ドイツからの手紙

夏川 和也

 東北関東大震災及び福島原発損傷被害発生後数日が経って、定年で退官し静かに暮らしている元海上自衛官に一通の手紙が届いた。差出人は元ドイツ海軍士官シュッテ氏である。内容は友情に溢れるものであった。内容に触れる前に何故この様な手紙が来たのか、その所以を述べよう。

 海上自衛隊の幹部となるものを養成する学校、幹部候補生学校が広島県の江田島にある。帝国海軍以来の施設を受け継ぎ恵まれた環境の中で、将来幹部として必要な知識・技能の基礎を習得し、体力を練成し、そして資質を函養するため多くの若者たちが厳しく且充実した日々を送っている。大学卒業の候補生の修学期間は一年で卒業と同時に3等海尉に任命される。

 卒業式はいかなる学校でも来賓や家族も参列し、晴れやかで希望に満ちたものである。
幹部候補生学校の卒業式は、帝国海軍の卒業式も其処で行われた大理石で作られた荘厳な大講堂で、昔ながらの式次第で執り行われる。これは、晴れやかで希望に満ちたという点では同じであっても、国の彼らに対する期待の大きさを暗黙のうちに感じさせる事だろう。家族も同席する午餐会を終了したピカピカの3等海尉達は、家族と団らんする事もなく家族や学校職員に見送られて、学校の沖に停泊している練習艦に乗り組み海上実習へと文字通りの船出をするのである。そして彼等は実習幹部と呼ばれる事になる。

 厳しい修練の一年間を終え、任官した喜びを家族と一緒に分かち合える時間をもう少し与えても良いのかもしれないが、艦に居る時は陸上での事(すなわち私生活)は全て断ち切って、職務に專念するという躾の第一歩なのである。
約7カ月に及ぶ海上実習は、約2カ月の国内巡航と約5カ月の遠洋練習航海からなるが、全ての期間を通じて幹部候補生学校で勉学した事を実地の訓練を通して身につけて行く事を目的の一つとしている。

 艦艇の乗組員の中には実習幹部より階級の低い者がいるが彼らも全て教官である。
艦の運航や戦闘能力発揮のために出来ている各種部署や操艦・天測・運用・通信・機関等々の基本をみっちり叩き込まれる。
もう1つの目的は慣海性を養い、国際性すなわち視野を全地球的に広げ、国際交流の資質を身につけさせる事にある。大荒れ・凪と時々刻々変わる海、道路もなく天象気象の影響をまともに受ける、狭い海峡では大小様々の多くの船が行き会い障害物も隠れている、その様な海において安全に航行し、任務を完遂するためには独特の感性が必要なのである。
また海は各国が共有する空間であり、各国の思惑が交差する空間でもある。従って海で行動する場合には、常に他国との関係即ち国際関係に配慮することが必要となる。

 昭和32年から始まった戦後の遠洋練習航海は太平洋州・北米を行動範囲としていたが、私たちが実習幹部となる昭和38年は、初めて欧州を訪問することになった。そして従来の練習艦隊の旗艦は国産艦であったが、数隻の随伴艦は米国からの貸与艦であった。
しかし、戦後初の欧州訪問と言うことで、なけなしの護衛艦隊から最新鋭の「あきづき」「てるづき」「おおなみ」「たかなみ」の4隻を引き抜いて編成された。

 既述の目的に沿って訓練・体験をしつつ11カ国を訪問し、それぞれの寄港地でまた航行中にも沢山の逸話を残してきたが、今では考えられない話を一つ紹介しよう。
英領アデン(現イエーメン)から紅海・スエズ運河を通りアレキサンドリアに至る航海は、灼熱の下での行動である。しかも砂漠からの風に乗って運ばれる砂が艦内に入らないように空気の取り入れ口にはガーゼの覆いを被せてあったので、艦内は蒸し風呂となった。当直を終わった乗組員は、水を入れたコップを片手に甲板上の日陰での暫しの休息を求めて無宿者のようにさまよったものである。

 さて、冒頭の手紙の所以は、航海の半ばドイツ共和国のキール軍港に寄港したときに発している。フランスのツーロンを後にして、荒天に恵まれ(?)大荒れに荒れたビスケー湾で海の厳しさを体験した後、イギリス海峡をへて大西洋に面したキール運河の入り口に到着したのは早朝であった。薄靄の立ち込める海上は、これまでの海とは一変、将に幻想的な佇まいであった。
ホストシップに先導されて狭い運河をゆっくりとした速度で航行したが、艦の両舷に迫る岸辺や端の上から多くの人たちが手や旗を振り歓迎してくれたのは、入り口での感激と共に50年近くたった今でも鮮やかな印象として残っている。
軍楽隊の演奏や大勢の人たちの歓迎のなかバレンツ海に面したキール軍港に入港し、ベルリン研修・士官学校訪問・一般公開等々の行事が始まった。この様な行事を始め、艦隊の滞在期間中にはドイツ側と綿密な調整が必要な事が多々あるが、そのためにドイツ側から連絡士官が乗艦している。

 名前は「K.シュッテ」中尉(当時)、そして日本側の調整役は旗艦「あきづき」の副長宮森 通2佐であった。副長とは、艦長の補佐役として艦内の取りまとめや対外的な折衝を一手に引き受けている役職であるが、宮森副長は実習幹部思いであり、この遠洋練習航海中寄港地で全く上陸されずに、業務に専念しておられたほど誠実なお方であった。
短い期間ではあっても、煩雑な業務をこなす多忙な日々の中で二人の間にはしっかりとした友情が育まれたのであろう。更にはお二人の誠実な人柄もあったのであろう、練習艦隊が帰国してからも宮森副長とシュッテ中尉はクリスマスカードの交換等の交際が続いていた。そして冒頭に述べた手紙が届いたのである。その内容は、「3.11の大地震と津波そして原発の被害の報に、日本地図で貴殿の住所を確認して被災地に近い事を知った、もし暫時居場所を離れようという希望があるなら、自分のマンションの部屋を空けるから遠慮なく「ボン」に来ませんか。」という内容であった。宮森副長は友情溢れる招待に感激しつつも、直接の被害はない上その他事情もあり日本に残る旨の返事を出されたが、何とも心温まる話しであり我々を元気付けてくれるのではなかろうか。

 遠洋練習航海の目的に国際性・国際交流という事を述べたが、それは何も外国と競い合う場面での感覚を養うという事だけでなく、この様な形で表れてくる相互理解や絆という事も含んでいるのである。
小さな事柄であるかもしれないが、このような交流が増えれば国際安定への力となる事と信じて、背景にある海上自衛隊の活動の一端と合わせて、紹介した次第である。