日本軍による捕虜虐待の真実(上)

伊藤 和雄

はじめに
 先の大戦では、日本軍は捕虜を虐待したとして多くの関係者が、東京裁判(極東国際軍事裁判)などで処断された。また、我が国の中学・高校の歴史教科書でも、「たいめん鉄道工事」や「バターン死の行進」など日本軍による残虐行為の事例を取り上げ、日本軍が捕虜を虐待したと教えている。
 日本人は、日露戦争におけるロシア人捕虜及び第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜に対して、極めて寛大な処遇を施したのがよく知られている。
 日本人の捕虜観は、第一次大戦から大東亜戦争までの、僅か二十数年で大きく変容したのであろうか。
 本稿では、捕虜問題を考える上での一助とするため、先の大戦における日本軍による捕虜取り扱いの実態に焦点をあて、日本人の捕虜観について、考究してみたい。
 なお、「捕虜」と同意語で用いられている「りょ」は、法制上の公式用語であるが、本稿では、固有名詞を除き、現在一般的に用いられている「捕虜」の表現で、統一使用する。


BC級裁判の法的背景
 昭和二十年八月十四日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌十五日には「終戦ノ詔書」がラジオを通じて発表され、日本軍は降伏した。ポツダム宣言第一〇条には、「……吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ……」とある。連合国による戦争犯罪人の処罰は、降伏条件のひとつであった。
 東京裁判では「平和に対する罪」として、いわゆるA級戦犯二八名が被告の席に立ち、七名が死刑の判決を受けた。
 特定の地域での戦争犯罪者に対して行われた裁判、いわゆるBC級裁判では、約五、七〇〇名が戦犯として裁判を受け、九八四名が死刑となった。罪名のほとんどが捕虜、抑留者、住民等の虐待である。死刑になった者の内、一〇〇人以上が捕虜収容所関係者である。
 BC級裁判は、降伏文書に署名した米国、英国、中国、豪州、仏国、オランダと米国のマニラ法廷を引きついだフィリピンによって執行された。
 B級とC級の区別であるが、B級は「通例の戦争犯罪」を犯した者、C級は「人道に対する罪」を犯した者、あるいは、B級は殺害、虐待等の残虐行為の責任者、C級はその実行者を指すとの説もある。しかし、 区別が難しく一般にBC級裁判と呼んでいる。BC級裁判は、連合国各国がそれぞれの法律を定め、軍事法廷を開いている。
 戦争に関する国際法は、一八六三年と一八六四年、ジュネーブにおける国際会議で、赤十字社の設立と傷病者の救護等を定めた条約が制定されたのをこうとする。捕虜に関する本格的国際法として成文化されたのが、一八九九年、オランダ・ハーグ平和会議で規定された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」などの条約(ハーグ条約)である。日露戦争においては、日露両国は、これを批准し、この国際法の下で戦った。その後、ハーグ条約は、一九〇七年に改定され、我が国は、これも批准している。
 第二次世界大戦下の、捕虜に関する最も新しい国際条約は、一九二九(昭和四)年に制定された「傷病者ノ状態改善ニ関スル条約(赤十字条約)」及び「俘虜ノ待遇ニ関スル条約(ジュネーブ条約)」である。
 いずれの条約に関しても、我が国は会議に参加し、調印したものの、捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約については、枢密院での賛同が得られず、批准は保留されたままになっていた。
 反対した理由は「日本軍は捕虜になるよりは死を選ぶ。敵に降る捕虜は生まれない。この条約は一方的に責任負担となる」等、幾つかの理由があった。同条約は、全九七条からなり、捕虜に対する給与の支給、将校の使役の禁止、文通・送金の自由など捕虜が受けるべき権利を細かく規定している。
 開戦直後の一九四一年十二月十八日、米国は、我が国に対し、「一九二九年の赤十字条約とジュネーブ条約の両方を相互に適用することを希望する」と照会してきた。(英、加、豪、ニュージーランド、南アフリカの英連邦諸国も、後日同様に照会してきた)これに対し、我が国は「赤十字条約は遵守するが、俘虜待遇に関するジュネーブ条約については準用する」と回答した。この準用の解釈が、後に日本と連合国間でを生む結果となる。
 我が国は、条約に基づき(準用し)、開戦直後の一九四一年十二月、捕虜に関する情報を管理し、関係国との情報交換機関となる俘虜情報局を設置した。翌年三月には、規定に基づき、陸軍省に俘虜管理部を新設するとともに「俘虜給与規則」「俘虜派遣規則」「俘虜処罰法」「俘虜労務規則」などの国内法令を整備した。
 大戦中の連合軍捕虜は、約三五万人で、その大半は開戦後半年の間に捕虜になった者である。予想を超えた多数の捕虜の管理と、その労働動員のため、我が国は占領地域における収容所の他に国内では朝鮮、台湾、東京、大阪、函館、福岡に、満州・奉天などにも収容所を新増設した。


