小栗上野介と東郷元帥

伊藤 和雄

はじめに
 司馬遼太郎は「明治の父」として明治維新を躍進させた五人の人物を挙げている。五人とは坂本竜馬、勝海舟、福澤諭吉、西郷隆盛、そして小栗上野介である。小栗以外の四人については伝記や評伝も多く、いわゆる偉人として列せられている。
 しかし、小栗については近代国家建設に尽くしたにもかかわらず影が薄い。小栗は引退直後、領地上州権田村(同地域は倉田村、倉渕村を経て現在群馬県高崎市に編入)近くの河原で斬首され、人生の仕上げがないまま逆賊として一生を終えた。
 総理大臣を二度勤め、早稲田大学の創設者でもある大隈重信は小栗を次のように評価している。
「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と。
 本稿では、小栗上野介の功績とその生涯、そして小栗の名誉回復にかかわった東郷元帥などについて振り返ってみたい。

小栗上野介の功績
 小栗上野介ただまさ、通称又一、文政十(一八二七)年、禄高二、五〇〇石の旗本の家に生まれ、幕臣として外国奉行、軍艦奉行、勘定奉行など多くの役職を歴任する。
 小栗が歴史の舞台に初めて登場したのは、安政七(一八六〇)年、日米修好通商条約批准のための遣米使節一行に、正使新見豊後守、副使村垣淡路守に次ぐ目付として選ばれ、米艦「ポーハタン」で渡米したことである。選ばれたのは井伊大老の抜擢人事によるが、この時の見聞が大いに上野介の才能を開花させる。
 小栗は、要望して各訪問地近くの造船所を三箇所見学している。国内における造船所建設を構想していた。
 また、汽車で移動した際、なぜこのような大きな事業ができるのか尋ね、「多くの人々が出資し、儲けは出資額に応じて分配する」との回答を得て、株式会社の仕組みを理解する。後の日本初の株式会社「兵庫商社」創設につながる。
 さらに造幣局を訪れ、日米金貨の金含有量の測定を依頼する。貨幣に対する概念の相違から、外国人がドル銀貨(メキシコ銀貨)を日本国内で日本の一分銀に交換し、次いで金貨(小判)に交換し持ち帰り、再びドル銀貨に交換すると、元の三倍になるため日本国内から金の流出が止まらなかった。小栗はこの不具合の原因を究明し、後の是正につなげた。
 その他、歩兵・騎兵・砲兵三軍種の編制、郵便・電信・鉄道事業の建議、新聞発行計画など小栗の功績を列挙すると実に多岐にわたる。
 まさに大隈の述べたように維新後の近代国家建設は小栗の構想を基に推し進められている。
 しかし、何といっても最大の功績は、軍艦奉行、勘定奉行として構想を具現化し、予算を獲得し、フランスの支援を取りつけ、建設に着手し、完成までの道筋をつけた横須賀製鉄所の建設であろう。
 製鉄所というが、今でいう鉄鉱石を溶解して鉄を取り出す製鉄所ではなく「鉄製品を製する所」という意味である。製鉄所には大きく分けて「船廠」と「工廠」の二大工場があり、造船所を中核に、兵器からネジに至るまで鉄製品を生産する総合工場というべき製鉄所であった。動力を従来の水力から蒸気に替え、生産効率と製品品質を格段に上げた。我が国近代化の礎となった。

