日本軍による捕虜虐待の真実(下)

伊藤 和雄

・室蘭捕虜収容所(函館俘虜収容所第一分所)の場合
 昭和十九年八月、函館捕虜収容所は、赤十字国際委員会による査察を受けた際「国際法に照らし公正な収容所」と評価された。
 捕虜収容所における処遇については、北海道内の捕虜の管理を統括していた北部軍(在札幌)司令官・樋口季喜一郎中将の指導の影響も大きい。樋口中将は、一九三八年、ハルビン(現中国東北地方)特務機関長時代、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人二万人の満州国・入国を認めさせ、移送手段を提供した。
 樋口中将は、イスラエルではユダヤ民族に貢献した人々を顕彰する記念碑(ゴールデンブック)に安江大佐とともに刻まれている人物である。安江大佐はユダヤ人問題の第一人者で、人道主義の面から関東軍、陸軍中央を説得し、ユダヤ人救出に尽力している。我が国では、ユダヤ人を助けた「命のビザ」で知られる外交官杉原うねが教科書にも紹介され有名であるが、イスラエルでは三人の日本人を同等に顕彰している。
 樋口司令官は道内の捕虜収容所では、玄米の握り飯を止め、小麦粉とパン窯を提供させていた(註五)。
 室蘭捕虜収容所でも、精一杯捕虜の処遇に気を使っている。捕虜の医師だけではなく日本人の医師も協力して、捕虜の診療に当たっている。
 しかし、栄養不足、医療品不足は如何ともし難く、病死した捕虜もいた。連合軍は、これを適正な医療が受けなかったためとして、関係者を処分している。
 食糧も、当時、一般日本人の主食の配給量は、米二合七しゃく(約四〇〇グラム)であるが、捕虜は五七〇グラムである(註六)。しかし、これとて捕虜の体格も考慮すると十分ではなく、米(麦)食と魚のおかずでは、満足できない。しかし、労役で捕虜と一緒に働いていた日本人は、捕虜の弁当の魚のおかずを見てうらやましがっている。赤十字からの慰問品も捕虜の将校を通じて公正に配布している。警備の兵は羨望の目でこれを眺めていたという。
 捕虜は、労役のため日本製鉄(現新日鉄住金)製鋼所へ派遣されていたが、労働時間は日本人より優遇されていた。当時、日鉄は陸軍監督の軍需工場として二四時間の操業体制で、一般の日本人は一日一四時間の労働時間であるのに対し、捕虜は八時収容所出門、一六時帰門で、一時間の昼休みがあり、実働六時間に満たない雑役労働である。工場の現場監督からは、捕虜を優遇し過ぎると非難も受けてが、収容所側は受け付けなかった。
 収容所には酒保(売店)もあり、支払われた給与からビールやタバコも買えた。余暇には捕虜の音楽バンドよる演奏もあり、捕虜から密かに英語を習う日本人もいた。近くの事業所に慰問団が来た際、捕虜にも観覧が許可された。ある米人捕虜が近くにいた子供を肩車して見せてやると、次から次へと捕虜達が子供を見つけては肩車した(註七)。
 心が通じ、お互いに理解し合えば、決して「鬼畜米英」でも「黄色い猿」でもないのである。当時の平均的日本人には、高い道徳心と倫理観があり、環境、特に食糧事情さえよければ、これに基づいて捕虜を遇したともいえる。日露戦争におけるロシア人捕虜、第一次世界大戦におけるドイツ人捕虜を厚遇した日本人のDNAは決して断絶されていたのではない。
 昭和二十年六月、室蘭の捕虜は、軍需施設のある室蘭が空襲や艦砲射撃を受ける恐れがあったため、比較的安全な内陸部の芦別へ移動させ、三井芦別鉱業所での労働力として使役することとされた。しかし、ここでも坑内作業など過酷な労働は課せられず、暇を持て余し、山菜を採り、パンを焼き、鶏も飼育している。
 室蘭は、七月十四日に空襲、翌十五日に艦砲射撃による攻撃を受け、一般市民四〇〇名以上の死者をだした。捕虜の命は救われた。
 終戦となり、同年九月、捕虜の帰還がはじまると、彼等は札幌や千歳の米軍の憲兵隊に集められ、そこで、自分や仲間達が抑留中に日本から受けた不当な取り扱いについて宣誓供述書を提出するよう求められた。憲兵からの指示は、日本軍による捕虜取り扱いに関する全般的評価ではなく、不当と思われる具体的事案に関する事項の列挙である。
 日本においては、軍隊に限らず、体罰としての殴打は日常茶飯事である。しかし彼等にとって日本の兵隊から殴られるのは屈辱であった。日本軍憎さから、十分な確証がないまま、それぞれの捕虜の主観に基づき供述書が作成された。中には事実無根、明らかな人違いもあった。しかしながら、供述書は全て正しいとされ、指摘された兵隊は被告人となった。
 公判では、供述書を証拠として採用され、供述者が帰還し不在なまま、供述者に対し反論することもできず、裁判が進められた。あれだけ、捕虜の公正な処遇に心を砕いていた室蘭捕虜収容所長の平手嘉一陸軍大尉は、絞首刑に処せられた。


