5月27日の天気図(3)

元海将補伊藤和雄氏の論文「5月27日の天気図」を配信します。
本稿は兵術同好会誌「波濤」通巻207号(2010.3)、208号(2010.5)に掲載されたものに一部加筆されたものです。

著者 伊藤和雄元将補の紹介

昭和22年 北海道札幌生
昭和45年 防衛大学校卒(14期)
海上自衛隊入隊(幹候21期)
主として水上艦艇部隊で勤務
ゆうぐも艦長、余市防備隊司令
第36・第62護衛隊司令
幹部学校第1研究室長
幹部候補生学校副校長を経て
平成15年 退官(海将補)
現在(株)NTTデータ 嘱託

5 気象が海戦に及ぼした影響

二十七日朝

 当日の朝は濛気が立ち込めていた。この時の気象状況を「信濃丸」がバルチック艦隊に随伴していた病院船を発見した時の様子から眺めてみたい。

「信濃丸」は、27日0245、五島列島西、白瀬の西方約40マイルを北東に向け航行中、左舷側に東航する1隻の汽船の灯火を認めた。近づくと規定の灯火の他に後部マストに「白?紅?白」の連掲された灯火を発見した。
この灯火は、1899年、国際条約として締結(我が国は1900年に批准)されたばかりの、「ヘーグ条約」の趣旨に沿った病院船の灯火である。ロシアは条約締結のための会議で、最終的に条文化は見送られたものの、病院船の識別灯火として、「白?紅?白」の連掲灯火を提案していた。

この時の状況を、『信濃丸戦時日誌』から引用すると、「…彼レノ後檣ニ白赤白ノ三燈ヲ連掲スルヲ認ム時ニ我ハ汽船ノ東方ニ位置シ月光東天ニ懸リ西方ヲ望見スルニ困難ニシテ彼レヲ我レヨリ明視セルヲ不利ナルヲ見テ密ニ彼レノ西方ニ出テ艦種ヲ確定センガ為速力ヲ増加シ彼レノ後方ヲ廻リ左舷ニ出テ…」とある。
つまり、東の空に月が出ていたことを示している。
「信濃丸」が発見した二○三地点(北緯33度20分・東経128度10分)付近におけるこの日の月齢は22.5、月出時刻は0126、月出方位は100度である。
しかし、目標にかなり接近しても、敵の病院船と識別できていない。海面付近の視界はかなり悪かった。おそらく濛気は強風により濃淡があり、「信濃丸」は、濛気の切れ目に下弦の月を見ていたのであろう。
「信濃丸」に対し、病院船から味方と誤認したのか、電気手旗(両手に白灯)による信号があり、怪しいとみた「信濃丸」の成川艦長が同船を臨検しようと更に近づくと、白みかけた濛気を透かして近傍に10隻余りの艦船と数条の煤煙を視認した。

0447、第1報「敵艦隊ノ煤煙ラシキモノ見ユ」と全艦あて発電、続いて、0452、第2報、「タタタ(7連送)モ二〇三「YR」セ」と発電した。
第2報の意味は、「敵の第二艦隊見ユ、二〇三地点、発「信濃丸」」である。バルチック艦隊は第二艦隊と呼称されていた。この日、二○三地点における日出時刻は、0521である。

この病院船は「アリヨール」(同名の戦艦も海戦に参加している)である。
灯火管制の中、なぜ同船だけが灯火を点灯していたのか、疑問の残るところである。本題とはやや外れるが、病院船の諸灯点灯に関する推論を二つ披露したい。

ひとつは、「アリヨール船長は、あえて灯火を消灯しなかった」との論である。
バルチック艦隊が回航途次、マダガスカル島東岸のタンタン入り江で碇泊していたある時、日本の水雷艇が襲撃するとの噂で、ロジェストウェンスキー司令長官(以下ロ司令長官と略記)が碇泊中の全艦船に対し、灯火管制を令したことがあった。
この命令に対し、アリヨール船長は、ロ司令長官のもとへ出向き、先の国際条約を根拠に、「病院船は、如何なる場合も灯火を消灯してはならない」と主張した12)。この時は、ロ司令長官から一喝され、追い返されたものの、同船船長は「敵からの攻撃を避けるためは、病院船は諸灯を点灯すべき」との考え方を持っていたのは事実である。
もうひとつは、「病院船は、ロ司令長官の承認を得て諸灯を点灯していた」との論である。
むしろ、こちらの方が、可能性が高いと思っている。

