ー 陸海軍確執の極致 ー
陸軍潜水艦始末(下)

伊藤 和雄

陸軍潜水艦エピソード
 敵も味方もまさか陸軍の潜水艦が存在するとは想像もしていなかったため、幾つかのエピソードがある。
 十九年九月、仁川工場で就役した艇を引き取り、その帰路、朝鮮西海岸で仮泊中、日本郵船の貨物船「伊豆丸」(八八二トン)から体当たり攻撃を受けた。敢闘精神旺盛な貨物船船長は、米艦と誤認し、体当たりを敢行した。幸い沈没は免れたが、艇はメインタンクに損傷を受けた。
 十九年十一月、七号艇は三宅島沖を浮上航行中、海軍の特務艦から砲撃を受けた。日の丸の旗を振り、手旗信号したが、更にもう一発砲撃を受けた。幸い命中しなかったものの、特務艦は見たこともない艦種に、敵が日の丸の旗で偽装したものと思い込んだらしい。
 他にも味方から攻撃された事例が幾つかある。エピソードというよりは、解決しなければならない深刻な問題である。陸軍潜水艦の存在が認知されず、味方全体に運航情報が通知共有されなければ、起こり得る事案であろうと思う。
 陸軍潜水艦は航行中、木枝や葉で偽装していたというが、この辺りは陸軍らしい。また、海軍では軍刀は磁気羅針儀に影響しないよう艦内への持ち込みは禁止していたが、陸軍は禁止していない。陸軍軍人にとって刀は手放せない分身だったらしい。
 十九年六月、後に述べる三艇が比島マニラに向け航行中、これを発見した米潜水艦が次のように打電したのを傍受した。「船籍不明潜水艦発見、船尾に日の丸、しかも浮上中、日本海軍にあらず」米艦は結局、攻撃を誘う囮(おとり)と判断したのか、攻撃を控えた。昼間戦闘海域を潜水艦が浮上して航行するなど常識では考えられなかったのだ。


陸軍潜水艦比島へ出撃
 戦果を急ぐ陸軍は、早くも十九年五月に下松一~三号艇及び母船「第二高周丸」(八六六トン)をもってマルユ比島派遣隊(隊長青木健治少佐以下総員三〇七名)を編成、南方軍総司令部のある比島マニラへの移動を命じた。五月二十八日、伊予三島から船舶司令部のある宇品に回航、三十日、期待を背に大勢の見送りを受けて宇品を出港した。
 出港に際し、潜水輸送教育隊長矢野大佐は「マルユ艇の整備が未だ十分でなく、かつ訓練も満足すべき程度に達していないため延期するよう」進言したが容れられなかった。上級司令部の幕僚から「命を惜しむのか」との言葉に「隊として不備を承知の上、止む無く隊員を死地に向かわせてしまった」と戦後述懐している。
 沖縄列島、台湾基隆、高雄経由マニラまでの五一日間の航海は困難を極めた。沖縄沖では一隻が座礁し、台湾沖では荒天に遭遇し三隻とも母船からはぐれた。高雄からマニラに向かう途中、一、三号艇は自力航行できなくなり母船に曳航された。
 前述したように米潜水艦に発見されても攻撃を受けなかった幸運もあったが、ともかく満身創痍の状態で七月十八日マニラに到着した。
 三隻とも性能は消耗を尽くしてしまい、海軍の助力を仰ぎながら復旧整備に努めた。
 十月二十日、米軍はレイテ上陸作戦を開始、レイテ攻防戦が始まった。「多号作戦」と名づけられた強行輸送作戦にマルユ比島派遣隊も参加することになった。しかしながら三艇の整備が進まず、辛うじて二号艇だけが一号、三号両艇から部品提供を得て何とか航行できる状態となった。潜航は不可能であったという。
 青木隊長自ら二号艇(艇長植木清吉中尉)に乗組みセブ島に向かった。マニラから運んできたバッテリー、真空管などの通信機材をセブ島の部隊に渡し喜ばれている。マニラで搭載した糧食に更に糧食を追加してセブ島を出港、途中パシハン島でセブ島から移動、待機していた揚陸隊員野口中尉以下一四名を乗艇させ、レイテ島オルモック湾突入を図った。
 米軍側の記録によると「十一月二十八日午前一時、偵察飛行中のカタリナ飛行艇が浮上航行中の日本潜水艦を発見、探照灯照射、四隻からなる米四十三駆逐隊がこれをレーダー捕捉、砲門を開くも、潜水艦は潜航せず浮上航行のまま、砲一門で応戦してきたため撃沈」
 この時、二号艇は後部甲板にも貨物を搭載しており、潜航の意図はなかったと思われる。青木隊長以下乗員、揚陸隊員四四名総員が戦死した。
 パシハン島出撃時、甲板に子豚が括りつけられていた。乗艇名簿から外れた揚陸隊員が出撃前夜の夕食に、出撃する隊員に食べてもらおうと供した子豚であった。青木隊長は自分達よりも、飢えるレイテの同僚に供したかったのだろうか。
 一号艇と三号艇は、二号艇出撃後もマニラの海軍ドックで懸命の整備復旧作業に当たっていた。何とか自力航行ができるようになったが、この頃は、マニラへの空襲が激しくなり、一号艇は仮泊中爆撃により沈没、三号艇は移動中座礁海没、母船の「第二高周丸」も爆撃により火災沈没、替わった「白河丸」(八八九トン)も爆撃のため沈没した。かくしてマルユ比島派遣隊は壊滅した。生き残った船舶兵は、他の陸軍兵とともにルソン島山中で歩兵として戦った。


