飛行艇物語

山内 敏秀

 東北地方太平洋地震が発生した3月11日、1隻の輸送艦がインドネシアのマナドへの入港を目前にしていました。地震発生の知らせを受け、この輸送艦は災害救助の任務につくため直ちに反転、帰国しましたが、この輸送艦はマナドにおいて実施される第2回ASEAN地域フォーラム災害救援実働演習に参加する予定だったのです。

 ASEAN地域フォーラム災害救援実働演習は、地域の災害救援に係わる対応能力を高める目的で平成21年から始まった多国間演習です。第1回はフィリピンで大型台風による大規模の被害が発生したとの想定に基づき我が国をはじめ、ASEAN加盟諸国、米国、EUなど11の国と地域から参加があり、また、多くの国々がオブザーバーを派遣しました。この演習には海上自衛隊からUS-2救難機が参加し、海上における救難訓練を実施しています。

 US-2救難機は海上自衛隊が保有する2代目の救難用の飛行艇です。

US-2救難機(海上自衛隊提供)

 そこで、今回は飛行艇について紹介してみたいと思います。

飛行艇って?

 飛行艇は英語でflying boatと呼ばれ、水上飛行機のseaplaneとは区別されています。

 この違いが、飛行艇の特徴をよく表していると思います。飛行艇の機体は船のような形をしていて、ちょうど、船の船体に翼がついていて空を飛ぶことができるという感じです。日本工業規格の航空用語では、飛行艇は「水上にあるとき、主に艇体によってその重量を支持する水上機」と定義されています。この点で「フロートによってその重量を支持」しているseaplaneと呼ばれる水上機とは異なるのです。

Seaplaneの例:日本海軍の2式水上戦闘機
出典:Wikipediaより

 世界最初の飛行艇は、1913年に初飛行した米国のベノイストⅩⅣです。その後、米国、イタリア、フランスなどで次々と飛行艇が開発されました。これは、当時の技術力では大型機の降着装置を開発することができなかったためと言われています。

日本の飛行艇

 日本における飛行艇の歴史は、15式飛行艇、90式2号飛行艇を経て川西航空機が開発した97式飛行艇において世界の水準を凌駕することになりました。97式飛行艇を民間用に改造した川西式4発飛行艇は横浜と南洋諸島を結ぶ定期航空路に就役していました。

 97式飛行艇の後継として同じ川西航空機で開発されたのが2式大艇と通称された2式飛行艇です。

 開発当時の日本海軍の主力戦闘機だった96式戦闘機と同等の速力とB-29よりも長い航続距離をもち、20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門という強力な火力と防弾装甲を装備し、連合国からは「空の戦艦」とも呼ばれてきました。

 2式大艇の戦史で取り上げたいのは、K作戦と呼ばれた真珠湾再攻撃です。

 K作戦には2機の2式大艇が参加しました。1942年3月4日、フレンチフリゲート環礁に進出し、潜水艦から給油を受けた2機は同日21時10分および21時30分頃、オアフ島に到達し、それぞれ4発の250キロ爆弾を投下しました。ただ、天候に恵まれず、投下した爆弾は真珠湾の軍施設や艦船には命中しませんでした。

 2式大艇の426号機は米海軍のノーフォーク基地および船の科学館での展示を経て現在は、鹿児島県にある海上自衛隊の鹿屋基地に展示されています。

2式大艇
出典:Wikipediaより

水上を滑走する2式大艇
出典:Wikipediaより

海上自衛隊の飛行艇

 海上自衛隊の飛行艇の歴史は、アメリカのグラマン社製の水陸両用雑用飛行艇UF-2が6機、海上自衛隊に貸与され、長崎県の大村基地に配備されたときに始まります。このとき、川西航空機の後身である新明和興業(後、新明和工業)から海上自衛隊に提出された「聴音飛行艇構想説明書」に基づき、海上自衛隊においてPX-S構想が立ち上げられ、その実験機用としてUF-1が貸与され、UF-XSとして様々な実験に使用されました。

 海上自衛隊がPX-S構想を打ち出した背景には、潜水艦の能力の向上がありました。日本は第2次世界大戦中、潜水艦によって苦境に追い詰められた経験を持っています。一方、潜水艦は原子力機関などの技術の進歩によってより早く、より深く行動できるように、高性能化する潜水艦への対処は海上自衛隊にとって大きな問題でした。

 水上艦艇は、速力が高くなると雑音が大きくなり、ソナーで潜水艦を探知するのが難しくなります。対潜哨戒機は高速の潜水艦を追尾するのには有効なのですが、水中にある潜水艦をレーダーで探知することはできず、潜水艦によって地磁気が乱されることを利用したMADはその探知範囲が限られています。また、ソノブイは対潜哨戒機が持っている非常に優れた探知手段なのですが、当時は価格の問題がありました。

