7. 結論 ― 海戦勝利の要因は何だったのか

笹本 憲一

 19世紀の時代、ヨーロッパ列強の帝国主義の嵐が吹きすさぶ中で日本は近代国家として歩み始めました。その時の最大の脅威は何と言ってもロシアであり、江戸幕府末期の頃から幕臣たちも警戒していました。西南戦争も将来のロシアとの戦いの予行演習だったと言う識者が居るくらいです。
 筆者はこの戦いはするべきではなかったと思っていますが、当時の日本が仲良くしたくても帝政ロシアは全く取り合わなかったでしょう。共和制の民主主義による国民国家を目指したヨーロッパ列強に比べ、ロシアは何と遅れていたことか。特に皇帝ニコライは愚鈍であったと断言したいです。既に世界は王侯貴族の時代から変わりつつあることを見抜けず、国内の騒乱を無視し、直接ロシアの利害に絡まない日本に恐怖心を植え付け、朝鮮占領を企てました。日本など一瞬で蹴散らせると錯覚していましたが、日本の実力を見抜いていたのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの英国でした。彼らは明治維新に深くかかわっており、また、北清事変(義和団の乱)での柴中佐以下の日本人数十人の奮戦ぶりに深く感銘を受けていました。
 筆者は通り一遍の歴史研究者ではないので当時の英国を操作していたロンドン・ロスチャイルドや大陸欧州のパリ・ロスチャイルド達の思惑は推察できます。彼らは金融支配の道具である中央銀行の設置をアレキサンドル皇帝に拒否され恨んでいたし、ロマノフ王朝の財宝にも魅力を感じていました。彼らはいずれ帝政ロシアを崩壊させようと画策していましたが、日本はその道具にされたのかもしれません。ロスチャイルド一族は明治維新を演出して以来、日本に対して様々な影響力を及ぼしていますが、この辺りは本稿から離れるのでここでは省略します。
 いずれにしろ、ニコライがもう少し利口で立憲君主国としてのロシア帝国を目指していたなら日露戦争は回避できたかもしれません。返す返すロシアは日本を挑発すべきではなかったと思っています。


①同盟国、友好国の支援

 日本海海戦の勝利につながった同盟国英国と友好国アメリカの支援については既に述べましたが、ここではその資金に関して述べたいと思います。日露戦争遂行のための日本国債を外国金融機関に購入してもらうため、欧州行脚した高橋是清については良く知られています。特に米国クーン・ローブ銀行のジェイコブ・シフが日本外債の購入を積極的に支援してくれたため、高橋は軍資金の調達に大成功したと言われています。ジェイコブ(ヘブライ語ではヤコブ)・シフはロスチャイルドの米国総支配人で全米ユダヤ人協会会長でもあり、ロシアで迫害されているユダヤ人のために日本を応援したと言われています。それもあるでしょうが、やはりこれは投資です。
 パリ・ロスチャイルドは既にロシアに大量の投資をしており、ロンドン・米国ロスチャイルドは日本に投資する。戦争の両方に投資するのは彼らの常套手段です。アメリカ独立戦争でも同じことをしています。簡単に言えば二つの国や勢力に戦争をさせて両方に大金を貸付け、買った方からは金利と成功報酬、負けた方からは担保である領土を取るのが彼らのビジネスです。

 高橋是清はまず欧州へ飛び、ロンドンの金融家のパーティーでロスチャイルド関係の銀行家から米国のヤコブ・シフを紹介されて米国に渡り、その任務に成功したことになっています。
 筆者はここに「アレキサンダー・アラン・シャンド」が絡んでいると推察しています。
 アラン・シャンドは知る人ぞ知る、日本銀行の立ち上げに活躍した人で、ロンドン・ロスチャイルドの重鎮です。彼は1844年英国スコットランドの名門の生まれで、1866年に22歳で既に来日しています。
 明治5年に明治政府の要請で日本銀行の創設のためのアドバイザーとして明治政府のお雇い外国人として再度来日しています。明治政府が招聘したのか、ロンドン・ロスチャイルドが中央銀行の設置を指示して日本に送り込んだのかは分かりませんが中央銀行、すなわち日本銀行の設立に多大の貢献をしています。

