第1部 日本海海戦/日露戦争(その6-Ⅴ)
そして世紀の大海戦は始まった

笹本 憲一

⑤ 連合艦隊の被害が比較的軽微だった理由 ―スーパーヘビー級対ライトヘビー級の戦い

 よくものの本では東郷艦隊とロ提督の艦隊の戦力を比較し、大口径砲の数が何対何、中口径砲が何対何などと論じられています。ただ射程距離にまで踏み込んだ分析はあまり見たことはありませんが…
 筆者の私見ですが、この海戦の主力は、連合艦隊は第一艦隊第一戦隊の戦艦4隻と装甲巡洋艦2隻、それと第二艦隊第二戦隊の装甲巡洋艦6隻。バルチック艦隊は第一戦艦隊の戦艦4隻と第二戦艦隊の戦艦3隻プラス装甲巡洋艦1隻、それに第三戦艦隊の旧式戦艦1隻と装甲海防艦3隻、一等巡洋艦2隻です。バルチック艦隊の第三戦艦隊はネボガトフ少将麾下の寄せ集めにわか艦隊ですべて旧式、戦艦ニコライⅠ世は1万トン未満で装甲巡洋艦クラスです。
 東郷提督の最大の敵は実際上はロ提督の第一戦艦隊4隻と第二戦艦隊の数隻と言えるでしょう。
 これらを比較してみました。
<主力艦の性能等比較>

連合艦隊

第一戦隊 t数 30.5センチ砲 20~25センチ砲 12~15センチ砲 最大速力(ノット) 第二戦隊 t数 20~25センチ砲 12~15センチ砲 最大速力(ノット)
三笠 15,140 4 14 18 出雲(装巡) 9,906 4 10 20.75
敷島 14,850 4 14 18.59 吾妻(装巡) 9,307 4 12 20
富士 12,533 4 10 18.25 常盤(装巡) 9,700 4 10 21.5
朝日 15,200 4 14 18 八雲(装巡) 9,646 4 4 20.5
春日(装巡) 7,628 3 10 20 浅間(装巡) 9,700 4 14 21.5
日進(装巡) 7,698 4 10 20 磐手(装巡) 9,906 4 14 20.75
合計(平均速力) 73,049 16 7 72 18 合計(平均速力) 58,165 24 64 20

※日本の戦艦4隻合計 57,723t


バルチック艦隊

第一戦艦隊 t数 30.5センチ砲 12~15センチ砲 最大速力(ノット) 第二戦艦隊 t数 30.5センチ砲 20~25センチ砲 12~15センチ砲 最大速力(ノット)
スワロフ 13,516 4 12 18 オスラビア 12,683 4 8 18
アレキサンドル 13,516 4 12 18 ナワ―リン 10,206 4 8 15.5
ボロジノ 13,516 4 12 18 シソイウェルキー 10,400 4 8 15.7
アリヨール 13,516 4 12 18 ナヒモフ(装巡) 8,524 4 10 15
合計(平均速力) 54,064 16 48 18 合計(平均速力) 41,813 12 4 34 15


第三戦艦隊 t数 30.5センチ砲 20~25センチ砲 12~15センチ砲 最大速力(ノット)
ニコライⅠ 9,500 2 4 4 15.3
アブラクシン(装防) 4,126 4 4 15
セニャーウィン(装防) 4,960 4 10 16
ウシャーコフ(装防) 4,126 4 4 16
ドミトリィドンスコイ(1巡) 5,796 12 16.5
モノマフ(1巡) 5,593 5 20
合計 34,101 2 16 39 15

(筆者注:装巡…装甲巡洋艦、一巡…一等巡洋艦、装防…装甲海防艦の略です)