マルユ艇特攻隊員を救出
 陸軍潜水艦は補給に関しては期待されたほどの戦果はなかったものの特攻隊員を救助した事例がある。
 二十年三月、米軍沖縄上陸、五月には沖縄へ向け陸海軍の特攻隊の出撃が頻度を増していた。鹿児島枕崎から南西六十キロの位置に、特攻機が九州南部の基地から沖縄へ向かう際、航法上の基点となる黒島があった。島民は老人、女性、子供二百人あまりの小さな孤島である。
 この島にエンジン不調のため三機五名の陸海軍の特攻隊員が不時着していた。一人は全身火傷で重傷だった。島には医療施設も無く、船便も無く、外部との通信手段も無かった。隊員はいた堪れない思いで上空を南へ向かう遼機を見送っていた。
 また、島には四月以降九州南方の「坊の岬沖海戦」で沈没した戦艦「大和」などの乗員と思われる多くの遺体が黒潮に乗って流れ着いていた。
 しばらくして沖合に日の丸表示の潜水艦が現れた。マルユ一〇号艇(艇長松岡中尉)で、たまたま修理整備のため立ち寄ったのだ。艇は五名を収容し、二〇柱の遺骨と一緒に内地に連れ帰った。


戦争末期の陸軍潜水艦
 十九年七月、サイパン島玉砕、二十年三月、硫黄島玉砕、沖縄戦開始、戦局は敗戦の一途をたどり、戦闘海域は本土近郊に限られてきた。
 当初構想していた潜水艦を南方島嶼への補給に運用する要求が薄れ、またその余裕も無くなった。兵員を乗せて敵の占領地域に逆上陸させる案も出たが、潜航速力二ノットでは、発見されずに目的地へも行けない。本土近海の島への補給は、搬出入がハッチの大きさで制限される潜水艦よりも機帆船の方が効率がよい。
 十九年から二十年にかけて、海軍も輸送用潜水艦の必要性を認め、輸送を主目的とする大型の伊三百六十一型(丁型)と小型の波百一型潜水艦を就役させた。
 したがって、此の時期は陸軍、海軍それぞれが輸送潜水艦を保有することとなった。戦争末期になると丁型潜水艦は、輸送ではなく回天搭載艦としての出撃が多くなった。全ての対応が場当たり的で後れ後れである。
 日立製作所笠松工場では二十年早々、海軍から本土決戦用の二人乗り潜水艇「海龍」の建造命令を受け、マルユ艇に代えて建造を急ぐことになった。建造に当たり、マルユ艇用に準備した資材器材を流用し終戦までに五隻を完成させている。「海龍」は現在、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に展示されている。
 あれほど期待された陸軍潜水艦ではあるが、戦争末期には活躍の場もほとんどなくなった。
 終戦時残ったマルユ艇は、完成した四一隻中、比島に派遣された三隻、伊豆下田で沈座中爆撃を受けた八号艇及び朝鮮群山沖で暴風雨のため座礁転覆した一隻を除き三六隻である。残存隻数が多いのは、戦争終期、あまり運用されなかったという証左であろうか。