高橋是清

 アラン・シャンドは明治5年から10年まで日銀に在籍していますが、高橋是清はこの時は文部省(今の文科省)に在籍していて学校の校長(今の開成中学・高校)等をしていました。高橋が日銀に入るのは明治25年頃なので、アラン・シャンドと面識があったかどうかは分かりません。
 日露戦争が不可避と判断した明治政府は当時日銀副総裁だった高橋を欧米に派遣して国債の募集に当たらせましたが、やみくもに欧米へ行っても巨額の国債購入をして貰えるとは思えません。当然何らかの根回しをやっていたはずですが、このときロンドン・ロスチャイルドへの橋渡しをアラン・シャンドに依頼したのではないかと推察しています。日本皇室とロンドン・ロスチャイルドはすでに明治維新前後から深い関係があったと言われています。明治政府はロスチャイルドとその盟友サッスーン(トーマス・グラバーの親分)が経営しているHSBC銀行(香港上海銀行)の極東支店から、明治政府の立ち上げ時に巨額の借入をしています。今でも日本橋のHSBC銀行東京支店の受付には明治天皇名の感謝状が飾ってあります(筆者確認済)。

晩年のアラン・シャンド

 全く筆者の推測に過ぎませんが、日銀の設立に立ち会ったアラン・シャンドが、日本の危機に際して日本国債の募集に全く無関係だったとは到底思えないのです。寡聞にしてアラン・シャンドが高橋是清の資金調達を応援したという事実はまだ見たことも聞いたこともないのですが、ご興味のある方はぜひご研究頂きたいと思っています。

(筆者の私見)
 筆者は公認会計士ですので一言付言させて頂きます。アラン・シャンドは日銀立ち上げに際して、近代複式簿記普及の必要性を感じて、「銀行簿記精法」という書を執筆し、明治6年にジョン・万次郎と大蔵省の役人とで翻訳して世に出しました。明治7年に慶應義塾の福沢諭吉が「帳合之法」という複式簿記の本を出版していて、これがわが国初の複式簿記書という方々が居ます。しかしながら「帳合之法」は当時の米国の簿記専門学校の入門書テキストを翻訳した程度のもので、別に福沢諭吉が執筆したものではありません。
 福沢諭吉が簿記を習得していたかどうかは分かりませんが、当時30歳のアラン・シャンドの方がその道のプロであり、本人が執筆した「銀行簿記精法」がわが国初の複式簿記書であるというのが筆者の説です。
 日本海海戦に何の関係もない話で申し訳ありませんでした。



②黄海会戦の一発が運命の分かれ道だったか

 日本海海戦に先立ち、旅順艦隊がウラジオストックへ逃亡しようというのを東郷艦隊が阻止したのが「黄海会戦」でした。8月7日、乃木将軍の第三軍による重砲弾が旅順港に降り注ぎはじめ、8月9日、一弾が戦艦レトウィザンに命中し、また貨物船を撃沈して火薬庫にも被弾し大火災になりました。ニコライからの命令もあり、ここに至って旅順艦隊指揮官のウィトゲフト少将は旅順港からの脱出を決意し急遽8月10日午前4時30分、旅順艦隊は港外に出てウラジオストックを目指し脱出を試みました。
 旅順艦隊を発見した東郷提督は、直ちに旅順艦隊の頭を押さえる「丁字戦法」を仕掛けましたが、ウラジオへの脱出を目的として海戦の意思のない旅順艦隊を危うく取り逃がしそうになりました。この時の教訓から、日本海海戦時には東郷提督は丁字戦法の危険性を鑑みて頭を押さえながらもひたすら併行戦に徹した感があります。
 黄海会戦ではほぼ互角の砲戦をしたと言われていますが、損害が多かったのはやはり旅順艦隊の方で、特に旗艦である戦艦ツェザレビッチの艦橋直撃弾、いわゆる「奇跡の一発」が勝敗を決しました。暗くなって海戦終了の直前に、三笠の主砲の一発がツェザレビッチの艦橋を直撃し、旅順艦隊司令官のウィトゲフト少将他幕僚全てを即死させ、また操舵手も舵輪にもたれかかったまま事切れたため、ツェザレビッチは大きく旋回して後続の艦隊に向かっていったので旅順艦隊は大混乱をきたして散り散りになりました。

 この日出港した旅順艦隊20隻のうち、旅順港へ逃げ帰れたのは戦艦5隻と巡洋艦3隻、それに駆逐艦2隻の10隻だけでした。
大破してボロボロになった戦艦ツェザレビッチを含めて10隻は中立国の港に逃げ込み戦争終結まで留め置かれました。
 旅順港へ逃げ帰った艦艇も東郷艦隊の下瀬火薬で散々打ちのめされもはや海戦では使用できない状態でした。
 旅順艦隊、すなわち第一太平洋艦隊はこの日をもって壊滅したのです。
 しかしながら東郷提督は旅順艦隊がもはや戦闘能力を失ったことを旅順要塞陥落まで知らなかったため、第三軍は旅順攻撃でさらに大きな犠牲を払うことになったと言えます。

