軍艦って? その3

今回は、前回の潜水艦の続きとして,第2次大戦後の潜水艦の発達から紹介を始めたいと思います。
 大戦後、米海軍はさまざまな種類の潜水艦を建造しますが、その中の一つ、GUPPY型潜水艦のGUPPYとは、Great Underwater Propulsive Power の頭文字をとり、語呂合わせのためYが付加されたもので、シュノーケル装置の取り付け、大容量、大放電率の電池への換装、艦橋構造物をセイルに変更、上甲板に装備されていた砲、機銃の撤去等が行われました。
これにより、潜水艦の水中行動能力が大きく向上しました。

 第二次世界大戦末期、英国を攻撃したV-1、V-2ロケットの技術は戦後米ソに拡散し、1950年代中期に米国では射程約千キロメートルのレギュラスⅠ型ミサイルが開発され、続いて射程約2,200キロメートル、核弾頭搭載可能なレギュラスⅡ型が完成します。
潜水艦グレイバック(Grayback:SSG574)及びグローラー(Growler:SSG577)は、艦首にレギュラス格納筒二基が装備され、艦橋直前に発射台が置かれていました。

 潜水艦と原子力との結びつきは、広島、長崎に原子爆弾が投下されたほぼ一年後、テネシー州にあるオークリッジ研究所に一人の大佐と四人の若手士官が米海軍から派遣されてきた時からと考えてよいのではないでしょうか。
この大佐こそ、後に「原子力海軍の父」と呼ばれることになるハイマン・G・リッコーバー大佐です。

 リッコーバー大佐は、原子力潜水艦の構想を訴え続け、ついに当時の海軍作戦部長ニミッツ(Chester W. Nimitz)元帥の承認を取り付けることに成功しました。そして建造されたのが「ノーチラス」(USS Nautilus)なのです。
 「ノーチラス」は1954年1月に進水、9月に就役し、世界で初めての原子力を動力とする艦にアメリカの軍艦旗が掲げられました。陸上でのいろいろな試験を終了した「ノーチラス」は1955年、処女航海において原子力海軍の幕開けを告げる歴史的メッセージを残しています。

 「われ、原子力にて航行中。(Underway on Nuclear Power)」
 「ノーチラス」はこの最初の航海で数々の記録を樹立していきます。スノーケルを実施しない連続潜航記録1,381海里、16ノットの連続水中高速航行、連続潜航記録90時間です。 さらに、1958年、「ノーチラス、北緯九十度」のメッセージとともに北極点を最初に潜航通過する栄誉を担ったのです。

 潜水艦を「潜水艦を含む敵艦船を捜索・攻撃することを主任務として水中において作戦行動するよう建造された軍艦」と定義するならば、1959年末、従来の潜水艦の定義とは異なる潜水艦が就役しました。
さきにのべた「レギュラス」ミサイルの後継として開発された「ポラリス」型弾道ミサイルを搭載した「ジョージ・ワシントン」です。
弾道ミサイルは、ご存じのように敵の領域の奥深くまで攻撃するため、発射の初期段階で若干の誘導は行うものの後は弾道に委ねて目標に到達させようとしたミサイルで、固体燃料の「ポラリスA-1」弾道ミサイルは1956年に開発されました。

翌年にはこのポラリスを搭載する潜水艦が発注されるのですが、新しく設計からはじめたのでは間に合わないことから、建造中の「スキップジャック」級潜水艦の船体を二分し、16基のミサイル発射筒を収めた長さ130フィートのミサイル区画を挿入するという工法で工事が行われて「ジョージ・ワシントン」が就役したのです。
翌年6月30日「ジョージ・ワシントン」は潜航状態での「ポラリス」ミサイル発射試験に成功し、「Polaris-Out of the Deep to Target. Perfect 」のメッセージを発信しています。その数ヵ月後、「ジョージ・ワシントン」は米国最初の戦略核抑止任務を開始しました。

