取材記「雨に鎮まる琴平の森」
―第60回掃海殉職者追悼式―

チャンネルNippon理事 山田道雄

 第60回を数える掃海殉職者追悼式は、平成23年5月28日、海の守護神として有名な四国象頭山金刀比羅宮で行われた。難所で名高い石段を登り、ペルシャ湾 掃海作業記念碑の傍らを通り、79名の殉職者を慰霊するための吉田茂総理揮毫の碑前に立つと、辺りの木々の新緑が小雨に映える中ひっそりと静まり返っていた。昭和27年6月、戦後の日本周辺港湾の掃海作業で殉職した隊員の功績の顕彰と慰霊を目的にして、港湾航路啓開の恩恵を受けた全国32の関係各都市の市長、県知事が発起人となり、この「掃海殉職者顕彰碑」が金刀比羅宮境内の朝日ヶ丘に建立されてから、毎年この時期に碑前において追悼式が行われている。

 今年はあいにくの雨天にもかかわらず、全国から7家族15名の遺族をはじめ約200名の来賓、海自制服姿の海上幕僚副長以下掃海部隊乗員ら関係者が参列した。式典は雨天のため社殿屋内で海上自衛隊呉地方総監が執行者となり、儀仗隊、音楽隊が参加して宗教色を排した自衛隊の儀式として整斉かつ厳粛に実施された。開式、国旗掲揚の後、儀礼曲「水漬く屍」が静かに流れる中、泉呉地方総監が殉職者霊名簿を碑前に奉安、次いで参会者一同が起立し黙とうを行った。社殿の外から音楽隊の奏でる「国の鎮め」が静かに流れる。

 続いて、福本出掃海隊群司令、大野元防衛庁長官、浜田香川県知事、小野琴平町長、勝山呉水交会会長が碑前に進み、「追悼の詞」を奉唱した。海自の現役自衛官では呉地方総監や海上幕僚副長の方が階級的には上であるが、この追悼式では最初に追悼の詞を奉唱するのは、海上自衛隊掃海部隊の指揮官と慣例化されている。福本群司令は、掃海艦艇、潜水員等で編成された第4海災部隊指揮官として1か月以上にわたり東日本大震災に出動、宮城県・三陸沖で掃海艦艇、水中処分員を指揮した。一部の掃海艦艇はまだ三陸沖で災害派遣活動中であり、例年掃海母艦の「ぶんご」か「うらが」が高松港に入港しているが、今年はこの行事には参加していない。

 淡々とした中にも、戦後自衛隊の創設前後を通じて常に実戦現場にあった掃海部隊の指揮官の言葉には説得力がある。以下その全文を紹介する。

追悼の詞

 本日ここに、新緑に五月雨のけぶる金刀比羅宮の神苑において、ご遺族御来賓のご臨席を仰ぎ、第60回掃海殉職者追悼式が挙行されるにあたり、海上自衛隊掃海部隊を代表し、謹んで申し上げます。

 顧みれば、大東亜戦争末期、我が国の主要港湾及び重要海域に日米両軍が敷設した機雷は、その数、約67,000の多きに上るものでした。中でも米国が対日飢餓作戦と称し、瀬戸内海、関門海峡をはじめ伊勢湾及び東京湾等全国の主要港湾航路に敷設した感応機雷約1万個は、我が国の命脈を繋ぐ内海外洋の海上交通を途絶に追い込みました。そして終戦を迎えましたが、これらの機雷を残らず排除し、海上交通の安全を確保することが、国家再建上喫緊の課題でした。敗戦後の貧困と混乱、そして一億総懺悔と言われるなど価値観が逆転し、GHQによる検閲や報道管制が敷かれ、歓呼の声に見送られることもなくなった中、掃海従事者はただ恬然と、旧海軍掃海部隊から弟2復員省、復員庁、海上保安庁、そして海上自衛隊と所属は変遷しつつも、国家再生のため困難かつ危険に満ちた任務に立ち向かい、新生日本再生への航路を啓き今日のわが国の繁栄と世界の平和と安全に寄与する海上防衛の礎を築かれました。