 潜水艦を探知する最も有効な手段は音を利用した方法ですが、水中では水の密度の違いなどから音の速さが変わり、音は屈折し、シャドウ・ゾーンと呼ばれる音が伝わらない深さが存在します。このシャドウ・ゾーンに隠れた潜水艦を見つけるためにはソナー・ドームそのものを水中で上げ下げすることで可能になります。このようなソナーを可変深度ソナーVDSと呼びます。VDSを搭載したヘリコプターはこの意味で頼りになる存在ですが、航続距離が短いという欠点があります。

 このようなそれぞれの欠点を克服し、利点を活用する方法の一つとして考えられたのがVDSを搭載した飛行艇と対潜哨戒機を組み合わせた対潜水艦作戦でした。

 1960年、新明和工業はソナーと飛行艇を組み合わせた対潜飛行艇の構想を防衛庁(当時)の海上幕僚監部に提出します。海上自衛隊でも能力を向上させた潜水艦に対する新しいシステムの構築などの理由から調査費が認められ、公式に検討が始まりました。

 対潜飛行艇の開発には超えなければならない技術的課題が数多く存在しました。 波静かな海ばかりではなく、波の高い状況にあっても着水して作戦を実施することが求められる対潜飛行艇にとって海という障壁を乗り越えることが最大のものと言って過言ではなかったと思います。

 その第一は、飛行艇が離着水するときに発生する飛沫を如何に抑えるかということでした。新明和工業は先行して研究を進め、二式大艇に採用した「カツオブシ」と通称された波消し装置では期待した性能が得られないことから、これに改造を加え、溝型波消し装置を提案していた。

 第2は、着水時の波の衝撃をいかに緩和するかということでした。この問題を解決するキーは、どれだけ低速で飛行艇を着水させることができるかという問題でした。防衛庁の技術研究本部(当時)はフラップの前縁付近で主翼から剥離してしまう空気の流れをフラップの中に装備したダクトから吹き出した高圧空気で整え、大きな揚力を得ることに大きな成果を得ました。この装置によって、飛行艇は約45ノットという低い速力で離着水することができるようになりました。

 3番目の問題は、やはり飛行艇が外海で離着水しなければならないことに関係するものです。波のある海面に離着水するために滑走する飛行艇は波の峰を超えるときに一旦空中に放り出されるようになり、次いで機首から落ち込んでいくときに次の波の山にぶつかってハデな飛沫をあげ、これが機体やプロペラ、エンジンに被害を及ぼすことになります。その対策として、滑走する飛行艇の縦揺れを抑えると同時に艇首が波頭に突っ込むのを防止するハイドロダンパーと呼ばれる水中翼が考えられました。ハイドロダンパーによってこれまでの飛行艇よりも数段優れた凌波性が得られ、荒海に離着水する能力が向上できると期待されました。その効果はUF-XSの飛行試験で確認されたのですが、当時の制御技術ではリスクが高すぎるとしてPS-1及びUS-1には採用されませんでした。

 さらに、搭載するソナーや電子機器の開発等を経て、1966年6月に試作機の製造が開始され、翌年にロールアウトし、社内飛行試験が実施されました。

 そして、1968年8月10日、兵庫県にある甲南工場において1号機が海上自衛隊に納入されました。

 PX-Sを領収した防衛庁(当時)では、技術研究本部と海上自衛隊が協力して技術的実用試験を行い、1970年10月1日にPS-1として制式化されました。

PS-1哨戒機(海上自衛隊提供)

 制式化に先立つ4月からは海上自衛隊において運用試験が開始され、運用方法が検討されてきました。

 そして、1973年3月1日にPS-1哨戒機5機と連絡機1機をもって第31航空隊が新しく編成され、対潜飛行艇の運用が本格的に始まりました。

 第31航空隊が編成された翌年に行われた海上自衛隊が行う演習、訓練の中でもっとも規模の大きい海上自衛隊演習に参加したPS-1は対抗部隊の赤潜水艦の位置を突き止め、攻撃に成功するという活躍を見せましたが、対潜飛行艇が活躍する場面は意外と早く幕を下ろすことになりました。

 1977年、海上自衛隊はP-2Jの後継機としてP3Cの導入を決定しました。P3Cの導入とともにソノブイもDIFAR、CASS、DICASSといった新しいソノブイが導入され、航空機のソノブイを使用した対潜水艦戦術は大きく進歩していっただけでなく、これまでソノブイを使用した対潜戦の一つの障害であったソノブイの価格の問題も量産によってクリアされるようになっていきました。また、水上艦艇でも潜水艦が発生する低周波音を探知するための曳航式ソナーシステムTASSが装備されるようになり、また、護衛艦にヘリコプターが搭載され、それぞれの利点を生かし、欠点を補い合う対潜戦システムが構築されていきました。

