5月27日の天気図(2)

元海将補伊藤和雄氏の論文「5月27日の天気図」を配信します。
本稿は兵術同好会誌「波濤」通巻207号(2010.3)、208号(2010.5)に掲載されたものに一部加筆されたものです。

著者 伊藤和雄元将補の紹介

昭和22年 北海道札幌生
昭和45年 防衛大学校卒(14期)
海上自衛隊入隊(幹候21期)
主として水上艦艇部隊で勤務
ゆうぐも艦長、余市防備隊司令
第36・第62護衛隊司令
幹部学校第1研究室長
幹部候補生学校副校長を経て
平成15年 退官(海将補)
現在(株)NTTデータ 嘱託

2 日本海海戦時の天気予報体制

測候箇所

 明治20年、気象台測候所条例が発布になり、51箇所の地方測候所の位置が定められた。
この時点では、28箇所の測候所が既に開設しており、その後も逐次開設し、日露戦争開始時点では50箇所までになっていた。
条例発布の前年、我が国の天気予報体制の強化を促す海難事件があった。巡洋艦「畝傍」消息不明事件である。

「畝傍」は、清国が保有していた世界でもトップクラスの新鋭艦「定遠」、「鎮遠」に対抗するため、我が国が海軍省の1年分の予算に匹敵する巨費を投じ、フランスに発注して建造した艦である。
就役し、日本へ回航中、シンガポールを出港した後、消息を絶った。
南シナ海で暴風雨に遭遇したのは確認されている。海軍当局をはじめ国全体が大きな衝撃を受け、悲しみに包まれた。我が国の天気予報体制の充実強化が喫緊の課題となった。

中央気象台は、地方測候所の出張所的位置付けで、役場などにも観測所を設け、灯台での気象観測体制も強化した。富士山山頂における高山観測も、一時的な観測は、明治13年以降何回か経験しているものの、明治28年からは夏季限定ではあるが、常続的に実施するようになった。
海軍は、明治21年、これまで独自で実施していた気象観測を廃し、気象業務の扱いを中央気象台に一局化した。
明治27年には、「海軍望楼条例」を発布し、これに基づき、全国の沿岸要地に望楼(見張り所)を設置した。

日本海海戦時は、仮設も含めると200箇所以上の望楼があった。
望楼の主たる役割は沿岸の監視であるが、平時は気象観測も兼ねていた。
幾つかの望楼には、電信線、海底ケーブルが引き込まれ、日露開戦直前に開発された無線電信機を装備した望楼もあった。 一部の望楼からは、気象電報を中央気象台にも送っていた。

海軍は、学校教育に気象学を取り入れるのも早かった。
明治29年の時点では、海軍大学校、海軍兵学校に既に気象学の講座があった。
この時、海軍の他に気象学の講座があったのは、農科大学、商船学校、大日本水産伝習所である。陸軍では、学校には気象学科がなかったが、参謀本部陸地測量部修技所で気象学を教えている2)。
開戦当時、各地の測候所は、台湾など一部を除き各府県の所管であり、中央気象台が組織として全国の測候所を統轄していたのではない。
朝鮮、清国においては、一部の領事館、電報局、税関などにも観測器材を設置し、測候業務を託していた。

明治37年2月、日露戦争が始まると清国、満州、朝鮮における測候が急務となった。
北半球中緯度に位置する地域の天候は、西から東へ移動する。戦闘域の天気を予想するには、同方面における観測データの入手が必須であった。
同年3月、勅令により中央気象台付属の臨時測候所の設置を決めた。
朝鮮では、釜山、仁川、元山、木浦、龍岩浦、城津に臨時測候所を設けた。
清国では、芝罘、天津、杭州、南京、漢口、沙市の観測所に臨時観測技手を派遣するとともに戦局に合わせ、大連、営口、奉天、旅順に臨時測候所(観測所)を設けた。
香港、上海、廈門との気象通報の交換は従来どおり行われていた。
台湾には、明治28年、我が国の領土に編入以来、既に台北、澎湖島、恒春、台中、台南、台東に測候所が設置されていた。
海戦時、中央気象台に観測データを送っていた観測所の数は、観測データを公開しない戦闘域の観測所を除き、朝鮮6箇所、清国10箇所、国内は台湾も含め94箇所である。
ちなみに、現在、我が国には約160箇所の気象台、測候所、観測所があり、アメダスによる降雨量の自動観測を行うのは1,300箇所、この内約850箇所で、気温、風向・風速、日照時間を観測している。

