ー 陸海軍確執の極致 ー
陸軍潜水艦始末(上)

伊藤 和雄

はじめに
 下の写真は、見てのとおり潜水艦である。しかし、この艦に掲げられていたのは海軍籍を示す軍艦旗(旭日旗)ではなく日章旗である。乗員もカーキ色の制服を着用した陸軍軍人である。先の大戦で陸軍が開発建造運用した歴とした陸軍所属の潜水艦である。
 なぜ、陸軍が潜水艦を保有するようになったのか、開発経緯と如何に運用され、そして終戦を迎えたのかその始末を振り返ってみたい。

陸軍潜水艦
陸軍潜水艦



陸軍潜水艦構想の背景
 緒戦における日本軍の予想を超える快進撃により開戦半年後には占領地域が東南アジア、南太平洋一帯に拡大していた。しかしながら連合軍の対日反攻作戦が始まると、特に南太平洋島嶼への補給が続かなくなった。
 昭和十七年八月から始まったソロモン諸島ガダルカナル島(ガ島)争奪戦では逐次投入する地上部隊は極度の食糧弾薬の不足に陥り、翌十八年二月にはガ島からの撤退を余儀なくされた。
 陸軍は敗戦の最大の原因は補給にあるとした。ガ島への輸送船団はガ島到着前にその多くが撃沈され、ほとんどが失敗した。海軍は駆逐艦、潜水艦など戦闘艦艇による補給も試みたが、運搬量に限りがあり、しかも被害も少なくなかった。海軍としては基本的には戦闘艦艇を本来の戦闘目的以外に運用されることには消極的にならざるを得なかった。

 陸軍のガ島方面担任の第八方面軍司令官(在ラバウル)今村均中将は、現地視察に来た参謀次長に対し、補給さえできれば戦いに勝てるとの信念の下「駆逐艦や潜水艦を陸軍独自で直接補給に使いたい」と要望している。人望厚く部下から慕われていた今村中将は、駆逐艦で運ぶために準備した一旦詰め終わったドラム缶に「まだ入る」と自ら乾パン袋を押し込むなど、ガ島将兵の窮状に心を痛めていた。


陸軍潜水艦の開発
 十八年三月、大本営陸軍部第十課(船舶担当)荒尾課長から陸軍第七技術研究所塩見少佐へ陸軍輸送潜水艦建造の話が持ち込まれた。本来は海軍が担当すべきであるが、海軍には内密に建造するとのことである。
 第七研究所は「兵器物理的基礎技術の調査研究等」を目的に開設された研究所である。塩見少佐は研究所では水中音響担当であり、水中聴音機の開発のため西村式豆潜水艇を使用して海底までの音響伝搬を調査していた。
 西村式豆潜水艇とは、民間の深海研究所を主宰していた西村一松が自ら考案開発製造した世界最初の自走性と作業性を兼ね備え、三五〇メートルは潜れる深海潜水作業艇である。海底調査とサンゴ採取などを目的として、昭和四年に一号艇が台湾基隆のボイラー工場で、昭和十年に二号艇が横浜船渠で完成している。開戦になり西村は二艇とも陸軍に提供していた。
 塩見少佐に白羽の矢が立ったのは、陸軍の中では潜水艦と比較的縁があったとの理由であるが、造船技術が専門ではない。塩見少佐自身も個人的関心から潜水艦を研究していたとはいえ、随分乱暴な話である。
 ガ島攻防戦以前の十七年初頭頃から陸軍部にも敵の制空権下での輸送手段として輸送潜水艦の構想はあった。緊急性は感じていなかったものの一部に研究は進められ、十八年一月には、第一次世界大戦当時のドイツ潜水艦の建造図面と戦利品として入手したドイツ潜水艦を参考に一応輸送潜水艦の大体の基本設計案は出来上がっていた。
 昭和十年代には、日本の潜水艦建造技術は列国と比較しても高い水準にあった。なぜ自国の海軍ではなく、いくら当時は評価が高かったとはいえ、三〇年前のドイツの潜水艦を参考としたのか、よく解らない。また、基本設計案といってもそのまま製造図面に移行できる内容ではなかった。
 ともあれ、塩見少佐は急きょプロジェクトを編成、基本設計案と西村式豆潜水艇を参考としつつ昼夜兼行で作業し、一箇月後の四月には具体的潜水艦建造に向けた報告書「潜航輸送体研究経過の概要」をまとめ陸軍部に提出した。設計の方針に、次が付言されている。
「本艇の設計試作にあたりては、七技研が過去数年間使用せる小型潜水艇(西村一松氏発明製造)諸元に基調を置き、陸軍自体の技術的、科学的能力のみにて、海軍技術に依ることなく実施する。……」
 海軍の技術を活用しないことを方針としている。ここまで明言する必要がどこにあるのだろうか。溜息がでてくる。
 出来上がった陸軍潜水艦の基本設計の概要は次のとおりである。
 正式名称は「陸軍潜航輸送艇」、通称 マルユ(マルユ)と称された。「潜水艦」の名称を用いなかったのは、海軍籍の艦と一線を画すためである。
 諸元は、全長四九・五メートル、水上排水量二七三トン、水中排水量三四六トン、最大水上速力九・六ノット、最大水中速力四・四ノット、水中航続時間四ノットで一時間、二ノットで六時間、安全潜航深度一〇〇メートル、搭載量米で二四トン、乗員将校三人・下士官兵二二人、魚雷発射管はなく唯一の搭載武器は改造した三七ミリ戦車搭載砲である。戦車砲を全周射界とするため三六〇度旋回するよう改造し、防水、防錆対策を施した。
 建造所は海軍が専管している造船所は使用できないため民間会社のボイラー工場や鉄工所、機械製作所などに委託することにした。