ボロジノ級戦艦ツェザレビッチ

 もしも旅順艦隊の半分でもウラジオストック港に脱出していたら日本海海戦の結果はだいぶ違っていたと思います。なによりも戦艦ツェザレビッチ艦橋を直撃した「奇跡の一弾」が日本海海戦の勝利を導いたと考えます。



③国民国家日本と専制帝国ロシア

 専制国家の常として、一般の民衆には教育を施さない習性があります。専制国家には「国民」という概念がなじまないので一般民衆と呼びますが、彼らに教養を身に着けれられて困るのは支配者達です。搾取や農民の奴隷扱いなど、社会の矛盾を憤り団結することが恐ろしいのです。ロシアは日露戦争前後でも実質的に農奴制は残っており、一般民衆の教育レベルは低く認字率は30%をはるかに下回っていたと言われています。対して日本では幕末でも認字率は武家は100%、庶民でも男子54%、女子19%、都市部では庶民でも100%近かったと言われています。江戸時代を通じて藩校や寺子屋等、子弟の教育を重視した成果がこの戦争でも生かされたと思います。軍隊では末端の兵士でも命令文を読んだり伝令分を代筆したり、文字を読んだり書いたりできなければ戦闘力を削がれます。特に海軍では操艦をはじめ砲撃、連絡等かなりの専門的な仕事が多く、信号書の解説が読めないなどでは戦争になりません。訓練の前段階で読み書きを教えなければならないとしたら、一人前の兵士を作るのに膨大な時間がかかってしまいます。
 また、日本は教育のみならず、明治維新によって「国家」という概念が普及しました。江戸時代までは民衆にとって国というのは領主の支配地や「藩」のことでした。「おらの国は備前だぜ」てなわけで、明治維新によって北海道から九州・沖縄までが自分たちの「国」であるという思想が民衆に定着しました。
「国家」という概念はそれほど古いものではなく、欧州でもつい最近までは○○国王の領地、何とか侯の領地という概念が普通で、国家という考えが生まれたのはフランス革命以後と言われています。特に一国家一民族である「国民国家」は意外に少なく、長い歴史を持った一民族が一つの国を作っているのはアジアでは日本とイラン(ペルシャ)くらいでしょう。
 専制ロシアはロシア人だけでなく、植民地も含めて多数の民族で構成されていました。純粋な(?)スラブ民族でもウクライナ人やポーランド人が居ます。コサック騎兵のご先祖は靺鞨、つまり韃靼人ですし、元朝の支配が長かったのでモンゴル系も多く、ユダヤ人やトルコ系民族もいます。ロシア帝国はすなわちロマノフ王朝が支配する地域に過ぎません。
 国民という名の下で日本人は愛国心に目覚めました。しかしながら、ロマノフ王朝の皇帝や貴族の支配下で、奴隷として、少数民族として迫害されていた人たちにロシアへの愛国の情は生まれないでしょう。
 筆者は現代の中国にかつてのロシアの面影を見ます。言論統制や知識人への迫害、農民を奴隷扱いするその姿は、共産党と名前を変えた古代王朝に過ぎないと思っています。
 結局専制国家の愚民政策は大きな代償を払うことになるようです。



④様々な幸運

 日露戦争は日本海海戦のみならず、陸海軍の奮戦はもとよりですが様々な幸運によって勝利することが出来たと思います。これまで記述した事実もそれぞれ「幸運」による部分が多々あると思っていますが、ここでは日本海海戦と日英同盟にのみ焦点を当てて、筆者が幸運だったと思われる点をまとめてみました。

・ロマノフ王朝の耐用年数が尽きかけていたこと
 既に専制帝国として統治の限界に来ていたロシアは国内の騒乱を本気で抑えようとしていなかった。これはもっぱらニコライ皇帝の資質のみでなく、ロシアの保守的な貴族社会の体質がフランスや他の列強諸国の動向を見て見ぬふりをしていたからではないかと考えます。その結果海軍では士官と下士卒の断絶が著しく、サボタージュや軍規違反、果ては命令への反抗等、戦闘集団としての一体感が醸成されなかったと思われます。

・ロシアの満州陸軍総司令官クロバトキンの懇願
 そもそもバルチック艦隊の派遣を最も懇願したのは「退却将軍」と揶揄された満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将でした。彼は日本軍の実力を高く評価しており、陸戦での補給の重要性を熟知していた為、シベリア鉄道1本の輸送に頼る補給に大きな不安を抱いていたようです。よって補給戦で有利にたつ為に日本軍の海上輸送を何とか阻止したいということをニコライ皇帝に再三訴えていて、これがバルチック艦隊の派遣を決意させた最大のポイントと言われています。
 もしバルチック艦隊の派遣がなかったら日本海海戦の大勝利は無く、ニコライは和平交渉を拒否して戦争はより長く継続し、日本の体力が持ったかどうかわからなかったでしょう。