5月14日、バルチック艦隊は、最後の碇泊地ヴァン・フォン湾(現ベトナム)を出航し、警戒航行の態勢に入った。
艦隊の各艦船は、遮光された艦(船)尾灯を除き、全ての灯火を消灯したが、 病院船は、既にこの時から航海諸灯を点灯し、主隊の後方を離れて航行している。
病院船は、国際法上、艦隊随伴は認められるが、戦闘艦艇に直接護衛されると、病院船として認められない可能性があった。

諸灯の点灯と戦闘艦艇と離れた後方随伴とを考慮すると、ロ司令長官は、国際条約の趣旨に沿った病院船としての規定を守ることに同意していた可能性がある。ましてや、「ヘーグ条約」を締結した国際会議は、ロシア皇帝ニコライ二世の提唱により、1899年、オランダ・ヘーグ(ハーグ)で開催された会議である。
皇帝は、侍従武官であったロジェストウェンスキーをバルチック艦隊の司令官に任命し、中将に昇任させた、その人でもある。
ロ司令長官も皇帝を敬愛していた。ロ司令長官が、「ヘーグ条約」締結に係わる皇帝の関与に気づき、条約に関する認識を改めたとするのは、考えられる展開であろう。

いずれにしても、よく言われている「病院船の不注意」により、諸灯を点灯していたのではないのは、確かである。
理由はどうであれ、病院船の灯火は日本にとっては幸いであった。
バルチック艦隊に随伴していた病院船は2隻いた。聯合艦隊は、もう1隻の病院船「カストローマ」は解放したが、「アリヨール」の方は、条約違反のため捕獲している。

条約では、病院船は捕獲から免除される。
しかし、バルチック艦隊は、5月19日、バシー海峡付近で臨検・拿捕(だほ)したイギリス商船「オールド・ハミヤ」号の船長以下3名の船員を「アリヨール」に乗船させていたため、聯合艦隊は、これが病院船を本来の目的以外に使用したと判断したのである。

余談ながら、捕獲され、乗組員を退船させられた「オールド・ハミヤ」号のその後である。
ロ司令長官は同船に艦隊の乗員を乗せ、艦隊主隊の航路を欺瞞(ぎまん)するため、他の仮装巡洋艦2隻と伴に太平洋岸を宗谷海峡に向け航行させている。
しかし、3隻は、あまりにも陸岸から離れて航行したため、我が国の望楼から発見されることもなく、結果的には誰からも発見されず、欺瞞行動にはならなかった。
ロ司令長官は、後にこのことを聞かされ、怒り、悔しがっていた、と言う。なお、この欺瞞商船は、濃霧のため千島・得撫(ウルップ)島の東海岸で座礁している。

実は、病院船内でイギリス船員を発見したのは偶然であった。
「アリヨール」は、27日午後、対馬東方海域で、我が国の仮装巡洋艦「佐渡丸」に発見され、臨検を受けた。
臨検隊指揮官の福田大尉は、病院船が、ロシアがアメリカから購入した潜水艇(我が国も同じ型の潜水艇をアメリカから購入している。
つまり、アメリカは交戦国の両国に同じ武器を売っていた)を分解し、運搬しているのではと疑いを持ち、徹底的に船内を捜索した結果、抑留されているイギリス船員を発見した。

余談の続きだが、日露両国がアメリカから購入したホーランド型潜水艇に関する、にわかに信じ難い話である。
両国がアメリカ・フィラデルフィアの造船会社(潜水艇製造会社)に発注したのは、それぞれ5隻である。
5隻一括購入が、売り手の条件であった。ロシアは海戦直前に、我が国は海戦後の明治37年6月に発注している。最終的な組み立ては、発注国で行うこととされていた。

造船会社が両国に部品を送る際、左右1対となった注排水弁を、それぞれ5隻分5組を送るべきところ、ロシアには左舷用のみ10個を、我が国へは、右舷用のみ10個を送付した13)。
アメリカの会社が取り違えたのは、単純な錯誤かどうかはわからない。結果的には両国とも戦争には間に合わなかった。