 これらをまとめてみますと下記のようになります。

連合艦隊(第1~2戦隊) バルチック艦隊(第1~3戦艦隊) 差し引き
総t数 131,214t(12隻) 129,978t(14隻) 1,236t
30.5センチ大口径砲 16 30(内10門は射程が??) -14門
20~25センチ大口径砲 31 20 11門
12~15センチ中口径速射砲 136 121 15門
推定最大速力 第一戦隊18ノット
第二戦隊20ノット
第一戦艦隊18ノット
第二戦艦隊15ノット
第三戦艦隊15ノット(実際は9ノットか)



a.火力の比較
 単に大砲の数で比べてもあまり意味はないかと思いますが、前述の表からも彼我の差はそれほどないと言えます。問題は「射撃のスピード」と「射撃の精度」だと思います。また、両者横一列に並んで一斉に射撃をするわけではなく、海戦では連合艦隊が丁字の位置からバルチック艦隊の左右の先頭艦、オスラビアとスワロフに集中攻撃をしましたが、バルチック艦隊の後列の艦は距離が遠くまた二列に近い変な陣形だったので有効な一斉射撃ができず、大口径砲数の有利さは生かせなかったようです。
 「射撃のスピード」と「射撃の精度」に関しては日本海軍の方が圧倒的に優れていたようです。バルチック艦隊でも中央管制射撃の方法を採用していたと言われていますが、初戦の集中攻撃で電気配線網や上部構造物が壊滅して、また下士卒の練度も劣っていたため有効な統制射撃が出来なかったと思われます。
 さらに重要なことは火薬の質と信管の精度でしょう。黒色火薬で不発の多い信管を使用したロシア海軍に対し、極めて敏感な伊集院信管と下瀬火薬を使用した日本海軍の火力がロシア海軍を圧倒しました。
 下瀬火薬は爆発持に約3000度の高温を発して周りを焼き尽くすと言われていて、ロシアの主要艦艇のほとんどは大火災に包まれました。これは観戦武官ガルシア大佐が述懐しているように、甲板や上部構造物の上に石炭や諸物資をうずたかく積みあげて「浮かぶ倉庫」状態になっていたためではないでしょうか。
 命中して爆発した下瀬火薬の火力でこれらの石炭等が引火し大火災になったものと推定されます。一般にロ提督の艦隊は積載過剰による速力や旋回性能の低下が問題だったと言われていますが、むしろ可燃物を甲板上に満載して、それらに3000度の爆発力を持つ下瀬火薬を多数食らったことが大火災を生み、海戦早々で既にバルチック艦隊の戦闘能力を奪った大きな要因ではないかと考えます。
 東郷艦隊も結構命中弾を食らっていますが、海戦初頭の一斉打ち方で多数の命中弾を食らったロ提督の艦隊は大火災によって早々に戦闘力を削がれ、これが連合艦隊の被害を少なくした要因の一つと思います。


b.速力の比較
 この点では連合艦隊はバルチック艦隊を完全に圧倒しています。何と言っても18,000海里(33,340Km)もの海原を航海して来て、その間まともな修理・修繕や艦底の貝殻落としも出来ず、鈍足の旧式艦艇や病院船等の特務艦も引連れていました。
 さらに石炭補給の困難さや設備の貧弱なウラジオ港についてからの為に、いやというほど物資を艦上に積み上げていて積載過剰の状態になっており、船の重心もかなり上がって速力に留まらず操艦にも支障をきたしていたようです。
 また、戦闘開始時点でも病院船や運搬船、仮装巡洋艦や工作船等の特務艦艇が戦闘艦艇の間に紛れ込んだ陣形になっていて、ボロジノ級戦艦がいかに18ノットの快速でも、これらに足を引っ張られて思うような艦隊陣形を作れなかったと思われます。
 海戦初頭、主力であるスワロフ以下の第一戦艦隊はロ提督から11~12ノットの速力を命じられていたようですが、他の艦艇は陣形を維持する為には9~10ノット程度で動かざるを得なかったようなので、東郷艦隊から見ればどん亀の集団を好きなように包囲して砲撃できたのではないでしょうか。
 艦隊行動を行う場合はスピードは最も船足の遅い艦艇にあわさざるを得ず、高速の艦艇はその利点を生かせません。連合艦隊は修理・修繕はバッチリ終えていて、第一戦隊は18ノット、第二戦隊は20ノットの快速ぶりを遺憾なく発揮しました。東郷艦隊は常にバルチック艦隊の進行方向の頭を押さえ続け、波飛沫が砲の照準の邪魔にならない風上から砲撃することが出来ました。これは船速が統一されていてかつ操艦技術の高さによるものです。
 日清戦争の黄海会戦でも定遠・鎮遠というヘビー級の戦艦を第一遊撃隊の吉野以下の巡洋艦隊が快速を生かし、速射砲のつるべ打ちでその戦闘力を奪って撃退しました。
 この海戦での勝利は火力もさることながらスピードの勝負だったのではないかと考えます。


