軍艦って? その2

前回は戦艦、巡洋戦艦までについて紹介してきましたが、今回は巡洋艦から始めたいと思います。
 蒸気機関と鋼鉄が海軍に導入され、戦列艦が装甲艦、さらに戦艦へと発達を遂げる中、フリゲート、スループ等の中、小型帆船も巡洋艦へと発達してゆき、その任務も巡洋艦へと引き継がれてゆくことになります。

巡洋艦のもととなった英語、クルーザーはフリゲートやスループが海を巡航(クルーズ)しながら、敵の監視や通信・連絡の任務を果たしてきたことから派生したものと言われ、1880年代にイギリスで定着しました。
この艦種は外洋における偵察を目的として、敵の駆逐艦、水雷艇に対してはその砲力をもって、優勢な敵艦に対してはその高速力をもって対処するという考えで建造されてきました。

その後、防御甲板を装備したものが出現し、防護巡洋艦と呼ばれるようになります。巡洋艦は大型と中小型のものに分かれて発達し、大型艦は先に述べた装甲巡洋艦、さらに巡洋戦艦へと発達していきます。

防護巡洋艦は第一次世界大戦直前に出現しますが、やがて軽巡洋艦に取って代わられることになります。ただし、この軽巡洋艦は後に述べる1930年のロンドン海軍条約に定義された乙級巡洋艦とは異なります。わが国では巡洋艦の採用とともにその排水量を基準として一等巡洋艦、二等巡洋艦、三等巡洋艦(後に二等巡洋艦に統合)に区分されてきました。

 1922年のワシントン海軍軍縮条約において補助艦は基準排水量1万トン未満、搭載する砲は8インチ以下と規定されると、各国海軍は補助艦としては最も強力な艦の建造を競うようになりました。
基準排水量1万トン、8インチ砲を8から10門、ほぼ軽巡洋艦並みの速力を有するこれらの艦は当初、条約型巡洋艦と呼ばれ、後にアメリカがヘビー・クルーザーと呼んだことから重巡洋艦の名称が定着するようになります。

我が国では平賀譲の設計による「妙高」型重巡洋艦は基準排水量11、300トン、8インチ砲連装5基10門を搭載し、さらに61センチの4連装魚雷発射管4基を装備する代表的な重巡洋艦でした。
このクラスの1隻である「足柄」は英国国王ジョージ6世の戴冠式を記念する観艦式に派遣され、各国から「飢えた海のオオカミ」と評されました。この時、「足柄」に乗っていたい海軍軍楽隊員齋藤丑松がその時の情感を行進曲にしたのが行進曲「足柄」です。このことは、また機会があればご紹介したいと思います。

イギリス国王戴冠式の観艦式に参加のためスピッドヘッドに停泊中の重巡洋艦「足柄」
奥に見えるのはドイツのポケット戦艦「アドミラル・グラフ・シュぺー」
(出典:http://hush.gooside.com/name/a/Ashigara/Ashigara.html

 さらに1930年に締結されたロンドン海軍条約では巡洋艦はさらに6.1インチ砲を超え8インチ以下の大砲を装備する甲級巡洋艦(重巡洋艦)と6.1インチ以下5.1インチ以上の大砲を搭載する乙級巡洋艦に区分され、この乙級巡洋艦が軽巡洋艦と呼ばれるようになりました。

 先に、戦艦「大和」が出てきたときには、戦艦が活躍する時代は過ぎていたと言いましたが、第二次大戦において戦艦から海軍の主役を引き継ぎ、今日にいたっているのが航空母艦ではないでしょうか。
その歴史は、1903年に人類が飛行機を手に入れた時に始まると言って差し支えないと思います。
飛行機の出現により、各国は軍艦にこれを搭載し、作戦に利用しようと考えられるようになります。
ライト兄弟の初飛行からわずか7年の後には、軍艦から飛行機を発進させる実験がアメリカ海軍に手によって行われました。
それ以後、アメリカ、イギリス、フランスにおいてさまざまな試みが行われましたが、いずれもがいわゆる水上機母艦に属するものでした。
中でも日本が建造した「若宮丸」は専用の水上機母艦として世界でもっとも早く完成し、実戦目的で建造された航空母艦の嚆矢と言ってよいのではないでしょうか。

 第一次大戦中に軍艦を改造し、その甲板上から水上機ではなく艦上機を運用しようとする試みが始まります。
1917年にイギリスは大型軽巡洋艦「フューリアス」を改造して前部に発艦甲板、後部に着艦甲板を装備し、一応航空母艦と呼べる艦を建造しました。さらに大戦中にイギリスはイタリアの未完成であった商船を買い取り、これを改造して航空母艦「アーガス」を、さらにチリ用に建造中であった戦艦を買収、改造して航空母艦「イーグル」を建造する等急速に航空母艦を発展させていきます。
これに刺激され、アメリカは給炭船を改造して「ラングレー」を建造しました。日本では1922年、航空母艦「鳳翔」が完成、同艦は基本から航空母艦として設計、建造され、完成した世界最初の艦で、日本として誇りにしてよいことだと思います。