なお、正規の部品が揃った後、ロシアの潜水艇は、ペテルブルグの造船所で組み立てられ、陸路、シベリア鉄道でウラジオへ運ばれていた。
我が国の潜水艇は、横須賀の海軍工廠で組み立てられ、明治38年7月には1号艇が竣工し、10月までには全艇5隻が竣工している。
我が国の潜水艇は、戦闘参加の機会はなかったものの、日露戦勝後の凱旋観艦式に参加し、御召艦の目前で潜航展示を演じる栄誉に浴している。
当時、潜水艇は、艦艇類別上水雷艇に属し、「潜航水雷艇」と呼ばれていた。両国にとって、相手の「見えない敵」は、戦争期間中、常に脅威であった。

日露両国は、「ヘーグ条約」を批准し、この国際法の下で日露戦争を戦った。
我が国は、国の交戦権に係わる同条約と合わせ、人道に関しては、同条約の基となった、1863年の「赤十字規約」及び1864年の「ジュネーブ条約」を適用している。
我が国は、先の病院船の捕獲にもあるとおり、条約の明文を厳格に守ったばかりではなく、その精神を守った。
戦後、捕虜を手厚く処遇し、各国から賞賛を得たのは知られているとおりである。

さて、濛気は、日露両海軍にとってどのように影響したのであろうか。
「信濃丸」による発見がなければ、いずれ発見されたであろうが、聯合艦隊主力の出航が遅れ、迎撃地点も更に北になり開かれた海域での海戦となったであろう。ウラジオを目指すバルチック艦隊にとっては針路の選択範囲が広がり、海戦を避けることもできたかも知れない。少なくとも艦隊の全部が狭い海峡内で捕捉されることはなかった。
本来、バルチック艦隊にとって有利に作用するはずであった濛気も、「信濃丸」の病院船発見によって、結果的には有利に作用しなかった。

二十七日昼

 上空は晴れているが、海面は朝よりは薄れているものの依然として濛気が立ち込めていた。
東郷司令長官直率する第1戦隊がバルチック艦隊をかすかに視認したのは、時刻1339、距離約7マイルである。
バルチック艦隊も同時刻に第1戦隊を発見している。既にほぼ砲戦を開始できる距離に迫っている。
バルチック艦隊が海戦を避けようとするのであれば、より遠距離で聨合艦隊を探知し、回避のための運動に余裕が欲しかったであろう。決戦を望む聯合艦隊にとって、この距離は、敵を逃さず直ちに砲撃できる望ましい距離であり、この視界は決して不利ではなかった。

1408、バルチック艦隊が砲火を開き、2分後、聨合艦隊も応砲した。初弾発砲距離は約6000メートルである。
また、バルチック艦隊はロ司令長官の指示で、味方識別のため煙突を黄銅色に塗装していた。
聯合艦隊にとって、これが敵識別に大いに役立った。濛気で船体は見えなくても黄銅色の煙突は見えたのである。
一方、ロシア側からは、灰色一色で塗装された日本の艦艇は濛気と混色し見え難くかったと、後に捕虜となったロシア海軍士官が証言している。

更に、煤煙である。聯合艦隊は戦闘用の石炭として、良質で高カロリーの無煙炭を使用していた。
イギリスのウェールズ地方で産するカーディフ炭である。当時世界一の品質との評価が高かった。
一方、バルチック艦隊は、回航中の石炭の供給はドイツの給炭船に頼らざるを得なく、石炭の質を選べる状況にはなかった。
石炭の質は劣り、燃焼時の煤(すす)が多く、「煤煙見ユ」との「信濃丸」の発見電につながった。
聯合艦隊にとって、バルチック艦隊の煤煙は、濛気の中でも識別を容易にさせた。
総じて、二十七日昼の濛気漂う視界は、聯合艦隊にとって有利に作用した。

風向については、戦闘にどう影響したであろうか。風は、朝よりはやや弱まったものの、依然として西寄り10メートル以上の風があった。
強風下の射撃は、一般に風上が有利である。
風下に位置すると砲側の照準器に浪がかぶり、照準が難しくなる。
また、砲煙や浪が艦を覆い視界が遮られるからである。

東郷司令長官直率の第1戦隊が砲撃を開始した時(第1合戦時)の針路は東北東、射線方向は南南東、右舷射撃である。
つまり第1戦隊は、当初、艦尾方向から、射線に対しては右正横に風を受けて射撃を開始した。
その後、敵の前方に回り込んだため射線方向は南から南西に移動した。
すなわち第1戦隊は、意図した風上ではなく風下に移動したことになる。
飛沫が艦橋まで届くことがあり照準が難しく、また射後の砲煙と煤煙が自艦を覆い弾着観測も難しかったと記録されている。後続の第2戦隊もほぼ同様の風向と射線方向の関係で戦っている。