天気予報文の作成と配布

 各観測点での測候時刻は、場所により異なるが、大きな測候所では毎時測候しており、小さな観測所では1日3回の所もある。
中央気象台へ気象電報により報告を要する測候時刻は、午前6時、午後2時及び午後10時の8時間間隔、1日3回である。中央気象台は測候時刻に合わせ、1日3回天気図を作成した。

当時は、今日のように予想天気図は作成していない。 天気図の作成は実況のみである。
予報の基となる天気図は、午前6時の観測データで作成した天気図である。予報の時間的範囲は、測候時刻から12時間を経た、当日の午後6時から24時間である。
気象電報による報告とは別に、各測候所で観測された記録は、1ヶ月単位でまとめられ、中央気象台へ郵送されていた。

当時の予報手段は、気象学としては、未だ確立していなかったため論理的手法ではなく、主として経験的、統計的な手法であった。
すなわち、過去のデータから統計的に類推する、あるいは作成した天気図と過去に作成した天気図の中から類似した天気図を選び、該当する天気図から、その後天気がどのように推移したかを調べ、予報の参考とした。
天気概況文は、通信費消時の短縮も考慮し、濁点のない100文字程度の内容である。

明治29年に大日本気象学会から発刊された『気象集誌(第15年第6号)』に、各国の天気予報の成績が掲載されている。これによると、天気予報的中率は、イギリス83%、ロシア74%で、我が国は81%となっている。
算出根拠が不明で、的中の数値が高過ぎるような気もするが、外国からも情報を集め、天気予報の向上に努力していた様子はうかがえる。

明治36年1月、気象区の数を従来の7から10に変更した。東京については、気象区とは別に東京地区として予報した。改正された気象区は、表2-1のとおりである。

表2-1 気象区3)

気象区
地域区分
該当地域
第1区 南西諸島 其1:台湾、澎湖島、先島群島
其2:沖縄群島、奄美群島
第2区 西海道及南海道の南部地方 其1:薩摩、肥後、大隈、日向
其2:土佐、阿波、紀伊
第3区 内海地方 其1:豊後、周防、伊予、安芸、備後
其2:備中、讃岐、備前、美作、播磨、淡路、摂津、丹波、和泉、河内、山城、大和、伊賀
第4区 九州北部及び山陰地方 其1:肥前、筑後、筑前、豊前、壱岐、対馬、長門、石見、隠岐
其2:出雲、伯耆、因幡、但馬、丹後
第5区 東海地方 其1:伊勢、志摩、尾張、美濃、三河、遠江
其2:駿河、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総
第6区 東山道西部地方 其1:飛騨、信濃、甲斐
其2:上野、下野、岩代
第7区 北陸道地方 其1:近江、若狭、越前、加賀、能登、越中
其2:越後、佐渡、羽前、羽後
第8区 東山道東部地方 其1:常陸、磐城
其2:陸前、陸中
第9区 北海道西部地方 其1:陸奥、渡島、胆振、日高
其2:後志、石狩、天塩
第10区 北海道東部地方 其1:十勝、釧路
其2:根室、北見、千島
東京 東京 東京

 戦場となっている朝鮮・満州方面の天気予報は公表せず大本営を通じて行われた。
戦闘域の気象については、適宜、可能な限り詳細な気象通報を大本営に送ることとされ、聯合艦隊司令部への気象通報は、大本営海軍軍令部から送られていた。
同時に、中央気象台からの気象通報は、陸軍の宇品碇泊場司令部及び同司令部門司出張所へも地方測候所を通じて送られていた。

気象電報の通信費消時

 各地の観測点で測候してから、中央気象台が解析を終わるまでの所要時間について考えてみたい。
当時、電信の通信速度は、1分間24文字程度である。電報処理の緊急度区分は、「大至急」、「至急」及び「不急」の3段階に分かれていたが、気象電報の取り扱いは、「至急」であった。

