「忠犬ここに眠る― 補 遺」

NPO法人救助犬訓練士協会(RDTA)
山田 道雄

「救助犬ここに眠る―金剛丸号の殉職」を投稿した前後に、防衛ジャーナリスト桜林美佐氏の著書「ありがとう、金剛丸-星になった小さな自衛隊員」(ワニブックス刊)が出版され、金剛丸のことがかなり広く世間にしられるようになりました。
 その後、逗子市の延命寺や靖國神社の協力を得て調べた結果、新たな事実が判明、また軍犬慰霊祭にも参列していろいろ感じるところもあり、この際順不同ながら「補遺」としてまとめることにしました。

逗子市延命寺の「忠犬之碑」について

金剛丸に授与された「功章」は、旧軍軍人の金鵄勲章に相当する軍犬功章甲号を模した立派な物です。実物は靖國神社に奉納されており、遊就館の協力を得て海上自衛隊で作成されました。この功章は逗子市にある延命寺から奉納されたものですが、戦前延命寺には「忠犬之碑」があり、その建設については次のようないきさつがあります。
 「少年倶楽部」昭和7年2月号の「軍犬の戦死」によれば、昭和6年9月18日の満州事変勃発時、独立守備隊歩兵第2大隊の板倉至大尉は、愛犬の軍犬3頭(金剛、那智、メリー)と共に夜間戦闘に参加しましたが、軍犬達は偵察、伝令等の任務遂行中、3頭とも行方不明となりました。大尉は捜索中、4日目に約2メートルも離れていない距離でそれぞれ胸部及び腹部に銃弾を受けた那智及び金剛を発見し、墓を建て手厚く葬ります。しかし、大尉も11月27日、白旗堡の激戦で負傷、「メリーを見つけたら葬ってやってくれ」と言い残して戦死してしまうのです。メリーはその後どこからともなく奉天の大尉の自宅に戻って来ました。その後、メリーは板倉少佐(戦死後昇任)の遺骨と共に東京駅に送還され、一足先に帰国していた鎮子夫人に迎えられます。

少年倶楽部「軍犬の戦死」(靖国神社遊就館蔵)

 「逗子市史」によれば、昭和7年4月少佐の遺族が葬儀後千葉県から逗子市に移り住んだが、間もなく家族が可愛がっていた故人の愛犬ジュリー号があえなく昇天。その遺骸が葬られた延命寺に3人の遺児が日参していることを知った逗子小学校の校長が事の次第を児童生徒らに話したことが契機となり、小学校と逗子実科高等女学校の児童・生徒たちがお小遣いを持ち寄って発起し、延命寺境内にこの犬たちの記念碑を建立することになります。陸相荒木大将により「忠犬之碑」と銘された碑の除幕式が、昭和8年7月7日の戌の日を卜し行われました。その日の報道によれば、児童・生徒ら2千余名に埋め尽くされた碑の前には、軍事参議官南陸軍大将、帝国軍用犬協会会長大島陸軍中将、横山神奈川県知事の姿もあったといいます。除幕は少佐の遺児の手で行われ、甲号功章が軍犬像の首に掲げられました。また、その年の9月18日には、満洲から送還された金剛、那智の遺骨を合祀する忠犬祭が催されました。

甲号功章(靖国神社遊就館蔵)

逗子延命寺にあった「忠犬之碑」

 以上が公式記録ですが、板倉大尉の知人にあてた手紙によればこれと少し違っており、那智、メリー号が戦死、金剛は行方不明というのが真相で、日本に帰還したのはその後大尉が訓練指導していたジュリー号のようです。
 忠犬の銅像はジュリー号をモデルにした実物の2倍で、下から見上げるほどの立派なものだったらしいですが、戦時下の金属供出で今はなく、そのレプリカ(模型)が延命寺から靖國神社に奉納されています。その台座も境内の幼稚園建設に伴い撤去され、昭和33年6月に動物愛護慰霊の碑が正門近くに新設されて、軍犬3頭の遺骨もここに眠っています。

動物愛護慰霊の碑

靖国神社の「軍犬慰霊像」と合同慰霊祭について

 忠犬之碑のジャーマンシェパードは現役の軍犬らしく筋肉質で精悍そのものであり、背の両側には弾薬嚢を装着しています。軍犬は、伝令、運搬、警戒、捜索、襲撃等の任務で使用され、運搬では小銃弾180発入りの弾薬嚢を2個運んだそうです。一方、靖國神社の遊就館前庭にある軍犬慰霊像のモデルは分りませんが、平成の時代背景を反映してか装具は何も着けていません。
 平成24年4月1日、東京の桜の開花宣言の翌日、第1回軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭が、この軍犬慰霊像の前で執り行われました。平成4年3月20日の動物愛護の日に軍犬慰霊像の除幕式が盛大に行われてから、毎年この日に慰霊祭を実施してきましたが、年々関係者の参列も少なくなってきましたので、今年から別々に実施していた軍馬、軍鳩の慰霊祭と合同で行うことにしたとのことです。この日は花冷えながらも晴天に恵まれ、約115名の参列者の下、式典は簡素ながら厳かに執り行われました。この式典で初めて、陸軍戸山学校軍楽隊作曲の「軍用犬行進歌」を耳にしました。

軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭(1)

軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭(2)

軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭(3)

 幸運にも、式典では杉山武夫さんという軍犬兵だった方と隣合わせになりました。杉山さんは昭和15年の徴兵で近衛歩兵第1連隊に入隊し、直ぐ北支に派遣され軍犬班に配属になりました。この慰霊祭のあることを知った5,6年前から毎年欠かさず、埼玉県草加市から一人で参加しているとの事。ポケットから大事にしまっていた写真を取り出して見せてくれましたが、当時21歳の杉山さんが立膝の軍装で右に執銃、左にジャーマンシェパードの軍犬を従え颯爽と写っています。犬の名前は「ジョン」と言い、名古屋の歯科医から献納されたそうです。年齢不詳という事ですが、精悍な顔つきと体型からしておそらく3歳くらいと思われます。

慰霊祭参加の杉山さん

杉山さんとジョン号(昭16.11、河北省林西)

 杉山さんは今年92歳。耳が遠いとのことであまり詳しい話は聞けませんでしたが、ジョン号は優秀な軍犬で、何度か命を助けてもらったとのことです。特に夜間の警戒能力に優れ、暗夜でも200メーター先は見通せたそうです。ジョンは約2年後に戦病死し、杉山さんの部隊は満州の方に転進。70年前の「戦友」の自慢話を昨日のことのように話されました。

忠犬論について(私見)

 忠犬之碑にまつわる金剛・那智の物語は、昭和10年に「犬のてがら」として小学国語読本に採録されましたが、同じ年、渋谷駅前の忠犬ハチ公の物語が「オンヲ忘レルナ」と題して尋常小学修身書に掲載されています。これらのことから、「戦時体制の突入と共に『国家と犬』はその関係を深めて行った。この流れを象徴する犬が軍用犬と忠犬ハチ公だった」という説が有ります。要するに、軍国主義に向かう日本は忠君愛国の教育に犬を利用したというのです。確かに「犬のてがら」については、前述したように真相から脚色を重ねて行った可能性はあります。

小学国語読本「犬のてがら」(靖國神社遊就館蔵)

 延命寺に行って最初に疑問に思ったのは、忠犬之碑のモデルが何故甲号功章を貰った金剛や那智でなくジュリー号なのだろうという事でした。しかし、それは最後まで可愛がっていた家族や小学校の児童達の発意で碑が建立された経緯からすれば当然のことであり、盛大な除幕式や教科書への採用に至る過程には、周りの大人や組織の思惑が当然あったと思います。しかし、当時の国の施策や社会風潮の中に身を置いた者でなければ、それを軽々に非難する事は出来ません。従って、私にそれを云々する資格はないが、これまで犬を3頭ほど飼い、訓練指導した体験から言わせてもらえるならば、犬には忠孝の道徳心や任務遂行の使命感や責任感などなく、ただ「ご褒美」が欲しいだけという極めて単純な問題に過ぎないという事です。過酷な災害現場において、金剛丸が足を血だらけにして生存者の捜索を遂行するのは、あとで松元訓練士から「よくやった」と体を抱きかかえてもらえる、或いは大好きなボールで遊んでもらえるからです。犬にとっての「ご褒美」とは固い信頼関係のある飼い主や指導手(ハンドラー)に心から褒めてもらう事なのです。
 上辺だけでない真の信頼関係を一旦築けば、犬はパートナーであり戦友となります。だから、杉山さんは70年という歳月を超えて戦友と同じように毎年ジョンに会いに来るのです。陸軍歩兵学校編「軍犬ノ参考」には、「軍犬ノ能力ヲ向上発揮セシムル基礎ハ実ニ人犬ノ親和ヲ図ルニアリ」とあります。
 追悼式において、由緒ある功章を授けられ、碑下で眠る金剛丸が喜んだかどうか私には分かりません。しかし、逗子の小学生達と同様に、金剛丸を「小さな自衛隊員」として遇した海上自衛隊の人たちの誠意は十分伝わったものと信じています。(了)

(参考文献)

「軍犬の戦死」少年倶楽部 大日本雄弁講談社昭和7年(靖國神社遊就館蔵)
「関東軍軍犬育成所史」たちばな会昭和61年
「逗子市史 通史編」逗子市平成9年
「忠犬の碑は今なりぬ」南雅也 社報「やすくに」 靖國神社平成4年
「軍犬ノ参考」陸軍歩兵学校昭和16年
「ありがとう、金剛丸-星になった小さな自衛隊員」桜林美佐 (株)ワニブックス平成24年
「帝國ノ犬達」紅殻 ブログ
「水交」 5・6月号公益財団法人 水交会平成24年