バルチック艦隊の戦闘開始時の陣形は、戦闘前の信号の取り違いでロ司令長官の意図した単縦列が整形できず、戦隊毎の複縦列で、先頭艦同士が方位列になった変則的な陣形であった。
そのうえ戦闘開始直後、各戦隊の先頭艦が被弾し、統制のとれた運動ができず、また、双方にいえることでもあるが、部隊として風向に気を払って運動する状況ではなかった。
聨合艦隊の第3戦隊、第4戦隊は、敵艦隊の後方、南西から南方向に移動し、つまり風上に位置し、砲戦を開始している。

風向に関しては、両艦隊にとって相半ば、あるいは、第3戦隊及び第4戦隊の発砲時の位置を考慮すると、聨合艦隊にやや有利に作用していたかも知れない。
また、強風に伴う浪は高かった。

水雷艇(90~150トン程度)は、主隊の出撃に合わせ出航したものの、あまりの浪の高さで航行が困難となり、聯合艦隊司令部から、「艇隊ハ対馬・三浦湾ニ風波ヲ避ケヨ」と下令されている。
駆逐艦(350トン程度)も波浪のため統制ある行動がとれず、「駆逐隊ハ弾着距離以外ニ在リテ適宜行動スベシ」と命令されている。

ロシアの艦船の乾舷は低かった。
元々設計上乾舷が低かったうえに石炭などを過量に搭載していた結果である。
甲板上に石炭袋を積んだままの艦もあった。聯合艦隊の各艦も、北方移動(敵艦隊が朝鮮海峡に現れない時は、北海道方面に移動する計画であった)に備え予備炭を搭載していた。
予備炭を柳行李(やなぎごうり)に入れ、甲板上に積んでいた艦は、「合戦準備」で、これを行李ごと海中に投棄し、決戦に備えている。

乾舷の低さは、被弾した時の被害拡大につながる。
水線上に受けた弾孔に動揺による浪が打ち込み、そこから海水が浸入するのである。
ロシア第二戦隊旗艦戦艦「オスラビア」は、水線部上部の非装甲部に被弾、波浪のため弾孔から大量の海水が一気に浸入し、海戦で最初に沈没した艦となった。戦闘開始から僅か1時間後であった。
更に、動揺は射撃術力の差が顕著に表れる。訓練を重ねていた聨合艦隊と長い航海を続けていたバルチック艦隊とでは、当然ながら射撃術力に差があった。
制限された視界と高い浪と動揺は、聯合艦隊に有利に作用した。

二十七日夜

 昼過ぎから風も次第に弱まり、日没前にはほとんど止んでいた。
視界も回復した。大きなうねりは残っていたが、対馬・三浦湾に避泊中の水雷艇隊は、待ち切れずに1400頃出撃している。
夜戦には、駆逐隊5隊21隻、水雷艇隊8隊32隻が参加している。この夜の気象・海象は、小型艦艇に活躍の場を与えた。

当日、夜戦があった海域における日没時刻は1926、月出時刻は0154(月齢23.5)である。日没からしばらくは暗夜である。
しかし、ロシア艦艇は、水雷艇から夜襲を受けた場合は探海灯(探照灯)を使うように事前に指示されており、これを守ったため、我が国の艇隊にとっては敵の探海灯は好目標になった。
これに対し、大きなうねりは、小型艦艇を波間に隠し、2、3,000メートル離れればロシア艦艇側からはほとんど見えなかった、と言う。
後日捕虜の言によれば、繰り返し肉薄する艇隊に相当悩まされ、戦意を削がれたようである。
朝鮮海峡を通峡しようとしたバルチック艦隊の総隻数は38隻である。夜戦が終わった段階で、主力の戦艦・巡洋艦17隻の内、7隻は沈没、残余の艦艇もほとんどが被害を受け、もはや聨合艦隊と対抗できる力はなかった。
この間、昼戦を終えた聯合艦隊の戦艦・巡洋艦隊群は、バルチック艦隊の残存艦艇を待ち構えるため、鬱陵島南東海域に移動した。