中央気象台は国内の各測候所に対し、測候時刻から30分以内で観測データを送信するよう指導・要望していた。 国内の測候所から中央気象台までの通信費消時は、北海道、九州の遠隔地からでも60分以内である。
国外からの観測データは、気象電報により海底ケーブルと国内の通信網を介して集められる。清国、朝鮮からの気象電報の通信費消時は約2時間である。
ただし、回線の制限から、複数の観測点から入電される観測データは同時には受信できない。

したがって、中央気象台に全てのデータが揃うのは、測候時刻から3、4時間以上はかかったのではないだろうか。実況天気図を作成し、解析が終わり、天気概況文と天気予報文を書き上げるには更に1、2時間以上を必要としたものと思われる。このあたりは、検証できる記録がなく推定である。
次に、中央気象台から鎮海湾に碇泊している聯合艦隊旗艦戦艦「三笠」への気象通報伝達経路と通信費消時について考えてみたい。

当時中央気象台は、皇居内本丸跡にあり、軍令部のある海軍省の建物は霞ヶ関にあった。
それぞれの電信室は、東京中央電信局経由で全国の通信網とつながっていた。
軍令部から「三笠」宛ての電報は、陸上通信網と海底ケーブルを介し、数箇所の中継所を経て、鎮海湾南側の巨済島に仮設した松(しょう)眞(しん)軍用電報取扱所へ送られた。

鎮海湾にブイ係留し、「三笠」宛ての電報を取り扱っていたのは聯合艦隊直属の特務艦隊旗艦「臺中丸」である。
「臺中丸」には、海底ケーブルが取り込まれ、松(しょう)眞(しん)軍用電報取扱所とつながっていた。
したがって、軍令部のある海軍省の電信室と「臺中丸」までは、すべて有線の通信回線である。「臺中丸」と「三笠」間の電報送受は、「臺中丸」付属の郵便船「千鳥丸」を通じて「手渡し」で行われていた。

海軍省・電信室と松眞軍用電報取扱所間の通信費消時は、実績値で1時間20分前後である。したがって、中央気象台から天気概況と天気予報文を軍令部経由で鎮海湾碇泊の旗艦「三笠」へ送る場合、通信費消時は、最短でも3時間程度と推定する。
なお、海戦時、無線電信機は開発されて間もなく、洋上の艦船に対し、無線電信を使った天気予報の直接配布は行われていない。 商船を含む艦艇に対する、無線電信による気象電報の発受が制度化されたのは、日露戦争後の明治43年である。

予報官

 明治18年から東京気象台の予報課長の配置にあったのは、和田雄治である。
4年間勤めた後、気象学の研究のためフランス留学し、明治24年、東京気象台から改称された中央気象台の予報課長として復職した。
和田は、漂流瓶(びん)による日本近海の海流調査を提案したことでも知られている。
この提案には、大海に瓶を流すなど幼稚で無駄な調査であると反対する者もいたが、明治27年5月、実行に移された。
最初の放流は、千島へ向かう船に委託され、野島崎から千島に至る間で、31点、各10本、計310本投入され、19本が回収されている。我が国における表面海流調査の嚆矢である。

明治37年2月、開戦になると、和田は臨時測候所の設置も担当し、戦闘地域である朝鮮に出向く。
3月に木浦、4月には釜山、仁川、元山に測候所を設け、5月には、交戦中の砲弾の下で鴨緑江河口の龍岩浦に測候所を設ける。
同年8月、和田は自ら希望、率先し、前線である朝鮮・満州方面の測候所の統括を兼ね、朝鮮・仁川の測候所長に転出する。満州方面では、8月、大連、栄口に、翌明治38年4月、奉天に測候所を設け、5月には旅順に大連の出張所(観測所)を設けた。

和田は、日露戦争後も朝鮮に残り、後に朝鮮総督府観測所長となる。
在任中、韓国における気象観測体制の基礎を築くとともに朝鮮古代の気象観測記録や測器を調査し、朝鮮文化を世界に紹介するなど多くの功績を残した。長逝後、生前の偉業が称えられ、仁川測候所庭内に胸像が建立されていたが、先の大戦後撤去された。