そして、搭載航空機の発達とともに航空母艦は各国海軍の中核的地位へと進んでいきます。
その動きを決定的にしたのが1941年の日本海軍による真珠湾攻撃でした。
以後、第二次世界大戦中、太平洋水域では日米両海軍は、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などにおいて航空母艦を航空母艦として運用して死闘を繰り広げたのです。

 第二次世界大戦後、1948年にビキニ環礁において核実験を成功させたアメリカは核実験の成果を踏まえ「ハーフムーン計画」と呼ばれる戦略を決定しました。
これはアメリカの戦略が核兵器に大きく依存することを象徴するような計画でした。
さらに、アメリカ空軍は、第二次世界大戦における戦略爆撃の実績を背景にルメー将軍、ドーリットル将軍らが強力に空軍万能論を展開し、海軍不要論を主張しました。

空軍の主張は、米国の基地から発進する原爆を搭載した長距離爆撃機で予想される敵国の中心部を爆撃するという戦略空軍中心の対都市攻撃の考え方によるもので、同じような任務を果たすのには2つの軍種が必要ではないとするものでした。
さらに、1949年4月、国防長官によって大型航空母艦第58号「ユナイテッド・ステイツ」の建造が一方的に中止されたことから海軍と空軍の戦いが激しさを増していきます。
海軍と空軍の論戦が頂点に達したのが、「提督の反乱」と呼ばれた1949年10月の下院軍事委員会でした。海軍縮小論・空軍万能論あるいは空母不要論・戦略空軍万能論とこれに対する海軍の反論が戦われましたが、この論戦に回答を与えたのが1950年に始まった朝鮮戦争でした。

朝鮮戦争において航空母艦の有用性が改めて認識され、1952年には大型航空母艦「フォレスタル」の建造が承認されました。
時代はジェット機の時代に入っており、航空母艦にはスティーム・カタパルト、アングル・デッキ等の新たな機軸が盛り込まれ、原子力機関の導入とも相まって依然として海軍力の象徴としてその地位を維持しています。

 なお、今日では正規空母という呼び方は使われることはほとんどありませんが、日本に前方展開するアメリカの「ジョージ・ワシントン」のような大型空母は建造、維持ともに莫大な経費がかかるため、アメリカ、フランスといった限られた国しか保有していません。
1970年代にイギリスがV/STOL機とスキーのジャンプを思わせる発艦方式との組み合わせで開発した「インヴィンシブル」型の航空母艦はその後、旧ソ連だけではなく、イタリア、インド、タイ等へと拡散していきました。

また、中国は航空母艦を単に作戦上、重要な艦であると考えるだけでなく、大国の象徴、また政治・外交上の有効な手段と考え、国防部長が来日した際に、防衛大臣に対し「中国は永遠に航空母艦を持たないというわけには行かない」と発言したように航空母艦の保有に強い意欲をもって、保有へ向けての動きを示しています。
 潜水艦の歴史をどこから始めるかはいろいろと説が分かれるところですが、実戦に使用された最初の潜水艦というと1776年、アメリカ人ブッシュネルによって建造された「タートル」とすることにほとんど異論はないと思います。丁度、ワインの醸造用の樽と思わせる格好をしていました。人が一人乗り込み、手で推進器をまわして敵に近づき、敵の船底に錐で爆薬を取り付け、撃沈しようとするものでした。

これ以降、各国で様々な実験が繰り返されてきますが、始祖鳥的な潜水艦が近代的な潜水艦に脱皮するためには、いくつかの技術的革新が必要であった。
 最初に挙げたいのは尽力に頼っていた推進力を変えた内燃機関の発明、発達です。1823年にイギリス人ブラウンがはじめて実用的なガス機関を作成し、1884年にドイツ人ダイムラーが高速ガソリン機関を製作しました。

 2番目は、魚雷の発明です。1886年、ホワイトヘッドが魚雷を開発し、これが水中発射管から発射できるようになってきたのです。内燃機関、魚雷のほかに、二次蓄電池、電動機が加わってくることによって、近代的な潜水艦の誕生を迎えるのです。アメリカ人ホーランドの開発してきた潜水艇の第十号が1900年に米海軍に正式に採用されることになりました。

 日本では日露戦争中に米国からこのホーランド型潜水艇5隻を購入し、輸送されてきた五隻の潜水艇は横須賀海軍工廠において組立作業が行われ、明治38年7月31日、第一号艇を政府が受領した。
この5隻に続いて日本が独自に建造した6号潜水艇は、明治43年4月15日、広島県新湊沖で沈没、乗員は殉職するという事故が起こります。この6号潜水艇の艇長であった佐久間勤大尉はわずかに漏れてくる明かりの中で遺書を遺しますが、この遺書は様々な国の言葉に翻訳され、日本だけでなく、外国海軍においても潜水艦乗組員の精神的支柱として現在に至るまで語り継がれています。