小栗上野介罪なく斬らる
 鳥羽伏見の戦いに敗れて徳川慶喜は江戸に帰還、江戸城で開かれた評定において小栗は、榎本武揚、大鳥圭介らと徹底抗戦を主張する。しかし策は採用されず、恭順に決定し、小栗は解職される。彰義隊の隊長に推挙されるが、恭順と決定した以上大義のない戦いはしないと断る。
 小栗は幕府に、権田村への土着願いを提出し許可される。小栗家の領地は関東近県にも幾つかあり、石高の高い領地もあったが、上野介は権田を選んだ。古くからの領地で村人とは領主と領民の関係以上の深い絆があった。しかし、権田村に移っても穏やかな時間は続かなかった。
 西軍は有栖川東征大総督の下、東海道、東山道、北陸道鎮撫軍に分かれて江戸へ進撃した。中山道を進み上州方面を担当したのが東山道鎮撫軍である。総督は岩倉具定、副総督は岩倉具経、参謀は板垣退助、伊地知正治である。具定十七歳。具経十六歳だからお飾りである。実質的に指揮を執っていたのは参謀たちであり、本陣は板橋に在った。
 上野介が〝陣屋を構え、大砲を備えて鎮撫軍に対抗する〟との情報が入り、追討のため上州に派遣されたのは原保太郎(丹波)、豊永貫一郎(土佐)である。原は総督の側人から転じて総督府内部で決めた役職、副巡察使や軍監を名乗った。
 鎮撫軍というのは討伐ではなく鎮撫が目的であっため直属の兵力は少ない。原と豊永は権田村付近の領地を有する高崎、安中、吉井の三藩に小栗追討の兵を差し出すように命じた。三藩は命に従わなければ賊軍として討滅の対象にすると脅かされれば協力するほかなかった。
 三藩の兵は権田へ向かい、使者が東山道総督府からの追討令を示し、疑義をただしした。小栗は「陣屋は田畑耕作に便利な雨露凌ぐだけの屋敷であり、青銅製の大砲は飾り物として江戸から運んだもので弾もない。お疑いなら恭順の証しとして皆様に預ける」と答えた。使者は納得し引き返した。さらに、小栗は釈明のため息子又一と家来三名を同行させた。
 「小栗に謀反の疑いなし」との使者の報告に、原、豊永は激怒し、三藩の措置をなじった。原、豊永は直ちに三藩の兵約八百名を率いて権田村へ向かった。権田村近くの三ノ倉で手はずを整え、翌日、小栗が仮住いとしていた東善寺を囲み、中に居た小栗と家来に縄をかけ、三ノ倉の屯所に引き立てた。
 捕縛する時も屯所でも小栗に対する取り調べは一切なかった。殺すことだけが目的であった。三藩には原の処置を咎める気骨ある武士はいなかったのであろうか。
 翌朝、小栗と家来三名は烏川の水沼河原に引き出され斬首された。時に慶応四(一八六八)年閏四月六日、小栗上野介享年四十二歳。釈明のため高崎に出向いていた又一主従四名も捕えられ斬首された。
 処刑が終わると、上野介と家臣三名の首は青竹に刺して近くの土手の上にさらされ、次の罪状を記した立札が立てられた。

   小栗上野介
右之者奉対朝廷企大逆候明白ニ付
令蒙天誅者也 東山道先鋒総督府
            使 員

 首のない遺体は権田村の村民が引き取り東善寺に埋葬した。一年後、首の在りかが分り、村人たちは決死の思い出で盗み出し、暫く隠匿した後、木製の首とげ替えた。
 原は、処刑の指示は板橋の本陣にいた板垣参謀のように言っているが、先の三藩の使者の「謀反の疑いなし」との報告を握りつぶし、捕縛したことも本陣に伝えていない。本来であればこれらの状況を報告し指示を仰ぐべきであろう。処刑は現場の原と豊永の判断である。
 原は後に「小栗が大砲を持っていたことにおびえ、られる前に殺ろう」と決めたと語っている。
 また、なぜ取り調べなかったかとの問いには、「吾々の如き小使輩が言ったところでいたしかたない。(何を問うていいか判らず、また釈明を聞いたところで判断できない)」と正直に述懐している。時に原は二十二歳、豊永十八歳、相手が悪かった。見識も常識もない若輩である。西軍の威を楯に強圧粗暴に振舞う原のような人物に国家百年を構想した小栗が殺されたのは何としても悔しい。
 処刑後小栗家の財産は全て売却され西軍の資金となった。原は権田でいい馬をみつけ乗ろうとしたが突然馬が暴れ落馬した。原はこの時の怪我が原因で一生右脚が不自由であった。この馬は上野介の愛馬(フランスから軍馬として輸入したアラビア馬の一頭)である。愛馬は主人の仇を少しだけ返したのであろうか。