 最後に水雷艇及び駆逐艦について述べてみたいと思います。
 水雷艇は南北戦争の時に出現しました。小型艇の艦首から長い円材を突き出し、その先端に外装水雷と呼ばれた火薬缶を取り付け、甲鉄艦の非装甲部分に損害を与えようとするものでした。ノルデンフェルド機関砲の開発により外装水雷で敵艦を攻撃することは絶望的であると考えられるようになり、代わってホワイトヘッドによって開発された魚雷が注目され、水雷艇にも魚雷発射管が装備されるようになりました。

本格的な水雷艇は1873年にイギリスにおいて建造された16トンの「ラプス」でした。日清戦争では、黄海海戦の後、根拠地である威海衛に逼塞してしまった清国の艦隊に対し、日本海軍は水雷艇による襲撃を実施したことは有名です。
この時に使用された魚雷は射程300メートルで、100メートルを走るとその後はどこに行くかわからないという代物だったと言われています。
19世紀後半になると水雷艇の奇襲からいかにして戦艦を防御するかが各国の関心となり、水雷艇を駆逐するためにより大きな砲力を有する艦が必要とされるようになりました。
1892年にイギリスが建造した「ハボック」、「デァリング」こそ駆逐艦の嚆矢と言ってよいと思います。

トーピード・ボート・デストロイヤー(torpedo boat destroyer)と呼ばれ、今日のデストロイヤー(destroyer)の語源となり、日本では駆逐艦と訳されるようになりました。
この駆逐艦は、水雷艇に対し、数倍の大きさがあり、荒天時の行動力は水雷艇よりはるかに優れていることから積極的に敵戦艦を魚雷攻撃することに利用しようと考えられ、駆逐艦が水雷艇の任務をも実施するようになってきました。
九三式酸素魚雷を装備した日本の駆逐艦はその究極の解答と言うことができるでしょう。

大東亜戦争中、ガタルカナル島をめぐる日米の闘いのさなか、同島に展開する日本陸軍への補給を実施しようとしていた駆逐艦8隻から編成された日本の水雷戦隊が、重巡洋艦4隻を主力とするアメリカ艦隊が出現するや補給を断念して、アメリカ艦隊に向かって突撃し、各駆逐艦が相次いで酸素魚雷を発射、重巡洋艦「ノーザンプトン」を撃沈(同艦は、魚雷を受けてから約3時間後に沈没)し、その他の艦艇にも多大の被害を与えました。
タサファロンガ海戦と呼ばれるこの海戦は、魚雷を最大の武器として敵艦を攻撃するという駆逐艦の役割を象徴するものの1つと言えると思います。

一方、第一次世界大戦において潜水艦が出現すると駆逐艦は爆雷を装備して対潜任務も実施するようになり、駆逐艦は敵艦を魚雷攻撃する任務だけではなく、哨戒、戦艦・航空母艦の護衛、船団護衛等多様な任務を実施するようになります。

 日本では1924年、水雷艇と言う艦種は一旦なくなりますが、1930年のロンドン海軍軍縮条約によって制限された駆逐艦勢力を補完するために一時的に水雷艇が復活します。
ロンドン海軍軍縮条約が600トン以下の艦は対象としないという規定に目を付けた日本海軍は基準排水量535トン、12.7センチ連装砲1基と単装砲1基及び連装魚雷発射管2基を搭載した「千鳥」型水雷艇を建造しました。

しかし、小さな船体に過大な武器を搭載したためトップヘビーとなり、1934年、荒天の中を演習に参加していた3番艦「友鶴」が転覆、72名の殉職者を出す事故が起きてしまいました。事故調査の結果に基づき、性能改善工事が実施され、建造された4隻のうち3隻は大東亜戦争末期に相次いで戦没し、4番艦「初雁」のみが終戦を向かえることになりました。一方で海軍軍縮条約破棄に伴い水雷艇建造も中止されることになりました。
以上、軍艦について紹介をひとまず終わりたいと思います。

参考にした資料:『海軍 Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ、Ⅹ、ⅩⅠ』(誠文図書)
堀元美『潜水艦―その回顧と展望』(出版協同社)
筑土龍男『原子力潜水艦―海のミサイル発射基地』(教育社)
『日本海軍潜水艦史』(日本海軍潜水艦史刊行会(非売品)
http://www.uboat.net/
http://ja.wikipedia.org/