海軍に建造を秘匿した陸軍潜水艦
 なぜ陸軍は海軍に潜水艦建造を秘匿しようとしたのか。
 当時開発を承認した陸軍の最高責任者は総理大臣を兼任する東条英機陸軍大臣である。彼は、潜水艦の開発建造に当たっては、海軍はどうせ反対するだろうから極秘で建造するよう指示している。海軍は当てにはできない、当てにするなということらしい。
 一方、海軍側にも事情があった。本来、海上輸送分野を担当すべき海軍ではあるが、伝統的艦隊決戦思想一本槍で、地道な海上輸送、海上交通保護などの認識は希薄であった。
 昭和十七年十二月、伊三号潜水艦がガ島輸送作戦中、エスペラント沖で運貨艇(大発)を背負って浮き上がったところを米魚雷艇数隻の魚雷攻撃を受けて擱座沈没した。敵艦隊攻撃に訓練を積んできた潜水艦乗りにとって輸送作業中、しかも浮上中攻撃されての沈没は無念であったろう。艦隊決戦であれば喜んで死地に行くが、輸送任務はこりごりというのが彼等の本音であった。
 また、海軍には、陸軍の要望に応えて輸送潜水艦を建造する余裕もなかった。どの造船所も損耗する艦艇の補完のための建造と改修修理で手一杯である。
 結局は、南太平洋に展開された島々への補給は、陸軍自ら乗り出さざるを得なかった。
 それにしても「敵国海軍」「敵国陸軍」ではあるまいし、何か知恵と工夫があったと思われるのだが。なぜ陸軍は潜水艦建造を海軍に秘匿しなければならないのか、頭を下げてまで協力支援を要請したくなかったのであろうか、理解に苦しむ。


陸軍潜水艦完成
 十八年に入り、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島への補給交通手段は潜水艦に限られていた。同年五月、アッツ島玉砕。陸軍は輸送潜水艦を決戦兵器と位置づけ、航空機に次ぐ製造順位に引き上げ、資材配分を見直し建造を急ぐことにした。
 試作一号艇の建造所は山口県下松(くだまつ)日立製作所笠戸工場に決まった。陸軍が笠戸工場に建造委託するに当たり、潜水艦を建造するとは伝えていない。理由は建造を秘匿するためと、〝出来ない〟と建造を辞退されたら困るからである。工場の建造責任者には、断らないことを条件に、初めて図面を見せた。「ボイラーにプロペラを付けたようなものです」と説明している。資材は陸軍が提供するとした。リスク覚悟で引き受けた会社も立派である。
 工場は、先ず船台造りから始まった。六月起工、十月十六日進水、同月三十一日完成。着工から完成まで五箇月間、信じられない程のスピードである。笠戸工場は、当時は大発も製造していたが、本来は機関車工場である。終戦まで五〇隻着工し、二五隻完成、納入している。他に日本製鋼所広島工場(海田市(かいたいち)、終戦まで一〇隻完成)、安藤鉄工所(東京、二隻)、朝鮮機械製作所(仁川、四隻)の計四箇所が建造所となり、終戦までに合計四一隻完成させている。
 エンジンとして採用されたのは、海軍採用の潜水艦用ディーゼルエンジンではなく、元米国製の石油井戸掘削用で、当時は国内生産していたヘッセルマンエンジン二百馬力である。馬力当たりの重量が小さく、燃料も灯油・軽油で可との利点はあったが、整備点火調整に難があり、最後までこれに悩まされる。
 装備機器類も潜水艦用ではなく一般陸上用からの流用が多かった。
 鉛蓄電池は海軍に潜水艦用として納入していた湯浅蓄電池製造から、電動機は同じく三菱電機と東京芝浦電機から使用目的を偽り入手の目途がたった。しかしながら潜望鏡や水防羅針儀などの航海計器類については、どうしても陸軍独自では調達できない。
 十八年六月、陸軍兵器行政本部長から海軍艦政本部長あて正式に機器の調達について援助を要請した。陸軍が海軍に頭を下げたのである。ある意味、それほどまでしても陸軍はマルユの完成に期待をかけたのである。
 海軍は驚愕するとともに潜水艦建造について陸軍が後には引けないことを肌で感じ、急きょ海軍内でも検討し、軍務局から次の援助方針が示達された。
「建軍の本旨に悖るが如き思想を排しつつ海軍軍戦備の整備に支障なき範囲に於いて陸軍側の希望に応じ、技術的指導を行うこととする」
 恩着せがましい目線である。素直に全面的に協力すると、なぜ言えないのだろうか。