東郷元帥と小栗上野介の名誉回復
 昭和二年頃、小栗主従が斬首された水沼河原を草刈りするなどしていた付近の村民から「このままでは忘れられてしまうから、石碑を建ててほしい」との要望が出された。
 付近の倉田村と鳥渕村(両村は後に倉渕村として合併)の村民が集まり、前倉田村村長市川元吉を会長とする建碑協賛会が組織された。村内外の募金で石碑が完成し、昭和七年五月五日顕彰慰霊碑除幕の式典が行われた。

顕彰慰霊碑(倉渕村)

 碑文「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」を書いたのは、法学博士のにながわ新。蜷川は小栗の夫人(妻)道子の妹はつ子の息子で忠順の義甥にあたる。碑文としては、極めて珍しい散文体で書かれているが、上野介とその関係者の無念の気持ちが伝わってくる。
 碑建立をもって上野介の名誉回復とする向きもあるが、最初に公に上野介の功績が認められたのは、大正四年九月、横須賀海軍工廠創立五十周年記念式典においてである。
 時の総理大臣大隈重信の祝辞で「この造船所は幕末に小栗上野介の尽力によってフランスが創設の援助をすることに決定した」と語られ、合わせて小冊子『小栗上野介末路事跡』が配布された。
 この式典によって小栗の悲惨な生涯と、横須賀造船所建設など日本近代化に対する功績が広く知られることになった。
 横須賀海軍工廠の職工の間で、このまま黙って造船所を使っていては申し訳ないという声が彷彿と起こり、小栗上野介と造船所の建設支援に当たったフランス人技術者の責任者ヴェルニーの二人の胸像を建立しようと市を挙げての運動に発展した。募金活動は広がりをみせ、横須賀市民だけではなく倉渕村村民も醵金に応じた。貞明皇后(大正天皇皇后)の名で下賜金も届けられている。皇室が初めて小栗の功績を認めた証しとなった。
 大正十一年九月海軍工廠を見下ろす諏訪公園において、小栗の像は孫の又一の手で、ヴェルニーの像はフランス人牧師の手で除幕された。
 実は海軍より前に小栗上野介の功績を世に知らしめた人物がいる。日本海海戦を勝利に導いた聯合艦隊司令長官東郷平八郎である。というよりは東郷元帥の評価がきっかけで、先の海軍工廠創立五十周年における小栗に対する顕彰につながった。
 明治四十五年七月、東郷元帥は小栗家の遺族貞雄とその息子又一(明治三十一年生)を東京麹町の自宅に招いた。二人が東郷家を訪れると元帥は、この度の日本海海戦において完全な勝利を収めることが出来たのは、第一に明治天皇の御威光絶大なるものがあった点であると述べ、そのあと「軍事上の勝因の第一は上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことで、これがどれほど役立ったか計り知れない」と、実に気持ちよく素直に感謝の気持ちを表した。
 東郷元帥は御馳走したあと、記念として自分の書を進呈したいと申し出た。貞雄がためがききを自分ではなく直系の息子又一の名にしてほしいと、先祖が家康から授かったその名の由来を語ると、東郷は「それはいい名前だね」と笑って、後日『仁義禮智信』と墨書された縦横二幅の書を小栗家へ届けた。花押の前に「為小栗又一君」と書かれている。
 又一は後にこの時の様子を次のように語っている。

 「元帥は丸顔で栗頭、一見したところ平凡素朴な風格であった。元帥が応接間で、物静かに言葉少なくはあったが教訓され、柿のお菓子を包んでくださった……」
 真の意味で東郷元帥が小栗の名誉を公に回復した最初の人物であった。権田の人々は今も殿様を斬った西軍を恨んでいる。しかし東郷元帥については別格で、薩摩出身であるにもかかわらず殿様の名誉を回復した恩人として感謝している。

東郷元帥墨書(東善寺所蔵)

 元帥から贈られた横書きの書は現在東善寺に掲げられている。平成九年、曾孫忠人から「家に置くより、皆さんに見ていただいたほうがいいから」と東善寺に寄進された。忠人はそのとき「これを見てもらえれば、曾祖父の名誉回復になるだろうから……」との言葉を添えた。
 縦書きの書は、戦前に大宮の普門院阿部道山和尚がしきりに懇望し譲り受けている。普門院は小栗家(四代目)祖先忠政一族の菩提寺である。忠政は功績により徳川家康から又一の名を授かり爾来小栗家跡目は又一の名を踏襲している。
 当院道山和尚は、小栗上野介の事績を研究、伝記として『小栗上野介正伝』を著し、昭和十六年に「海軍有終会」から発刊された。
 この書は、天皇、皇后両陛下にも海軍省を通じて献上され、御台覧の栄に浴している。和尚は、著すにあたり、上野介の首を切った実在の人物を訪ね詰問している。