和田の後を引き継いだのが岡田武松である。弱冠31歳、中央気象台に勤めて6年目である。
入台以来予報業務を担当し、予報官としては、既にベテランの域にあった。
日本海海戦当日の予報文は、岡田自ら書いた。

岡田は、我が国の近代気象学の基礎を築いた人物として多くの関係者が認めるところである。
岡田が気象へ志を固めた動機は、幼年時代に多発した海難事件であった。
この時代、前述した巡洋艦「畝傍」消息不明事件(明治19年)の他に、英国汽船「ノルマントン号」沈没事件(明治19年)、トルコ軍艦「エルトゥールル号」沈没事件(明治23年)など衝撃的な海難事件が相次いだ。

「ノルマントン号」事件とは、潮岬沖で遭難し、白人の乗員は脱出したが日本人全員を含むアジア人乗客・乗員が死亡した事件であり、「エルトゥールル号」事件とは、和歌山県串本沖で遭難し、多くの乗員が死亡したものの、地元住人が危険を冒し、69名の乗員を救助したため、後にトルコと我が国の友好関係の起点として記憶される事件である。

岡田は、日露戦争後、世界に先駆けて船舶との無線による気象通報の送受体制を築き、神戸に海洋気象台を創設し、また、測候技術官養成所を設立するなど幾多の業績を残している。後に、全国の測候所を中央気象台の所属としたのも岡田の尽力である。
発表した著書、論文も多く、大正13年には、英王立気象学会から気象学の発展に功績のあった者に贈られる「サイモンズ賞」を受賞している。

艦船における気象観測

 海軍創設当時の艦船における気象観測について若干触れてみたい。
我が国最初の洋式軍艦は、安政2(1855)年、オランダから幕府に献上された「観光丸」である。外輪型蒸気船で、1853年にオランダで建造された中古船(オランダ名「スームビング」)である。幕府が、洋式海軍の創設を目指し開設された長崎海軍伝習所の練習船として使われた。

初代中央気象台長荒井は、『気象集誌(第7年第10号、明治21年刊)』に、次のように述べている。
「観光丸には、気象観測器材として、水銀晴雨計、空盒晴雨計、寒暖計、乾湿計を搭載していた。オランダ人教官による伝習所での講習内容には、これら気象観測器材を使った観察要領、観測記録の記注要領などもあったが、学ぶ側としては、風帆の運用、機関の運転の方に主な関心があり、晴雨計の較正要領までは理解していなかった」

晴雨計(気圧計)には、温度と高度による較正が必要なのは知られているとおりである。
また、「晴雨計が著しく降下するのを見ると、暴風雨の到来を予想し、航海中は港湾に避泊し、碇泊中は錨鎖を伸ばすなど荒天に備えた」との記述もあり、その活用についての知識は備えていた。

「観光丸」に気象観測器材が搭載されていたのであれば、その後外国に発注して建造していた艦船には、当然、晴雨計、寒暖計など何らかの観測器材は搭載していたと思われる。
日本海海戦に参加した聨合艦隊の各艦船は晴雨計、寒暖計を搭載しており、戦時日誌に晴雨計、寒暖計の示度を記載している艦船もある。
また、捕獲したバルチック艦隊の各艦船にも晴雨計が搭載されているのは確認されている。ロジュストウェンスキー司令長官は、自ら頻繁に晴雨計を観察していたと言われている4)。

幕末から明治にかけての天気予報の手段は、「観天(かんてん)望(ぼう)気(き)の法」と言われているものである。
すなわち、夕焼け、朝焼けの色とか、雲の形、山頂にかかる雲の具合で天気の良否を知るとか、魚が高く跳びあがると天気が悪くなる、低いと晴れといった類(たぐい)である。

それが、開国してから僅かな期間で、測候を始め、気象台を設立し、アジアで初めての天気図を作成し、天気予報の体制を築いた。海戦時には、100箇所以上の観測点から観測データを集め、戦闘域での天気を予測し、気象電報を関係部隊に配布した。
我が国は、欧米が長い歴史を経て築いた天気予報体制と遜色ない体制を、その何分の1かの短い期間で整え、日本海海戦を迎えた。