c.防御力(装甲等)の比較
 戦艦群の防御力、すなわち装甲の比較はあまり注目されていないようですが、筆者は東郷艦隊、特に戦艦三笠が多数の命中弾を喰らったにもかかわらず致命傷に至らなかったのはその防御力にあったと考えます。
 先の比較表をご覧頂ければわかりますが、ロ提督の主力戦艦ボロジノ級4隻は13,500tクラスで、三笠と朝日は15,000tクラス、やや旧式の富士は12,000tクラスで戦艦オスラビアと同じくらいですが、敷島は14,800tです。ボクシングで言えばスーパーヘビー級の東郷艦隊に対し、ロ提督の主力戦艦隊はライトヘビー級です。当時の戦艦で基準排水量が1,500tもの差があればその防御力に大きな隔たりがあったと考えられます。
 特に戦艦三笠は英国の名門ヴィッカース社が建造し最新式のクルップ・セメントクロムニッケル鋼を各部位の装甲に施しましたが、これは当時のハーヴェイ鋼より耐弾性で強く、海戦では多数の命中弾に耐えました。筆者は東郷提督が無謀ともいえる敵前大回頭を行って旗艦として矢面に立った裏には、三笠の防御力に絶大な信頼を置いていたからと考えます。東郷提督は英国にて海軍軍人としての基礎を経験し学んだ人なので、英国の製造技術に対しても大きな信頼を寄せていたものと推測されます。
 バルチック艦隊の戦艦オスラビアは海戦初頭に集中砲火を浴びて早々に沈没しましたが、戦艦スワロフ、ボロジノ、アレキサンドル三世も海戦終了の直前に相次いで「転覆」して沈没しました。ボロジノの転覆は実際に東郷艦隊でも目撃されており、ボロジノとアレキサンドル三世は大火災の後、くるっとひっくり返って沈んでいます。転覆して沈んだ場合は乗員は海に飛び込む余裕がなく、スワロフも含めた三隻の乗員合計2,700人のうちで救助されたのはボロジノの75ミリ砲手ユシチェンコ一人でした。オスラビアが沈んだのは昼間だったこともあると思われますが、400名が海に飛び込み内260人余りが救助されています。オスラビアはボロジノ級ではなくペレスウェート級の戦艦で一回り小さく、もともと装甲にも復元性にも問題があったためか転覆して沈没するのが早かったのでしょう。オスラビアもボロジノ級3隻も浸水によってくるっと転覆していますがオスラビア以外は徐々に傾いて行って約5時間後に突然転覆して沈みました。

 この点についてはボロジノ級戦艦の船体構造がフランス製特有の「タンブルホーム」構造だったため、その弱点である復元性が原因だったとする説があります。逆にタンブルホームの構造が特に復元性を妨げてはいないとする説もあります。さらに船体を縦断する形で中央隔壁があったため、片側の側舷に砲撃で多数の穴が開いて浸水した場合、水が片側にだけ溜まってしまい傾斜を戻せなかったから転覆したとする説もあります。タンブルホームの構造はダルマさんのような形ですから、下膨れになっていて、本来なら重心は低くなると思うのですが。
 筆者は船体工学に関しては全くの素人のためこの当りのことはよくわかりません。しかしながら筆者の推測としては、タンブルホームの構造だとどうしても甲板上の面積が小さくなるため、石炭等の資材を積載すると上へ上へと積んでいくことになり、結局重心が上がって復元性を弱めた可能性はあると思います。ただ激しい被弾によって上部構造物や積載していた資材などは、すっかり燃え尽きるか海面にすっ飛ばされて、早々に消滅したと想像するのですが………正直良く分かりません。詳しく研究された方がいらっしゃったらご教授頂きたいと思います。