・ロ提督の大失策が英国政府を本気で怒らせたこと
 何と言ってもロ提督の艦隊が英国の漁船団を砲撃して死傷者を出したドッガーバンク事件が大きかったと思います。この事件で英国政府のみならず一般国民までも激怒させ、反ロ世論が支配的になりました。
 おかげで形だけの同盟ではなく英国は本気で日本を助けようとしてくれたのではないかと考えます。

・北清事変での柴五郎中佐と日本軍の活躍 (紙面の都合上北清事変の詳細は省略致します)

 日英同盟のおかげで弱小国日本がロシアという超大国との戦争にかろうじて勝てたということは以前の項で書きましたが、英国が日本と同盟を結んだ動機の一つが北清事変ではないかと推察します。
 北清事変での柴中佐のまれにみる指揮能力や、海軍陸戦隊十数名と志願した日本人達の勇敢な奮戦ぶり、また、救援に駆け付けた日本陸軍の規律の正しさや勇敢な戦闘ぶりの報告から、ひょっとしたらロシアといい勝負になるかなと思ったからではないでしょうか。
 柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたといわれています。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』誌の北京特派員G・E・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということです。
 日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思っています。

柴五郎砲兵中佐(当時)


・英国の技術力を見抜いた日本人の慧眼
 日本海軍の戦艦、装甲巡洋艦等は装甲巡洋艦春日、日進を除けばその主要艦艇はほとんどイギリス製でした。装甲巡洋艦八雲は船体はドイツ製ですが装備や装甲等の艤装はイギリスで行いました。 
 当時の軍艦建造はイタリアが最も進んでいて英国がこれに続いていたと言われていて、諸般の外交的事情からフランスは軍艦建造の意欲が落ちていたようです。ロシアは同盟国であるフランス製の軍艦が主流で一部国内でも建造していますが、設計思想はフランスのそれに従っていたようです。
 この点から、日本海海戦はイギリス製対フランス製の軍艦の戦いだったとも言えます。また、軍艦に限らず、無線機等の各種機器もイギリス製が多かったようです。日清戦争では日本海軍の主力艦である松島橋立、厳島の三景艦はフランス人ベルタンの設計で橋立以外はフランスの造船所で作られました。この三景艦は黄海会戦の実践の場ではほとんど活躍できず、その32㌢巨砲は一発も命中しませんでした。この無用の長物的戦艦で日本海軍はフランス製に見切りを付けたのかもしれません。
 イギリスでは自国の艦艇にもまだ採用していないクルップ・セメントクロムニッケル鋼の装甲等、最新技術を多数日本の艦艇に施しましたが、イギリスの最新の科学技術を信頼したことが勝利につながったのかもしれません。



⑤人・人・人……

 日本海海戦に限らず日露戦争では有名無名含めて大勢の日本人が活躍しました。よくこの時期にこれだけ優秀で有能な人々が現れたものだと感心します。時代が人を作ると言いますがまさしくその通りでしょう。特に感銘を受けるのは各々が近代国家として歩み始めた日本の危機に対して、一片の私心も無く献身的に貢献した精神性の高さです。また、明治の軍人の多くは戊辰戦争や西南戦争等の国内での戦いで実際に弾の下を潜ってきた武家の出が多く、侍としての高い教養と倫理観とともに、戦場での「腹の座り方」が違う戦士としての素養も併せ持っていました。
 日本海海戦に限ってもとても書き切れないほどの人々が活躍し、日本の国運をかけた大プロジェクトに従事しました。明治という「熱い時代」の総決算がこの「日本海大海戦」だったと思います。
 日本海海戦によって日露戦争は日本の勝利として終わらせることが出来ましたが、これは19世紀に吹き荒れていた欧米列強による帝国主義の時代の終わりを告げる号砲だったと言えます。
 当時16歳のインドのネールはアジア人でも白人列強に勝てるということを悟りました。トルコのケマル・アタチュルクは日本にトルコ近代化の姿を見ました。

大正15年11月11日、菊花賞頸飾を拝受した東郷平八郎提督


 まだまだ日本海海戦に関しては語り尽せないことがたくさんありますが、この項は「日本海海戦の真実」として今回で終わらせたいと思います。
 ご清読感謝申し上げます。

笹本憲一