おわりに
 本稿を執筆するにあたり東善寺村上泰賢住職執筆の『小栗上野介』(平凡社、二〇一〇年刊)及び村上住職、市川光一氏、小坂橋良平氏共著の『小栗上野介』(みやま文庫、二〇〇四年刊)を参考させて頂いた。
 村上住職は小栗上野介顕彰会の理事もされ、小栗上野介に関する著書も多く、各所で講演活動もされている。東善寺境内には小栗の遺品等を展示した〝遺品館〟がある。また、本堂内の室にも各種資料、写真を展示し、小栗の功績、生涯を紹介している。村上住職の何れの著書も小栗の功績、生涯を時代背景とともに分かり易く解説し、文章も簡明で読みやすい。小栗上野介研究を目指す者にとって、氏の著書は必読の書であると思う。
 みやま文庫発行の『小栗上野介』の中で「小栗夫人脱出路踏査記」の部分の執筆を担当したのは小坂橋氏である。同氏は実際の脱出路を何度も自分自身で踏破して、関係者から聞き取り、資料を集め、情報を収集した上で執筆しており、記述内容に説得力がある。

村上住職、背景は上野介とその子 国子の遺影

 最後に余話になるが、上野介家族の脱出について簡単に触れる。
 主人の死を知って、追手から逃れるため脱出した家族は夫人道子(三十歳)、母堂くに子(六十歳)、養女よき(十三歳)の三名である。道子夫人は初めての妊娠で八箇月の見重であった。
 上野介から日頃絶大な信頼を得、家族の守護の一切を託されたのは村役人の中島三左衛門である。三左衛門は身命に賭しても護り抜く決意を固く誓った。選んだ護衛、荷役兼道案内の村人たちと伴に小栗夫人の庇護が期待できる会津へと向かった。
 三左衛門は、夫人たち女性三人の世話と、万が一の身代わりとして自分の娘さい子(十七歳)を同行させた。
 脱出経路は、権田村から西軍のいる東方を避け、まず西へ向い、長野原から北上し、野反湖から信越国境の秋山郷を経て越後に入り、会津へ向かう経路である。経路を領地としている諸藩は何時西軍側になびいているかも知れず信用できない。
 標高二千メートル以上の山に囲まれた山間の道なき道を、獣道を、人の通らない迂回道を、昼は隠れ、夜は歩み、千苦万苦の逃避行を続け、ようやく二十七日目に会津に着いた。
 会津藩は快く夫人たちを迎え入れ、若年寄横山主税宅に入れた。横山は江戸で小栗に世話になっている。
 夫人に付き添っていた権田村の若者二人はこの地で会津兵とともに戦い戦死した。

 本稿を執筆するに当たり、資料を調査しながら西軍による小栗に対する仕打ちに腹立たしい思いがよぎっていたが、唯一光明が差したのは道子夫人の出産である。六月十日会津戦争のさ中、会津藩が用意した南原の野戦病院で無事女児を出産、「国子」と名付けられた。
 その後、夫人たちは会津が降参したため徳川家の転封先静岡に移り、最後は東京で、やはり以前小栗の奉公人として世話になっていた富商三井の大番頭三野村や大隈重信の庇護を受け、安住の地を得ている。
 中島三左衛門たちは夫人たちを会津から静岡、東京まで送り届け、ようやく上野介との約束を果たしたものと理解した。苦難の末、村に戻った三左衛門以下権田村の人々の無償の義挙はさわやかな行為として賞賛に値する。
 その後国子は矢野貞雄を婿に迎え小栗家十三代(上野介は小栗家十二代)の家督を相続した。
 東郷元帥宅に招かれたのは貞雄とその息子又一である。  (了)

東郷会機関紙「東郷」(平成30年1・2月号)より転載