3 五月二十七日の天気予報

 中央気象台の岡田予報課長が、海戦が予想される朝鮮(対馬)海峡付近における5月27日の天気予報の基としたのは、26日午前6時の天気図である。
前述したように、中央気象台が電報により報告を求めた観測データの測候時刻は、午前6時、午後2時及び午後10時の1日3回である。
測候毎に天気図は作成していたが、予報については、午前6時の測候結果をもって、当日12時間後の午後6時から24時間の天気を予報していた。
すなわち、25日の午後2時、午後10時及び26日午前6時の観測データから、26日午後6時から翌27日午後6時までの天気を予報した。

ただし、戦闘域の予報については、必要の都度大本営へ通報することとされていたため、26日午前6時以降に入電された観測データにより、予報を修正した可能性もあるが、岡田が予報の基としたのは、あくまで26日午前6時の天気図である。
なお、清国の外国観測機関、我が国領事館などからの観測データの入電は、午後2時及び午前6時測候の1日2回である。
海戦があった海域に近い観測点から、朝鮮の木浦、釜山、五島列島の大瀬崎、壱岐の壱岐崎、対馬の厳原、下関及び浜田の7箇所を抽出し、それら測候所における予報の基となった上記3回の測候時刻の観測データを、表3-1に示す。

表3-1 観測データ(その1)5)

測 候 所
気 圧
風 向 ・ 風 力
天 気

25日
1400

25日
2200
26日
0600
25日
1400
25日
2200
26日
0600
25日
1400
25日
2200
26日
0600
木浦
754.4
752.8
750.3
N1
S2
S3
釜山
754.6
753.6
750.2
SE2
SW3
 
大瀬崎
755.3
752.8
749.0
S2
S3
N4
壱岐崎
754.5
753.1
748.8
NW1
S1
E4
厳原
754.3
753.1
749.6
NE1
SW3
下関
754.9
754.0
751.5
E3
E3
E4
浜田
752.4
752.2
753.2
SW5
S4
SW5

注1:気圧の単位は、水銀柱ミリメートル(mmHg)
(1気圧=760mmHg?1,013ミリバール(mb)=1,013ヘクトパスカル(hPa))
注2:風力の単位は、簡略7段階ビューフォート風力階級による。(風力0 (無風 0~1.5m/s),
1 (軟風1.5~3.5), 2 (和風3.5~6), 3 (疾風6~10), 4 (強風10~15),
5 (暴風15~29),6 (颶(ぐ)風29 以上))

上記測候所の内、朝鮮の2箇所を除き、残りの5箇所は、いずれも気象区第4区に該当する。第4区は、五島列島から北九州、対馬、壱岐を含みに西日本日本海側の地域である。
気象台は、25日2330、第4区に対し暴風警報(海上風雨警戒)を発令した。 表3-1中の第4区各地の観測結果からも、25日夜半から風が強くなっているのがわかる。

図3-1 五月二十六日午前六時の天気図6)

『戦艦三笠戦時日誌』中、26日天気の項には、「晴(正午)午前少雨 午前区々ノ風力零至三 午後西風力四 」と記載されている。また、実施作業の項には、「午前十一時二十五分  天候険悪ノ兆アルヲ以テ右舷錨鎖ヲ七節ニ延シ左舷錨ヲ用意ス」とある。「三笠」は、この日は終日、鎮海湾錨泊中であった。荒天に備え、錨鎖を伸ばしている。図3-1は、5月26日午前6時の実況天気図である。

気象台が発表した26日午前6時における天気概況及び26日午後6時から24時間の天気予報は次のとおりである。

天気概況

 「低気圧九州ノ西部及ヒ大連付近ニ在リ何レモ概ネ深厚ナルヲ以テ本州西部及ビ朝鮮北部ハ風雨ヲ起コシ其他ノ地方ハ概ネ曇天トナレリ然レドモ北海道ハ天気晴朗ナリ気温ハ本州ノ北部ニ下降シ其他ニハ概ネ上昇シタリ而シテ平年ニ比スレハ全国概ネ高度ヲ示セリ
今朝気温ノ最モ高リシハ恒春ノ二十五度ニシテ最モ低カリシハ紗那ノ四度ナリ(注:恒春は台湾、紗那(しゃな)はエトロフ島にある)」