 この間、79名もの隊員がその職に殉ぜられましたことは、筆舌に尽くせぬ痛恨の極みです。国家国民が待ち望んだ航路啓開の偉業とともに、途半ばにして職に殉ぜられた皆様のあったことは、我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての国民の心にとどめられ、決して忘れてはならない民族の歴史として、その崇高なる精神とともに、今も大切に語り継がれております。

 時に本年3月11日、宮城県牡鹿半島沖を震源とする観測史上最大の地震及び津波により、東日本の沿岸部全域にわたり死者行方不明者2万余名という未曽有の大災害が発生いたしました。この困難に応じ、直ちに出動した陸海空自衛隊の中、掃海部隊の艦艇および水中処分員は、小型艦艇というその特性を生かし、入り組んだ沿岸部において、瓦礫をかき分け、汚濁した海中に潜り、今もなお捜索救難の任にあたっています。

 この間、半島へ基地や島に孤立する住民に物資を運び、数多くの行方不明者を待ちわびるご家族の元に届けて参りました。黙々と瓦礫をかき分けて捜索する隊員たちの背中に、現在に受け継がれている掃海魂を見ることが出来ました。また、漂流物や水中障害物により閉ざされた主要な港湾航路の啓開作業において、海上保安庁測量船の前程を守る掃海艇の姿は、戦後掃海艇と巡視船が共に機雷排除に取り組んだ往時の皆様の姿を彷彿させられるものであります。

 本年はサンフランシスコ講話条約締結60周年に当ります。これを記念して同地に寄稿する練習艦隊の若者たちも、新生日本が連合国側と変わらぬ価値観を共有し得る国家たるかの試金石となり、人知れず派遣され、同条約の締結に貢献した朝鮮特別掃海部隊に思いを致すことでありましょう。

 ここに、改めて身命を賭してその使命を完遂されました皆様の偉業を偲び、御霊の安らかならんことをお祈りするとともに、新たな困難に立ち向かうわが国の行く末、海上自衛隊の諸活動に一層のご加護を賜らんことを祈念して追悼の詞といたします。

平成二十三年五月二十八日  
海上自衛隊掃海隊群司令  
海将補 福 本 出  

 引き続き、音楽隊が「命を捨てて」を奏でる中、儀杖隊の敬礼、弔銃発射が行われた。小雨の中、乾いた銃声が3度、琴平の森にこだまする。続いて荘重な「慰安する」の曲が流れる中、執行者の泉呉地方総監に続き、遺族、来賓、自衛隊各級指揮官、掃海艇乗員ら参列者全員が献花を行った。次いで追悼電報披露、呉音楽隊による追悼演奏があり、最後に泉呉地方総監によって殉職者霊名簿が降納され、追悼式は厳粛なうちに終了した。

 この後、遺族を囲んでの昼食会があり、海上幕僚副長の献杯の音頭の後、遺族代表がお礼の挨拶を行い、殆ど例年のことで顔なじみとなった参会者で和やかに食事、懇談が行われた。外に出ると雨はすでに上がっており、参道両側の土産物屋の掛け声を背に、濡れた石段をゆっくりと降りて行った。

 掃海隊群司令の福本海将補は、60回を数える今回の追悼式に参加しての感想を聞かれ、「この追悼式を軸に『掃海魂』の伝統気質が引き継がれている。それは、掃海という作業(作戦)が旧海軍―第2復員省―復員庁―海上警備隊―海上自衛隊と所掌が変わっても一度も途切れることなく行われてきたことと、実戦を経験して殉職者を出している事によるものと思う。普段の我々の訓練も、「教練」が付くのは20ミリ機関砲ぐらいで全て実戦の体制でやっている」と語った。落ち着いた静かな語り口からは、平時の我が国周辺での機雷処分やペルシャ湾派遣の掃海作業において、常に第一線に身を置いてきた「掃海屋」の自信と誇りが垣間見えた。
(了)

(写真提供:海上自衛隊呉地方総監部)