収容所外での捕虜虐待事案と若干の考察
 捕虜虐待事案で、問題となったのは、労役のため派遣された捕虜の作業現場での扱いである。
 例えば、泰面鉄道工事現場での事案である。裁判では、責任は派遣した収容所側にあるのか、使役した部隊側にあるのか問題になっている。準用した条約の趣旨と欧米の感覚からいえば、収容所側にある。収容所側では、一端派遣してしまえば、捕虜の管理は部隊側に移行し、責任の取りようがない。しかしながら、捕虜の労務管理が不十分との理由で、多くの収容所関係者が処分を受けた。
 連合軍は、殴打事案まで捕虜虐待として厳しく追及しているが、連合軍側による日本人捕虜に対する虐待はなかったのであろうか。手元には、連合軍が国際法に違反し、日本人を虐待した事実を証明する数多くの資料がある。
 ガダルカナル島の戦闘では、日本の捕虜はほとんどいない。連合軍は、〝捕虜はいらない〟との方針の下、投降した捕虜、あるいは衰弱した無抵抗の日本兵を捕虜として処遇することなくさつりくしたためである(註八)。
 連合軍では、漂流中の日本人に対して、軍人、非軍人の別なく攻撃を加えた事例が多い。昭和十八年三月、ビスマルク海海戦(ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海戦)では、日本軍は輸送船八隻全てと護衛の駆逐艦四隻が撃沈され、約三、〇〇〇名の兵員、船員を失った。その多くは漂流中、航空機と魚雷艇による銃撃により殺された者である。航空機は弾がなくなると帰投、弾を補充し丸一日かけ、漂流者が見えなくなるまで反復銃撃した。「ダンピールの悲劇」と呼ばれている。
 昭和一八年十一月、ラバウルから傷病兵を乗せた病院船「ぶえのすあいれす丸」が米軍機の爆撃により沈没、漂流中、赤十字を表示したにもかかわらず、機銃掃射を受けて一五八名が戦死した。この中には看護婦も含まれる。戦艦「大和」沈没時も、漂流中の多くの乗員が銃撃により殺されている。
 ジュネーブ条約では、戦時下であっても海上遭難者を救助する義務があり、理由なく放置するだけでも戦争犯罪として禁じている。
 一方、我が国はスラバヤ沖海戦において、駆逐艦「いかづち」の工藤俊作艦長が沈没した英海軍巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗員四二二名を救助している。
 戦闘中、敵から攻撃される恐れがある状況下での救助活動は、自らを危険にさらす、危険な行動である。この時救助された英国人捕虜に、後に外交官となるサムエル・フォール卿がいる。彼は、工藤艦長の行為を本に著し、日本人の武士道精神を賞賛している(註九)。
 お互いの蛮行を列挙すれば際限ない。しかし、捕虜虐待として一方的に処断されたのは日本側である。東京裁判が勝者の粛清裁判といわれる所以である。しかも、事後法である「平和に対する罪」「人道に対する罪」などで、かつ犯罪を構成する要件と量刑に関する明確な統一基準がないまま、それぞれの国の定めた規則により裁判にかけられた。
 連合軍の日本人に対する虐待の背景となったのは、多くは人種差別、偏見であり、これは連合軍全体に共通していた。
 連合軍による最大の国際法違反事案は、言うまでもなく日本に対する無差別な都市爆撃、広島・長崎への原爆投下である。
 日本側が犯した虐待事案の場合、その背景となる要因は、現場の個々の状況により様々であり、基本的には、当事者たる個人の資質による。負傷し、戦場離脱を余儀なくされた兵隊が収容所の警備兵になると、教育を受けていないこともあり、戦友の仇とばかり捕虜に厳しくあたる。
 米国が日系人を収容所に強制隔離したことに、当時の日本国民は憤りの感情を共有していた。やられたらやり返す・・・・・・・・・悪の連鎖である。更に戦場心理の異常さが怒りを増幅させる。
 しかし、日本においては、ロシアやドイツが百万人を超える捕虜を意図的に集団餓死させたような、ドイツが六〇〇万人のユダヤ人を虐殺したような、あるいは、米・英・仏を中心とする連合軍がドイツ人捕虜数一〇万人を、報復ともいえる理由で虐待死させたような、組織として収容者を虐待した事例はない。イデオロギー、人種差別や宗教的理由による組織的虐待もない。
 とがめられるべきは、「ジュネーブ条約を準用する」といったあいまいな表現を用い、捕虜取り扱いに関し明確な方針がないまま、関係者に十分な教育をせず、収容所に対しては「現地自活せよ」と実現不可能な、無責任な通達を発出した大本営や捕虜の管理を主管していた陸軍省にある。
 また、捕虜収容所長は、軍政系統である陸軍省・捕虜管理部と軍令系統である地域の部隊指揮官から二重の指揮統制を受けていた。指揮系統が曖昧なまま、権限と責任が不明確なまま現場に管理を任せた組織に問題がある。
 今、捕虜の扱いがどちらが残酷であったか追求しても、何も生まれない。少なくとも日本が捕虜を虐待し、連合軍が捕虜を厚遇したとする偏った見方は改められるべきであろう。