天気予報
第1区:北ノ風概ネ晴但シ雨模様ノ所アリ
第2区、第3区、第4区:北又ハ西ノ風概ネ曇リ後チ晴
第5区、第6区、第7区、第8区:南ノ風概ネ雨後チ曇
第9区、第10区:北又ハ東ノ風概ネ曇後チ雨
東京:南ノ風雨後チ曇
現在の天気予報からみれば、かなり大雑把な内容である。

中心示度748mmHg(997ヘクトパスカル)の低気圧が九州西方海上に、742mmHg(989ヘクトパスカル)のかなり優勢な低気圧が遼東半島付近にあり、九州方面から朝鮮半島、遼東半島付近にかけて雨が降っていた。

26日午前6時に雨量を観測した測候所の過去8時間の雨量は、木浦2ミリ、大瀬崎4ミリ、壱岐崎21ミリ、厳原5ミリである。

遼東半島付近の低気圧は、日本海を発達しつつ東又は東北東へ進み、26日夜半には低気圧の中心部は北海道西部へ達するとみられた。
九州近海にあった低気圧は、本邦南岸を約25ノットで東行、速力を増し27日朝には関東南へ達するとみられた。

岡田は、遼東半島付近にあった低気圧の東行に伴い、雨域は次第に東へ移動し、27日に日付が変わる頃には予想戦闘海域である朝鮮海峡付近の天気は回復するとみた。

日本近海の低気圧の通性として、低気圧通過後天気はよくなるが、風力は急に加わり、西寄りの風となるのが普通である。 岡田は、このあたりは経験的に知っていた。
また、朝鮮海峡では、その地理的特性から気流の収束が顕著にみられ、海峡部の風速は一層強化され、強風が連吹(れんすい)するとみていた。

岡田は、天気図を作成した後、これらの解析結果を踏まえ朝鮮海峡付近における天気概況と予報文を書いた7)。
「本部(ママ)ノ気圧ハ増加ヲ示シ 七百四十五粍ノ低圧部ハ日本海北部ニアリテ漸次北東ニ進ム アス朝鮮方面ノ日本海側沿岸ハ南西ノ強風又ハ烈風吹ク」、そして、予報文の最後に書き下した、「天気晴朗ナルモ浪高カルヘシ」と。
後に、岡田は、「海戦は明日か明後日かという時期であったため、データと過去6年の経験を基に、実に苦労して翌27日の天気を予報した」と語っている8)。

4 五月二十七日の天気図

 「信濃丸」が敵艦隊を発見したのが、27日0245、本格的海戦が開始された時刻は、27日1408、バルチック艦隊の聯合艦隊に対する砲撃により海戦の火蓋が切られた。
前項で抽出した7箇所の測候所における26日午後10時、27日午前6時及び27日午後2時の観測データは、表4-1のとおりである。

表4-1 観測データ(その2)5)

測 候 所
気 圧
風 向 ・ 風 力
天 気

26日
2200

27日
0600
27日
1400
26日
2200
27日
0600
27日
1400
26日
2200
27日
0600
27日
1400
木浦
753.7
753.6
755.2
W3
W3
W3
快晴
快晴
快晴
釜山
756.9
751.5
752.2
SW4
SW4
SW4 
快晴
快晴
快晴
大瀬崎
756.8
755.9
757.6
N1
S3
S3
快晴
快晴
壱岐崎
753.7
754.2
755.2
W4
SW3
W4
快晴
快晴
厳原
753.8
753.8
754.7
SW4
SW4
W4
快晴
快晴
快晴
下関
754.7
754.6
755.0
W3
SW3
NW4
快晴
浜田
752.4
752.2
753.2
SW5
S4
SW5
快晴
快晴
快晴

図4-1 五月二十七日午前六時の天気図10)

