明治(王政)維新百五十年に想う(上)

伊藤 和雄

はじめに
 北海道檜山郡江差町東方の丘の上に松のだい公園があり、公園の一段高い処に西面して檜山護国神社(旧招魂社)がある。戊辰戦争における新政府軍戦没者と日清・日露戦争以降の地元出身戦没者が祀られている。
 新政府軍戦没者については、松前、津軽、水戸、大野、徳山、長州、久留米等の藩ごと木柱に囲まれた境内敷地に計九二柱の墓標がある。
 神社の参道北側に「王政維新五十年記念碑」とろくされた高さ三メートルほどの大碑がある。碑の中央左側には「元帥伯爵東郷平八郎書」と、碑の右後方側面には「大正六年六月建之」と刻されている。
 大正六年は大政奉還から五十年目である。大政奉還、王政復古、廃藩置県など一連の変革を、当時は御一新あるいは王政維新と称しており、明治維新という表現が一般化されたのは昭和に入ってからである。昨年、明治(王政)維新百五十年を迎えた。

王政維新五十年記念碑

歴史上の三大維新
 歴史上、維新と名の付く大きな変革は三つある。
 最初は大化の改新。飛鳥時代、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我家を滅ぼし、豪族中心の政治から天皇中心の政治に取り戻した。また「大化」は日本最初の元号であり、この改革により「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされている。
 次が建武の中興。鎌倉幕府が滅びた後、隠岐島に配流されていた後醍醐天皇を名和長年、楠木正成らが京都にお迎えし、武士から天皇中心の政治に戻した。
 そして明治維新。何れも天皇、朝廷へ政権が移る変革である。
 明治維新と言われる一連の変革の最初は大政奉還である。
 慶應三(一八六七)年十月、第十五代将軍徳川慶喜は政権返上を朝廷(天皇)に奏上した。奏上した『大政奉還の上表』には、次の趣旨の内容がしたためられている。
「……現在は外交が日々重要になってきています。こういうときこそ、朝廷を含めて日本の力がひとつになってまとまっていかなければ、日本国の秩序は保たれないでしょう。旧来の慣習を改め、陛下の御決断で力を合わせひとつになって、公武として纏まれば、必ず世界の列強各国と並び立つことができましょう。将軍としては国家に尽くすこと、これ以上のものはないと考えております…」
 極めて真っ当な、国家を想い、私情のない内容である。
 基になったアイデアは、坂本龍馬が起草した「船中八策」といわれている。
 八策には
・天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ…
・万機宜シク公議ニ決スベキ… 
・天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ… 
・外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ…
・古来ノ律令ヲ折哀シ、新ニ無窮ノ大典ヲ選定スベキ…
・海軍宜シク拡張スベキ…
・御親兵ヲ置キ帝都ヲ守衛セシム…
・金銀物価宜シク外国ト平均ノ法…
等々新国家体制の基本方針が述べられ、最後に「一大英断ヲ以テ天下ト更始セン」との表現と同じ言葉で結ばれている。
 策定過程に諸説あるが、龍馬は、その行動態様から「八策」の趣旨を心底に抱いていたのは間違いないであろう。
 土佐藩の後藤象二郎は、この龍馬起草とされる「船中八策」の趣旨に賛同し大政奉還を藩に献策、藩政を掌握していた前藩主山内容堂はこれを受け入れ、大政奉還を藩論とすることに同意した。後藤は『大政奉還建白書』として山内容堂の名前に連署して徳川慶喜公に提出、大政奉還奏上へとつながった。
 「尊王攘夷」をスローガンに討幕を目指していた薩摩・長州を中心とする急進派は、慶喜公に「大政奉還」という先手を打たれ、討幕の大義名分がなくなった。
 しかし、彼らはあくまで武力討幕を目指し、幕臣や佐幕諸藩を挑発し、鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争へと突入する。
 幕府軍の中核を担う会津藩は、禁門の変では御所を攻撃してきた長州藩を撃退したように、天皇を擁護する「尊王」の立場であり、官軍であったともいえる。
 しかしながら薩長軍は、偽の『討幕の密勅』を下し、天皇家の御紋「錦旗」を掲げた策が功を奏し、諸藩が薩長軍になびき、結局は勝者となった。勝てば官軍である。

五箇条の御誓文
 幕末、西欧列強のアジア進出についてはオランダや清国を通じて日本にも伝えられており、とりわけ阿片戦争における大国清国の敗戦は我が国にとって大きな衝撃であった。
 そしてペリー艦隊の来航により、列強の脅威が直接我が国に影響を及ぼす事態に直面し、西欧諸国の優勢な軍事力について明白に認識せざるを得なくなった。