陸軍の潜水艦要員養成
 十八年三月、広島宇品の陸軍船舶司令部に潜水艦基幹要員が集められ要員教育が開始された。
 集められたのは兵種に関係なく、エンジン、自動車、機械、造船、製図、測量など少しでも船に関係のあると思われた者達であった。特に多かったのは、エンジンに馴染みがあるとの理由と、戦車の製造が停止され、人員に余裕があった戦車兵からの転属組であった。
 当初、海軍に内密にするため、船乗りになるための基礎教育(航海術、操縦術、海洋学、手旗発光など)は商船関係者が受け持った。しかも、教育期間は三箇月という。海軍では潜水艦乗りになるためには、士官は四年、下士官は五年の教育を受ける。教育する方も受ける方も大変だったと思う。言い換えれば満足な教育を受けないまま実戦配置に就いたということであろう。
 しかしながら、建造が進むと、海軍の現場部隊レベルでは、陸軍に協力支援している。先に述べた潜望鏡、航海計器の提供がそうであり、海軍潜水艦学校(大竹)では、基幹要員の教育も受け持っている。海軍は教育実習を開始するに当たり陸軍から「どんな事故があっても一切海軍の悪口は言わない」と一札とっている。
 この時期、海軍としては、陸軍潜水艦の建造は、それだけ海軍の負担が減じられるわけで、海軍艦艇の建造修理に影響なければ、陸軍の潜水艦建造を妨げる理由はなかった。
 十八年十二月、試作一号艇の完成に合わせ訓練基地となる愛媛県伊予三島に陸軍潜水輸送教育隊が編成され、部隊要員が移駐した。
 十九年六月には、海軍で教育を受けた者の一部が教官となり、一応自前での要員教育態勢が整った。


陸軍潜水艦に関わる問題点
 短期間で研究不足、準備不足なまま建造したため陸軍潜水艦ならではの問題点が幾つかあった。
 先ずは海軍艦政本部の評価である。「設計図は一般配置図一枚のみで、重量計算書、復原性能計算書がない。凌波性はなく外洋航行は無理。水中航続能力不足。沈座を予定するなら行動海域は限定される。電池の課電(充電)に十四~五時間かかるのでは夜間課電しても朝から行動出来ない。急速潜航は出来ない等々」。
 結論として「潜水艦トシテホトンド致命的ノ欠陥ト見ルベク……」と評価している。相当手厳しい。
 運航面では、小型であるため潜航中は乗員が移動するとバランスを失う。このため移動を制限し、逆に必要な傾度を与えたい時は乗員の位置を移動させる処置が必要であった。
 推進器、補機など潜水艦自ら発する音の防音対策がなかった。設計者は、対策として敵が接近するとエンジンを止め〝沈座〟すると説明しているが、説得性に欠けるというか、リスクは覚悟の上なのであろう。
 整備面では、ヘッセルマンエンジンには特殊な点火プラグが使われており調整が難しく、とにかく故障が多かった。燃料の質の低下も影響した。急造機関科員の技量の問題もあったかもしれない。
 居住性は劣悪であった。ベッドは一部将校用の三つだけで他は床で毛布に包まって寝た。乗組員にとって一番の問題はタバコと用便、タバコは我慢するとしても……、用便には石油缶を使用していた。密閉された空間では悪臭の逃げ場がない。海軍の潜水艦には厠があり、汚物は手動ポンプで外に放出する仕組みになっていた。陸軍乗組員には気の毒という他ない。陸軍潜水艦はほとんど浮上航行で運用していたというが、案外このあたりの影響もあったかもしれない。 (つづく)

東郷会機関紙「東郷」(29年3・4月号)より転載