我が国の捕虜収容所における連合軍捕虜の処遇
 ここでは、収容所内で捕虜がどのように取り扱われていたか、幾つかの事例からちょうかんしてみたい。


・ウェーンライトの『捕虜日記』(註一)にみる収容所での生活
 著者、ジョナサン・ウェーンライトは、大東亜戦争時勃発時、マッカーサーの後を継いでフィリピン方面米軍最高指揮官(当時陸軍少将、抑留中に中将に昇任)として、コレヒドール防衛戦を戦い、一九四二年五月七日降伏し、日本軍の捕虜になった人物である。その日記は、高級将校らしく比較的、冷静、淡々と記述されているものの、全般的に日本軍の残虐性を強調した脈絡となっている。
 しかしながら、彼が残虐性を表現しようとして記述した箇所も、見方によっては〝意外と日本軍は捕虜を国際法にのっとって処遇していた〟と証明できる内容でもある。
 例えば、将校を労働に従事させず、規定の給与(一か月一〇〇円)を支給していた。赤十字からの物資は届けられていた。家族との文通は許されていた。支給された賃金を使い外部から物も購入できた。収容所内では、畑を作り野菜などを栽培できたし家畜も飼えた。クリスマスには、日本の収容所長から七面鳥を贈られている。米人捕虜の従兵もいた。
 米軍からの爆撃を避けるために、収容先はフィリピンから台湾へ、そして台湾から日本を経由して満州へ移動した。日本に立ち寄った際には、別府の温泉にも浸っている。〝結構公正に処遇されていた〟のでは、と認められるが、彼等にとってベッドでなく床に寝かされれば、それだけで、ひどい虐待を受けたと感じるのである。