二十八日

 『戦艦三笠戦時日誌』中、二十八日天候の項の記載は次のとおりである。
「晴 西南西風力二及至三 和浪長涛(波穏やかで波長大)展望良好」
また、「戦闘詳報」の二十八日天候欄の記載は次のとおりである。
「天候快晴ニシテ展望良好、風向ハ午前南西ニシテ午後西南西ニ変シ風力概ネ二内外波浪ノ方向西南西ニシテ高カラスト雖モ波長頗ル大ニシテ艦ノ動揺甚シ」
要するに、二十八日の日本海は、浪はおさまり、うねりは残っていたものの天気快晴、視界良好、鬱陵島の近傍にいた艦には、西に朝鮮半島の山々と東南方に内地中国地方の山々の双方が、かすかに見えたほどである。日出と同時に澄み渡った空を背に敵艦隊の煤煙を発見した。
この日は、残存の敵艦隊を発見するうえで、この上ない天気であった。

おわりに

 明治38年10月14日、京都智積院(ちしゃくいん)に捕虜として収容されていたロシア海軍士官が、開設25周年を翌日に控えた京都測候所を参観した。
一つ一つの観測機器に興味を示し質問を浴びせると同時に、彼等が最も驚いたのは、京都測候所が25年も前に設立されていたことであった。
気象分野で如何に軍事目的達成に寄与したかを、あえて「気象戦」と称するのであれば、我が国は「気象戦」でもロシアに勝利した。

日露戦争の勝因に種々言われているが、そのひとつに「天佑」との文言がある。
東郷司令長官から報告された『戦闘詳報(公報)』には、「天佑と神助により……」の書き出しで始まっている。
あまりにも運に恵まれていたというのである。これは「天佑」、「神助」という言葉だけで片付けられる話ではない。確かに日本海海戦では、気象分野に限っても、気象に恵まれ、あらゆる場面で聨合艦隊に有利に作用した。

しかしながら、その背景には気象業務の生い立ちから海戦に至るまで、幕末から明治に至る多くの先人、先輩達の血の滲むような懸命な努力の結果で、天気予報の体制が築かれた史実を忘れてはならないと思う。
当時、天気予報の最大の目的は、晴天、曇天を予報するのではなく、暴風(台風)の警報にあった。
気象関係者の真価は、暴風到来時に発揮される。
彼等は嵐のさなかに、測候所はもとより、域内の役場、あるいは勤務員が1、2名しかいない灯台、岬や離島の観測所から観測データを送り、天気図の空白を埋めた。
予報官は、深夜、嵐の中で刻々と届く気象電報に基づき暴風を追跡した。
後年のことではあるが、暴風警報の発令が遅れた責任をとって自ら命を絶った測候所長もいた。気象関係者は、それほど真剣に職務に取り組んでいた。

巡洋艦「畝傍」が消息を絶った時、国民全体が悲しみの感情を共有し、それが天気予報体制の強化につながった。
気象関係者のみならず、国民一人一人が国家のために奉仕し、行動した。
国民が権利と称して国に施(ほどこ)しを求め、為政者が将来の国家像を見出せないまま、国民におもねり、大衆に迎合する様は、この時代には見当たらない。

聨合艦隊旗艦「三笠」が、「厳島」経由で「信濃丸」の発見電(「敵ノ第二艦隊見ユ」)を受信したのは、5月27日0505である。「三笠」が碇泊していた鎮海湾における海戦日の日出時刻は0516である。
特務艦隊旗艦「臺中丸」が擁する郵便船「千鳥丸」が「三笠」に発信電報(出撃電)受領に出向いたのは0530頃、「三笠」の「出港用意、抜錨」下令が0555である。

したがって、秋山が出撃電に加筆したのは、おそらく日出直後であろう。その時刻に、しかも湾内で、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と出撃電に加えるほど、その日の天候を断言できたのであろうか。
後日、「浪が高い」ことは、乾舷の低いバルチック艦隊にとって浪がかぶりやすく照準が不利になるとか、水雷艇の出撃が困難であり、連繋水雷作戦ができないことを示唆した暗号的意味合いがあるとの見解も述べられている。“あとづけ”の見解のようにも思えるが、定かではない。
確かに、この出撃電に後半部分がなければ、単なる出撃に際しての一般的な報告文である。後世に残る電文にはならなかったであろう。後半部分が、激戦を予想し、生死を賭して戦いに挑む心意気が察せられ、かつ文章全体の格調を高めている。まさに名文である。
今となっては、なぜ、秋山が、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と出撃電に加えたのか、彼の脳裏に聞かなければわからない。
(了)