 このような新しい対潜水艦戦の趨勢の中で、飛行艇が洋上に着水し、ソナーを利用して潜水艦を探知するという戦術の優位性が失われていったのです。

 そして、1979年に領収された23号機を最後にPS-1の製造は打ち切られ、1989年3月までにすべてのPS-1が除籍され、我が国における対潜飛行艇の運用に幕が下ろされました。

 しかし、PS-1のリタイアが我が国における飛行艇の運用の終わりを意味するものではありませんでした。PS-1は37名の貴い犠牲の上に世界に例を見ない大型飛行艇の運用の技術の蓄積と要員の育成という大きな足跡を残していきました。そして、それはUS-1救難機へと引き継がれていきました。

 先にも触れたUF-2は長崎県の大村基地に配備され、外洋における航空救難や災害派遣として小笠原方面での患者輸送に活躍してきましたが、1970年代半ばには全機が除籍される予定になっていました。このため、海上自衛隊はUF-2の後継機を整備する必要がありました。そこで注目されたのがPS-1です。

 PS-1は岩国と父島の間の患者輸送だけでなく、短い期間でしたが横須賀と父島の間の直接の患者輸送を行うという実績を持っていました。

 PS-1の救難型を整備し、常時1機を救難待機できる態勢を維持するよう海上自衛隊は1972年に予算要求を起こしました。救難飛行艇の第一任務は航空救難で、当時の主力対潜哨戒機であるP-2Jの搭乗員12名を救助することを目標に計画されました。

 救難飛行艇の開発において、降着装置の開発が一番の課題でした。PS-1において飛行艇としての実績はありましたが、救難飛行艇は通常の飛行場への離着陸も必要となったからです。これに加え、さまざまな救難艤装が検討・開発され、各種の試験を経て1975年3月に完成、海上自衛隊に領収されました。

 さらに、海上自衛隊のおける性能試験を経て、US-1救難機として制式化され、US-1の運用部隊として第71航空隊が編成されました。

US-1A救難機(海上自衛隊提供)

 US-1が初めて出動したのは、1976年7月12日、千葉県房総沖を航行中のギリシャ船籍の貨物船において1等航海士が手首切断という重傷を負った事故に対する災害派遣でした。現場は房総半島から約350海里(約650キロメートル)の海域でUS-1が配備されていた山口県の岩国基地から約750海里離れていました。現場に到着したUS-1は15時35分頃に波高1.5メートルの海面に着水し、患者を収容、羽田まで輸送しました。

 翌1977年7月には、根室の東方約650海里操業中の日本漁船に発生した急病人を収容したときには、当時言われていた無給油行動半径600海里を超える約750海里の無給油飛行によって救助を実施しました。この時は、青森県の八戸基地から出発したのですが、同基地の第2航空群から3機のP2V7が捜索・会合・誘導の任務を分担し、救難機を支援しています。

 1976年及び1977年には波高3メートルを超える荒海に着水し、救助を実施するという成果を収めています。

平成9年2月、銚子沖約1,000海里の洋上において
漁船で発生した急患救助に当たるUS-1
(海上幕僚監部提供)

 US-1が達成した任務の中で忘れられないのが、1994年2月の天皇、皇后両陛下の小笠原方面への行幸・行啓で硫黄島から父島および父島から羽田の飛行を担当したことです。

 このUS-1も2005年2月に領収された20号機を最後に生産が終了し、後継であるUS-2に引き継がれることになりました。

 US-2で採用された主な改造点を挙げてみたいと思います。

 その第一は、艇体上部の与圧化です。これによって高々度飛行が可能となり、また患者を輸送する環境が改善されました。第二は主翼、波消版、フロートなどの軽量化です.この軽量化によって艇体上部の与圧化が可能となりました。また、離着水性能等の向上にもつながっています。第三は操縦系統がフライバイワイヤ化され、安定性、操縦性が向上し、操縦負荷が軽減されました。第四にエンジン・プロペラが乾燥され、離着生性能が向上し、長距離巡航性能、速度性能も向上しました。第4は統合型計器板の採用です。これによってワークロードが軽減され、操作性、視認性等が向上しました。

 これらの改造により救助行動半径は約1,000海里に広がり、高度も30,000フィートとなったため、前線を迂回する必要がなく、より早く現場に進出することができるようになりました。さらに、前にも述べた溝型波消し装置とスプレー・ストリップトによって、US-2は世界で唯一の波高3メートルの荒海に着水できる飛行艇なのです。

 そして、1976年の第1回の救助活動から2010年3月末までの間に救難飛行艇は834人の方の救助に当たってきました。

参考にした文献:『世界の傑作機 新明和PS-1』、『世界の傑作機 新明和US-1』(ともに文林堂)