ボロジノ級と同じ戦艦ツァザレヴィッチの断面図。
タンブルホーム構造である。

 いずれにしろフランス製の戦艦特有の問題点として、舷側装甲帯の幅が喫水線上わずか25センチ程度しかなく、やや腰高の設計の為にもともと復元性に難があるという欠点が海戦の結果につながったのではないか。特に当日は「波高し」ですから装甲帯の施されていない船腹が露出するケースも多く、ここに多数の命中弾を食らって穴だらけのところに大量の浸水を呼んで転覆につながったものと推察しています。


< ※日露戦艦の正面図を比較したもの。
ロシア艦の「腰高さ」が感じられます
(3D・CGシリーズ)日本海海戦」(双葉社)より)


d.海戦に関する思想の差
 東郷艦隊は全て徹甲榴弾と鍛鋼榴弾を使用しましたが、遠距離からの射撃では鍛鋼榴弾を使用し、3,000メートルから4,000メートルの接近戦になってから徹甲榴弾を使用しました。これに対してロ提督の艦隊は最初から徹甲弾(炸薬がなく装甲に穴をあけるもの)と徹甲榴弾を使用しています。東郷提督は遠距離からの砲撃では徹甲弾や徹甲榴弾の威力が大きく落ちることを熟知しており、当初から鍛鋼榴弾を使ったものと思われます。現に観戦武官マヌエル・ガルシア大佐は、乗っていた装甲巡洋艦日進の舷側に30センチ徹甲弾が命中したものの炸薬が入って無く、そのまま舷側に突き刺さったという珍しい現象を報告しています。
 この点、東郷提督は敵の「戦闘能力を奪う」ことを優先したのではないかと考えます。当時の鋼鉄製で装甲を施された戦艦は砲撃ではなかなか沈むことは無いというのが世界の海軍の常識でした。現に10年前の日清戦争での黄海会戦では撃沈した4隻はいずれも巡洋艦クラスで、7,000tクラスの定遠、鎮遠という当時のド級戦艦は大破させて戦闘能力は奪ったものの海戦では撃沈できませんでした。ボロジノ級の3隻は海戦開始から約5時間もかかって沈没しています。これは砲戦によって電気系統が破壊され大量の浸水を排水するポンプ等が使用不能になり、修理すべき兵士達も多くが死傷したうえ、艦の高重心で復元性の悪さも重なって転覆したものと思われます。沈没した艦艇も含めて、バルチック艦隊は開戦初日にしてほとんどその戦闘能力を喪失しています。
 日清戦争の黄海会戦で第一遊撃隊司令官の坪井航三少将は清国北洋水師との戦いの前に次のように語ったと言われています。
 「定遠沈まずとすれば、これを沈める必要はない。艦上の敵兵を射掃して皆殺しにすれば即ち定遠無きに等しい。うまく行けば分捕れるのではないか。自分の軍艦も沈む覚悟で衝撃するのは邪道である。戦闘員を殺傷して戦闘力を奪うのが最善であり、それには艦隊操作と速射砲の活用とが肝要である」

 当時の世界の海軍では未だ戦闘艦の衝角突撃によって敵艦を沈めるというのが主流でした。
 1866年のイタリア海軍とオーストリア海軍による「リサ海戦」でも、墺海軍テゲトフ司令官は衝角突撃で伊海軍に勝利しました。
 黄海会戦でも北洋艦隊は横陣による衝角突撃を仕掛けてきたのに対し、日本海軍は単縦陣で高速を生かして敵艦隊の周りを旋回し、速射砲のつるべ打ちで艦上の清国水兵をなぎ倒してその戦闘力を奪いました。
 大破して威海衛へ逃げ込んだ定遠と鎮遠は水雷攻撃で着座させて鎮遠は戦後捕獲しました。
 まさに坪井少将の作戦通りになり、当時の海軍軍人としては恐るべき慧眼です。
 このように日本海軍は当時の世界の海軍の常識、定石を次々に覆して勝利を重ねたと言えます。
 東郷提督の頭の中には、この坪井少将の海戦思想がしっかり根付いていたのではないかと思慮します。


日清戦争時の坪井少将の第一遊撃隊旗艦 巡洋艦 吉野


(その6-Ⅴ配信 了)