1)「気象百年史」(気象庁、1975年刊)74p
2)「気象学科設置ノ学校」(『気象集誌(第15年第10号)』大日本気象学会、明治29年刊)(『気象集誌』の発刊番号の付与要領であるが、例えば、「第15年第10号」とは、明治15年に創刊してから15年目(明治29年)の10番目に発刊されたことを示している)
3)「天気予報及暴風警報規則」 中央気象台告示第123号(明治36年1月)
4)『検証 戦争と気象』 半澤正男 (銀河出版、1993年)46p
5)「天気図」 中央気象台 明治三十八年五月二十六日印刷発行分
6) 同 上
7)「明治三十八年五月天気図」 海上自衛隊佐世保史料館所蔵
8)『岡田武松伝』 須田瀧雄 (岩波書店、1968年刊)38p
9)「天気図」中央気象台 明治三十八年五月二十七日、二十八日印刷発行分
10) 同上 明治三十八年五月二十七日印刷発行分
11)「極東天気図(Ⅱ)」 海上自衛隊第1術科学校気象海洋科所蔵
12)『もうひとつの日露戦争』 コンスタンチン・サルキソフ 鈴木康雄訳
(朝日新聞出版社、2009年刊)192p
13) 『日本海海戦』 ノエル・F・ブッシュ著 川口正吉訳 (サンケイ新聞社出版局、1972年刊)201p

参考資料・参考文献

・「天気図(明治三十八年五月の部)」 中央気象台印刷発行
・「戦艦三笠戦時日誌(38年5月26日・27日・28日の項)」 防衛省防衛研究所所蔵 
・「龍田戦時日誌(38年5月27日・28日の項)」 防衛省防衛研究所所蔵 
・「臺中丸戦時日誌(38年5月27日の項)」 防衛省防衛研究所所蔵
・「信濃丸戦時日誌(38年5月27日の項)」 防衛省防衛研究所所蔵
・「佐渡丸戦時日誌(38年5月27日・28日の項)」 防衛省防衛研究所所蔵 
・「日露海戦記」 佐世保海軍勲功表彰会編 (佐世保海軍勲功表彰会、1906年刊)
・「東京中央電信局沿革誌」 (東京中央電信局、1931年刊)
・「海底線百年の歩み」 電気通信協会編 (日本電信電話公社・海底線施設事務所、 1971年刊) 
・「気象百年史」(気象庁、1975年刊)
・「気象大学史(Ⅱ)―創立75周年記念―」 (気象大学校、1997年刊)
・「東郷」(8-5号、12-10号、16-7・8号他) 東郷神社・東郷会
・『撃滅』 小笠原長生 (実業之日本社、1930年刊)
・『気象学・改稿版(上下巻)』 岡田武松 (岩波書店、1935年刊)
・『日本海大海戦史』 軍令部編纂 (内局印刷局、1935年刊)
・『日本気象学史』 荒川秀俊 (河出書房、1941年刊)
・『海将荒井郁之助』 福永恭助 (森北書店、1943年刊)
・『戦争と気象』 荒川秀俊 (岩波書店、1944年刊)
・『天気図の指針』 田原寿一 (気象協会、1961年刊)
・『てれがらふ』 電信百年記念刊行会編 (通信協会、1970年刊)
・『海洋と気象』 富永政英 (共立出版、1970年刊)
・『空白の天気図』 柳田邦男 (新潮社、1981年刊)
・『軍艦開陽丸物語』 脇 哲 (新人物往来社、1990年刊)
・『図説 東郷平八郎』 田中健一、氷室千春編 (東郷神社・東郷会、1993年刊)
・『幕府軍艦「回天」始末』 吉村昭 (文藝春秋、1993年刊)

・『天気図の不思議がわかる本』 嶋村克、山内豊太郎 (廣済堂出版、2002年刊)
・『箱館戦争』 加藤貞仁 (無明出版、2004年刊)
・『幕末とうほく余話』 加藤貞仁 (無明出版、2006年刊)
・『天気予報のつくりかた』 伊東譲司 (東京堂出版、2007年刊)
・『天気図がわかる』 三浦郁夫 (技術評論社、2008年刊)
・『気象ガイドブック』 気象庁編 (気象業務支援センター、2009年刊)