五箇条の御誓文
一 ひろかいおこばんこうろんけっスベシ
一 しょうこころいつニシテさかんけいりんおこなフベシ
一 かんいっしょみんいたるまでおのおのそのこころざしじんしんヲシテうまザラシメンことよう
一 きゅうらいろうしゅうやぶてんこうどうもとづクベシ
一 しきかいもとおおいこうしんスベシ
 わがくにへんかくなさントシ ちんもっしゅうさきんてんしんめいちかおおいこのこくさだ
 ばんみんぜんみちたてントス しゅうまたこのしゅもとづきょうしんりょくセヨ

 日本という国家を意識し、列強による侵略から護るには、先ず国内が纏まる必要があった。新しい国家体制構築の必要性について痛感していたのは幕府も薩長軍も同じである。
 大政奉還から二箇月後の十二月「王政復古の大号令」が発せられ、薩長を中核とする新政府が幕藩体制に代わり成立した。
 明治新政府は、翌慶應四(明治元)年三月、政府の基本方針である『五箇条の御誓文』を、明治天皇が天地神明に誓約する形式で布告した。
 御誓文の趣旨は
「広く公正な意見に基づき政治を行い、地位の上下を問わず積極的に国を治め、全ての国民が志を達成できるよう、悪い習慣は改め万人の道理に基づき、知識を世界に求め大いに皇基(日本国)を振起すべし」
という極めて民主主義的な内容である。
 徳川慶喜が奏上した『大政奉還の上表』の趣旨と照らし合わせても何ら矛盾はない。幕府も明治新政府も、同じ新国家像を描いていたとすれば「戊辰戦争とは一体何だったのだろう」という疑問が生じる。

明治憲法の制定
 明治新政府は、諸改革、富国強兵を推し進め、新しい国造りの仕上げとなったのは憲法の制定と国会の開設である。
 明治十五年、筆頭参議伊藤博文は明治天皇の勅命を受けて憲法について調査するため欧州に旅立った。
 伊藤が求めていたものは、国家の全体像と憲法施行後の国家運営の指針であった。ウィーン大学のシュタイン教授から講義を受けたとき「憲法はその国の歴史に基づくべきだ、憲法は法文ではなくその国の精神である」との教えに大きな示唆を得る。伊藤は、その条文よりも「国の歴史やあり方」の大切さを理解し、シュタインの「国家学」を憲法制定の中に生かそうと決心する。
 フランスなど欧州で法学を学んだ法制官僚井上こわしは、岩倉具視と伊藤のブレーンとして、憲法草案の構想を練っていたが、そこで突き当たったのが「この国の歴史に脈々と流れているはずの国のあり方、国体とは何か」という問題だった。
 それを解くために井上は『古事記』を中心に、古典、国学を学ぶこととした。井上は国学者に学びながら、古典の解読を進める。その結果、重要なヒントを得たのが『古事記』の中で、天照大神や歴代天皇が国を「治める」という意味で使われている「しらす」という言葉である。
 一般に領有、支配行為として使われている「うしはく」と明らかに使い分けられている。天皇に関する記述に「うしはく」の用例はない。国内最古の書物『古事記』が編纂された八世紀には、既に天皇と為政者の統治の違いが明確にされていたのである。つまり、歴代天皇は、西洋流に力を背景に国を領有支配したのではなく、「しらす」、すなわち国民を尊重し、その幸せを祈りながらお治めになった。
 井上は、これが日本の国体であるとの結論に行き当たったのだ。
 井上は、明治二十年に憲法草案を書き上げた。初代内閣総理大臣となっていた伊藤はこの草案を元に、夏島(横須賀市)にある自分の別荘において、井上に加えて、首相秘書官である伊東巳代治、金子堅太郎らと審議を重ね、成案をまとめた。
 枢密院での審議を経て、大日本帝國憲法(明治憲法)は、明治二十二年二月に公布され、翌年十一月施行された。
 憲法は、第一条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」からはじまり全七十六条から成る。
 天皇に関する条項には「天皇がしらす国」という思想が貫かれていた。第一条も、当初井上の案は「……統治ス」ではなく「……治(シラ)ス所ナリ」となっていた。伊藤も、「統治ス」と「治ス」は同義語と解説している。(註一)
(参考:写真は、井上の憲法草案[國學院大學図書館所蔵]、第一条「日本帝國ハ萬世一系ノ天皇ノ治(シラ)ス所ナリ」となっている)

井上の憲法草案

(つづく)
(北海道在住)

(参照資料)
註一:『明治という奇跡』皿木喜久 展転社 平成二十八年刊 七八~八〇頁

東郷会機関紙「東郷」(平成31年3・4月号)より転載