隊の左翼側にすり寄っていって反航戦を挑み、快足を利用してこれを追い上げながらやがて先頭の旗艦スワロフの頭を押さえつつ砲撃を加えて全滅させる作戦だったと思います。これを図示しました。





 ところがバルチック艦隊を視認したら何とほぼ正面から北上して来た。これでは反航から併航に持ち込む距離的な余裕がない。しかたなく東郷提督はとっさに敵のほぼ正面で丁字型の陣形を取る決断をしたものと推察します。当然旗艦の三笠は集中砲火を浴びる覚悟が必要ですが、わずか数分間であり、また、東郷提督は当時の超ど級戦艦三笠15,140tの装甲能力を信じていたと思います。三笠の装甲は当時世界でただ一艦最新の360㍉クルップ鋼が使われており、その防御力は最高でした。さらにこのときの彼我の距離は8,000メートルほどで、これくらいの遠距離射撃では徹甲弾は大口径砲でもかなり威力が落ちるため、もし命中弾を喰らっても致命傷になる確立は低いと読んだと思います。東郷提督の読み通り、30発を超える命中弾があったにもかかわらず致命的な損害は受けていません。ただ無線アンテナに直撃されてマストも折られ以後の戦闘でかなり不便をしたようですが・・・

 結論として、世界的に有名になった「東郷ターン」は最初から意図したものというより、情報の誤差によってやむなく実行した戦法であり、東郷提督の一瞬の冷静な判断が凄かったということだと思います。

(私見として)
 東郷ターンは巷言われているような「肉を切らせて骨を断つ」様な一か八かの戦法ではなく、想定外の事態に対して冷静に状況を分析し、最大の効果を生むであろうベストの意思決定を一瞬で行ったものでした。
 会社経営においても、あらゆる調査やシミュレーションを重ねて事業計画を策定しても、想定外の事態が起こって立ち往生することもあり、その際、如何に冷静で効果的な代替案を即座に決断するかがリーダーたる社長の仕事だと思います。

(その6-Ⅲ配信 了)