・フィリピン捕虜収容所における捕虜引き渡し
 一九四四年、連合軍が比島作戦を展開した当時は、日本軍は決定的に食糧が不足し輸送力もなかった。
 比島の最高指揮官である第十四方面軍司令官・山下ともゆき陸軍大将は、米軍がルソン島に上陸したならば、適時、捕虜を利益代表国(スイス)を通じて名簿を添えて米軍に引き渡すことに決定し、これを十二月二十五日頃、武藤参謀長を通じて南方総軍へいたん監部総監であり、第十四方面軍兵站監も兼ねるこうよく陸軍中将に口達した(註二)。
 兵站監は、補給、輸送など兵站全般を統括し、その一部に俘虜収容所の管理も含まれる。韓国人の洪中将は、日本人にも韓国人にも人望があり、堂々と韓国人として振る舞っていた。韓国系軍人の中には、改名した者もいたが、彼のように韓国名で通した者もおり、決して創氏改名は強制されていたのではない。
 彼は山下大将の意向に従い、米軍の侵攻に合わせ収容所の捕虜を逐次解放した。米軍にとってフィリピンに限らず、軍事作戦に当たり、捕虜救出は最優先事項であった。
 日本は、ドイツが行っていたような捕虜を人質とした作戦は採っていない。そして、最終的には戦時捕虜と抑留米英人の全てが、ほとんど無傷で米軍に引き渡されている。米軍が懸念した大きな混乱は起きなかった。また、山下大将は、捕虜の解放に際しては「できるだけ毛布と食糧を与えるよう」指示していた。
 解放前、比島各収容所における捕虜の生活を平常に維持するのは容易ではなかった。特に食糧不足、医療品不足は深刻であった。しかし、収容所関係者は、それなりに精一杯捕虜を処遇している。日本兵自身の食糧が不足しているなかで、日本兵と同等とまでいかなくても支給し、餓死させることはなかった。少ないながらも所内で野菜も栽培でき、家畜も飼えた。そのため、日本兵より食糧事情がよい収容所もあった。支給された給与(多くは軍票)で物を買えた時期もあった。
 誠意をもって対応する収容所側に感謝の手紙を書こうとした捕虜もいた(註三)。捕虜のために捕虜の医師が勤める医務室もあり、病死者があった際には、その医師を通じて検死し、従軍牧師立ち会いで埋葬している。赤十字、中立国、YMCAから送られる何トンもの慰問品も捕虜に分配している。
 彼等が最も驚いたのは、狂信的神道崇拝者と思っていた日本人が自分達のために教会を建て、しかも、礼拝に全く干渉しなかったことである。牧師が日本の関係者に感謝したところ、その関係者は、日本に神社や寺があるように、彼等に教会があるのは当たり前と考えていたのか「彼とほとんど口をきいたこともないのに、なぜこんなにまで感謝されるのか分からない」と言っている(註四)。
 このような事例があったとしても、解放されて米軍から食事を提供されれば、それまでの捕虜生活は、全て虐待を受けていたとの感情に変わる。洪中将は、部下の犯した全ての罪を背負い、一切の弁明もせず絞首刑に処せられた。
 洪中将の最大の罪とされたのに、「おうりょく丸」事件がある。同船は、軍の配当船として行動し、米軍のルソン島への上陸も迫った、昭和十九年十二月、最後の引き上げ船として、邦人、遭難船員、連合軍捕虜約一、六〇〇名を含む約三、五〇〇名を乗船させ、日本に向けマニラを出港した。出港後間もなく、米軍機から攻撃を受け、スービック湾で火災、浸水、沈没した。この際、捕虜約二〇〇名が銃爆撃により死亡、約一〇〇名が窒息、溺死、生き残った捕虜もしばらく満足な処遇を受けられずに衰弱死亡した者もいた。もちろん、犠牲者には捕虜ばかりでなく多くの日本人も含まれている。
 連合軍は「鴨緑丸」事件を、捕虜を適切に管理しなかったために発生した事件と断定したが、連合軍側からみて、この事件の責任者が誰か、極めて不可解であった。責任は、捕虜の派出元である収容所側にあるのか、乗船警護の輸送指揮官にあるのか、船長にあるのか、輸送の命令を出した陸軍省・大本営関係者か、日本軍特有の指揮命令系統の曖昧さ、多元性が戦犯者の特定を困難にした。
 米軍は、結局は、事件の発端が自分達の爆撃にあった後ろめたさもあり、誰かを極刑にしなければならなかった。収容所側からは最高責任者の洪中将が選ばれた。 (つづく)


(参照図書)
(註一)『捕虜日記』ジョナサン・ウェーンライト、原書房、一九六七年刊
(註二)『洪思翊中将の処刑(上)』山本七平、筑摩書房、二〇〇六年刊 一四〇頁
(註三)『洪思翊中将の処刑(下)』同右 一四五頁
(註四)同右 一六〇頁

東郷会機関紙「東郷」(平成30年11・12月号)より転載