あとがき
 事例から日本人の捕虜観について言及したが、それにしても、なぜ我が国の教育現場では、日本軍の蛮行ばかり強調して教えるのだろうか。捕虜虐待の事案として教えている「泰面鉄道工事」や「バターン死の行進」にしても、連合軍によるプロパガンダの影響が大きく、日本軍の蛮行と一方的に処断するのは、あまりにも実態を無視している。
 戦後の日米同盟の深い絆を頼りに、例えば慰安婦問題、南京大虐殺問題に関して、我が国の立場を正当に評価するよう米国に期待しても無駄である。原爆投下や都市無差別爆撃を正当化するうえで、米国にとって、先の大戦における日本軍を悪玉に印象付けることは好都合なのである。
 捕虜全員を無傷で解放した洪中将、捕虜を人道的に扱った樋口中将、平手大尉のような、捕虜を適切に扱った多くの日本人がいたことは記憶に留めておく必要があると思う。 (了)


(参照図書)
(註五)「ユダヤ人救った北部軍官故樋口中将」『北海道新聞』、二〇〇七年九月二十一日(夕刊)
(註六)『処刑』北海道新聞社編、北海道新聞社、一九九〇年刊 七三頁
(註七)『北海道の捕虜収容所』白戸仁康、北海道新聞社、二〇〇八年刊 一三五頁
(註八)『人種偏見』ジョン・W・ダワー、斉藤元一訳、TBSブルタニカ、一九八七年刊 七九頁
(註九)『敵兵を救助せよ!』恵隆之介、草思社、二〇〇六年刊 一一頁

東郷会機関紙「東郷」(平成31年1・2月号)より転載