気温は、27日0600の観測で、大瀬崎16.4度、壱岐崎18.0度、浜田17.4度であり、27日1400の観測で、大瀬崎21.6度、壱岐崎20.2度、浜田22.1度である。若干低めではあるが、ほぼ平年値の気温である。
図4-1は、5月27日午前6時の実況天気図である。

同じく午前6時における天気概況は次のとおりである。

天気概況

「低気圧ハ太平洋ニ沿ツテ東北東ニ進行シ現ニ房総沖ニ在リ而シテ昨日午後山陰道中部ニ発達セシ低気圧ハ北東ニ進行シ現ニ北海道南東部ノ沖ニ在リ又満州ニ在リシ低気圧ハ北東ニ徐行シツツアルモノノ如シ  昨日ハ本邦及ヒ韓国ハ概シテ天気不良ナリシガ西部ハ昨夜来天気回復シテ快晴トナレリ然レドモ東北地方及ヒ北海道ニテハ風雨ヤヤ強シ 気温ハ西部ニ低落シタル外ハ概ネ上昇シ平年ニ比スレハ概シテ高度ヲ示セリ」

なお、25日2330から第4区に発令中であった暴風警報は、27日0815解除している。

『戦艦三笠戦時日誌』中、「戦闘詳報」の27日天候欄の記載は次のとおりである。
「天候晴ナレトモ濛気海面ニ停滞シテ展望約五、六海里、風向ハ終始西南西ニシテ風力四及至五 波浪ノ方向モ西南西ニシテ其高サ四及至五 艦体ノ動揺ヤヤ甚シクシテ是レニ反航スルトキハ激浪ノ飛沫常ニ前甲板ヲ洗ヒタリ  夕刻前濛気漸ク減退シ風勢モ少シク衰ヘテ力三内外トナリ 従テ波浪ノ高サモイササカ減シタリシカ波長ハ却テ増大セリ」
また、同詳報の運動欄から天候に関係する箇所を抜粋すると、「午後一時三十九分、遂ニ南西ニ当タリ幽(かす)カニ敵艦隊ヲ認ム 濛気ノ為其隊形並ニ進行方向判明ナラズ、同四十分北西微北ニ変針シテ敵艦隊ノ風上側ニ位置セントス」、「一時五十七分、敵艦隊ヲ南微西約一万米ニ見ル  其ノ陣形ハ濛気ノ為メ判然セサレトモ…」とある。

参戦各艦の戦時日誌などに、27日の天気(視程)を表す言葉として「濛気」の表現が頻繁に使われている。
濛気とは何か。朝鮮海峡付近には対馬暖流が流れており、海水温度は比較的暖かい。
この暖かい水面に低圧部が過ぎた後、大陸から乾燥した冷たい空気が流れ込み、海面から蒸気が発生し、水蒸気の補給によってできる蒸発霧が濛気の正体である。特に降雨の後、発生しやすい。蒸発霧は海面付近の低い層で発生し、その上層は晴れている場合が多い。

第4区内では、京都府・経ヶ崎測候所で、26日2200に霧を観測しているが、他の陸域の観測点では、霧は観測していない。
この時の濛気は海上における現象である。一般に、蒸発霧は気温の上昇とともに解消していく。
現在は、霧の定義を、視程1キロメートル未満としており、やはり27日全体の視界を表現する言葉としては、濛気が適当と思われる。

当時、天気予報文の内容に、天気の種別として「霧」はあったが、視程に関する要素がなかったためか、岡田は、この濛気については触れていないが、27日、朝鮮海峡付近における天気は快晴で、強風が吹き、浪は高かった。
まさに「天気晴朗ナルモ浪高カルヘシ」であった。戦後、岡田は日露戦争の功により、当時文官としては珍しい勲六等を賜った。
観測データさえあれば、今日の気象学の解析理論で、過去にさかのぼって天気図を作成することができる。
参考のため、5月27日午前6時の観測データから、昭和30年代(推定)の解析手法で作成した天気図を、図4-2に示す。

図4-2 近代的解析手法で作成した五月
二十七日午前六時の天気図11)

 日本海にある低気圧は、前線でつながっている。海戦当時の気象理論には前線の概念はなかった。
岡田の作成した天気図と比較しても、概ね合致しているとみてもいいのではないだろうか。