爆破海没処分前のゆ艇
爆破海没処分前のマルユ


 残った陸軍潜水艦は全て米軍により爆破海没処分となった。なお、米軍は比島で座礁沈没した三号艇を後に浮揚させ本国へ搬送している。


おわりに
 それにしても陸軍潜水艦マルユとは一体何だったのだろう。
 構想から就役まで一年足らず、しかも建造場所は造船所でなく造船経験のない民間の工場である。東京の安藤鉄工所は、元は製缶町工場であった。陸軍作業隊の支援を受けたとはいえ、空襲下、よく二隻も就役させたものだと思う。
 マルユ建造に関わった設計者、官民の建造関係者、そして全くの素人がイロハから教わって僅かな期間で潜水艦乗りとなり、出撃して行ったマルユ艇乗組員達全ては立派であり賞賛に値する。彼らには何の責任もない。乗組員はマルユ艇乗組員を示す紺地に金モールの舵輪と桜があしらわれた特殊艦艇勤務者胸章を誇りに、懸命に努力し僅か三箇月で潜水艦乗りとなった。国家に忠誠を尽くし、同僚を想う気持ちがひしひしと伝わってくる。
 しかしながら、陸軍潜水艦の存在は軍事史上決して自慢できるものではない。日本の軍事装備開発史上から拭い消したい汚点ともいえる。
 問題は組織と戦争指導者にある。陸軍と海軍の任務役割をより大きな権限をもって仕切る組織が無かった。国家全体を想い、長期展望にたち意思決定できる指導者がいなかった。あらゆる面で陸軍と海軍が衝突し、妥協がなく、資材の配分争いに互いに策を巡らせ、結局は物的資源を無駄にした。
 陸軍潜水艦の建造を海軍に秘匿するよう指示したのは東条陸軍大臣(総理大臣兼務)であるが、彼には、サイパン島陥落まで海軍からミッドウェー海戦敗戦の正確な事実を知らされていなかった。信じられない話である。彼は、来航する米艦隊を聯合艦隊が迎撃撃滅するものと思っていたし、海軍もそう公言していた。だからこそ負けるはずはないと判断し、島民の引き揚げが遅れ悲劇が生まれた。海軍は国民に対してどころか陸軍にもミッドウェー海戦敗戦の事実を秘匿していた。
 敵の戦力、味方の戦力を精確に把握し組織全体で共有していなければ、的確な戦略、戦術を策定することはできない。当たり前のことである。自国軍隊内での縄張り争い、こんな感覚で世界を相手に戦える訳がない。
 当時の戦争指導者達の多くは日露戦争に若年士官、将校として参戦し、大勝利の美酒を味わっている。いつまでもこの美酒の味が忘れられず、思考が停止し、組織の改革も、近代装備の開発も怠った。教育も歪んだ精神教育が偏重され、情報を軽視し、合理性が排除された。大戦中、永野軍令部総長は、バルチック艦隊の東航に準(なぞら)えて「西航する米艦隊を我が国近海で待ち構え、艦隊決戦を挑み撃破します」と上奏している。
「命を惜しむのか」とマルユ比島派遣隊を無理やり出撃させたあの司令部幕僚は、顚末にどう責任を感じたのであろうか。執筆していて、苛立ちと悲しみが湧いてくる。
 我が国は先の大戦について未だ国家として総括することなく、また敗戦の原因と責任を明確にしていない。研究テーマに「陸軍潜水艦」を取り上げただけでも敗戦の原因となる主要素が見出せる。戦争の悲惨さを強調するだけでは戦没者への真の供養に繋がらない。先の大戦を検証し、教訓を残すことが必要と思う。
 近い内に「マルユ陸軍潜水輸送教育隊記念碑」のある伊予三島と空襲で爆沈した「マルユ八号艇慰霊碑」のある伊豆下田大浦八幡宮を訪れたいと思っている。(おわり)

東郷会機関紙「東郷」(29年5・6月号)より転載