 海のものとも山のものともよく理解されなかった潜水艦でしたが、その評価を決定的なものとしたのが、第一次世界大戦におけるドイツ帝国のUボート(Unterseebooteの略)でした。
 1914年9月、ドイツのU9はたった1隻で英国の1万2千トン級の巡洋艦「アブーカ(HMS Aboukir)」、「ホーグ(HMS Hogue)」及び「クレッシー(HMS Cressy)」を撃沈しましたが,これが近代的な潜水艦による戦果第1号と言ってよいと思います。

同じ年の10月、ノルウェー南方において一つの地味な戦果が記録されます。
U17が英国汽船「グリトラ(Glitra)」866トンを撃沈したのです。この戦果こそ、潜水艦が商船を撃沈した最初の事例であり、以後、商船は潜水艦の標的とされ、潜水艦による通商破壊の嚆矢となる戦果でした。
第一次世界大戦を通じ、Uボートによって約五千隻、千二百万トンを超える船舶が失われました。この中にはアメリカが第一次世界大戦に参戦するきっかけとなった「ルシタニア(RMS Lusitania)」の撃沈も含まれています。

第一次世界大戦におけるUボートの戦例は、潜水艦が海上交通にとって如何に脅威であるか、潜水艦は艦船攻撃よりも通商破壊に如何に威力を発揮するかを如実に示すものでした。
 第一次大戦の敗戦国ドイツでは、Uボート乗組員たちから「ライオン」と慕われたカール・デーニッツの下で潜水艦部隊が再建されていきます。第二次世界大戦が始まると、Uボートは「バトル・オブ・ブリテン」と並び称される「大西洋の戦い」を戦い抜きます。

1939年10月、ギュンター・プリーン大尉に指揮されたU47はイギリス艦隊の根拠地だったスカパ・フローに侵入し、イギリス戦艦「ロイヤル・オーク(HMS Royal Oak)」を撃沈するという華々しい戦果を挙げます。しかし、Uボートの真価は通商破壊に発揮されます。
約千四百五十万トンの商船の撃沈という戦果、これが781隻のUボートと約2万8千名の乗員を犠牲にしたドイツ潜水艦部隊の戦績でした。
 大東亜戦争中の日本の潜水艦はどうだったのでしょう。ミッドウェー海戦直後の伊168潜水艦による米空母「ヨークタウン(USS Yorktown)」撃沈、ガタルカナル島争奪戦中における伊19潜水艦による米空母「ワスプ(USS Wasp)」の撃沈、伊26潜水艦による米巡洋艦「ジュノー(USS Juneau)」撃沈、空母「サラトガ(USS Saratoga)」撃破、さらに原子爆弾をテニアン島に揚陸したばかりの米重巡洋艦「インディアナポリス(USS Indianapolis)」を撃沈した伊58潜水艦に代表されるように正規空母2隻、護衛空母1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻など23隻を撃沈、正規空母2隻、戦艦2隻など17隻を撃破し、約300万トンの商船を沈めたのが、日本の潜水艦の活躍の跡でした。日本の潜水艦について、特に述べておきたいことがあります。

それは、伊25潜水艦によるアメリカ本土爆撃です。伊25潜水艦に搭載された水上機は、オレゴン州山林に焼夷弾各2発を投下したのです。
えっ!そんなことと思われるかもしれませんが、このアメリカ本土爆撃が特型潜水艦(特潜:伊400型潜水艦)と「晴嵐」水上攻撃機の開発につながり、やがては今日の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦につながるのです。

「晴嵐」水上攻撃機は800キログラム爆弾または魚雷一発を搭載できる飛行機で、特型潜水艦(特潜)はこの水上攻撃機を三機搭載することができる基準排水量約3,500トン、航続距離14ノットで約3万7千海里という海底空母と呼ぶにふさわしい潜水艦でした。
この潜水艦と航空機を結合するというアイディアを実際の作戦として実施したのは日本海軍だけでしたが、戦後、ミサイル搭載潜水艦の構想に少なからぬ影響を及ぼしたと考えられます。
次回は,第2次大戦後の潜水艦の発達から話を進めたいと思います。

参考にした資料:『海軍 Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ、Ⅹ、ⅩⅠ』(誠文図書)
堀元美『潜水艦―その回顧と展望』(出版協同社)
筑土龍男『原子力潜水艦―海のミサイル発射基地』(教育社)
『日本海軍潜水艦史』(日本海軍潜水艦史刊行会(非売品) http://www.uboat.net/
http://ja.wikipedia.org/