5月27日の天気図(1)

今回から3回に分けて元海将補伊藤和雄氏の論文「5月27日の天気図」を配信します。
本稿は兵術同好会誌「波濤」通巻207号(2010.3)、208号(2010.5)に掲載されたものに一部加筆されたものです。

著者 伊藤和雄元将補の紹介

昭和22年 北海道札幌生
昭和45年 防衛大学校卒(14期)
海上自衛隊入隊(幹候21期)
主として水上艦艇部隊で勤務
ゆうぐも艦長、余市防備隊司令
第36・第62護衛隊司令
幹部学校第1研究室長
幹部候補生学校副校長を経て
平成15年 退官(海将補)
現在(株)NTTデータ 嘱託

五月二十七日の天気図
平成22年5月27日
伊 藤 和 雄

目 次

はじめに

1 我が国気象業務の生い立ち
気象と戦争
黎明期の気象業務
海軍における気象観測
気象と電信
幕臣の功績

2 日本海海戦時の天気予報体制
測候箇所
天気予報文の作成と配布
気象電報の通信費消時
予報官
艦船における気象観測

3 五月二十七日の天気予報

4 五月二十七日の天気図

5 気象が海戦に及ぼした影響
二十七日朝
二十七日昼
二十七日夜
二十八日

おわりに


参考資料・参考文献

はじめに

 「五月二十七日の天気図」とは、もちろん明治38年、日露戦争の勝敗を決した日本海海戦当日の天気図である。
哨艦「信濃丸」からバルチック艦隊発見の報を受けて、朝鮮・鎮海湾で待機していた聨合艦隊が出撃に際し、大本営海軍軍令部長へ発電した、「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直ニ出動コレヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の電文は、あまりにも有名である。
聨合艦隊司令部の飯田参謀が起案し、秋山真之先任参謀が後文を書き添えたものとされている。

秋山が加筆した、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、中央気象台から、軍令部経由で聯合艦隊司令部あて送られた、五月二十七日の天気予報文の中にあった、「天気晴朗ナルモ浪高カルヘシ」とほぼ同じ文言である。

本稿では、我が国の気象業務の生い立ちをたどりながら、当時の天気予報の体制について、また、五月二十七日の天気予報と実際の天気を比較しつつ、気象が海戦に与えた影響などについて振り返ってみたいと思う。

1 我が国気象業務の生い立ち

気象と戦争

 歴史上、気象が戦争の帰趨を左右した事例は数多い。
中国後漢末期三国時代の史書「三国志」に記(しる)されている、「赤壁(せきへき)の戦い」では、気象が勝敗を分けた。
諸葛孔明を軍師とする孫権・劉備の連合軍と曹操軍とが長江の赤壁で対峙した時の戦いで、連合軍が曹操軍側へ向けて吹く強風を利用し、油が注がれた枯柴に火を放った船を敵の陣営へ進め、敵船団を延焼させる計略により勝利を収めた。

 我が国では、何と言っても有名なのが2度にわたる「元寇」である。
文永の役(1274年)では、蒙古・漢・高麗などの元軍が鎌倉幕府軍と博多で戦い、劣勢の幕府軍は一時大宰府まで押し込まれたが、日没になり、元軍が再編成のため博多湾上の船に戻ったところ、その夜襲った強風のため、元軍の船が壊滅し、元軍は日本侵攻を断念した。

弘安の役(1281年)では、元軍は、東路軍(蒙古・高麗軍)と江南軍(南宋軍)の二手に分け、計14万の大軍で、博多沿岸を襲った。しかし、これも台風に襲われ、元軍は壊滅し、撤退した。両役とも、いわゆる「神風」が吹き、蒙古来襲を阻止したのである。
これら戦闘場面における象徴的事例だけではなく、戦争を取り巻くあらゆる場面、あらゆる環境で気象が影響しているのは言うまでもない。

黎明期の気象業務

 我が国測候(気象観測)の嚆矢(こうし)と言うべきものは、長崎出島に在留していたオランダ人によるものである。
弘化2(1845)年から約10年間、毎日時刻を定めて晴雨計(気圧計)及び寒暖計(温度計)により測候していたとの記録がある。その後、幕末から明治にかけて在留外国人による測候の記録が幾つか残されている。
函館では、安政6(1859)年から2年間、ロシア領事館の医師アルブラケットが、気温、雨雪日数の観測記録を残している。

 イギリス人ブラキストンは、元治元(1864)年から約8年間、事業のため函館に在留していたが、その間、降雨・降雪量を観測しており、慶応4(1868)年からは、気圧、気温の観測も行っている。
彼は、「津軽海峡は、動植物の分布境界線(ブラキストン線)である」と提唱したことでも知られている。
ブラキストン一時帰国後の明治5年、北海道開拓使函館出張所が彼の残した測器(気象観測器材)を利用して測候のために設立したのが、「函館気候測量所」である。
残した測器とは、空盒(くうごう)晴雨計、コロメテル乾湿計、ブレミング型雨量計などである。

 北海道開拓使は、その後、開拓使顧問団長のアメリカ人ケプロンの勧めもあり、水銀晴雨計、水銀寒暖計、最高・最低寒暖計などの測器をブラキストンの仲介でイギリスから購入し、測候体制を整えた。
測候の目的は、もちろん予報の為ではなく、北海道における通年にわたる気候を把握し、栽培に適した農作物を選定するなど拓殖のためであった。

 空盒晴雨計とは現在のアネロイド気圧計のことで、真空の金属密閉容器に内蔵されたバネと大気圧の関係で気圧を測定する測器であり、水銀晴雨計とは、水銀層の中に立てたガラス管の水銀柱と大気圧との釣り合い具合で気圧を測定する測器である。
今日も使用されている気圧計と同じ原理である。17世紀に、天候の悪化に先んじて気圧が降下することが発見され、晴雨計は暴風雨予測機器として普及していた。

晴雨計の名称は、昭和25年の「地上気象観測法」改正により、気圧計に呼称変更されるまで永年にわたり使用されてきた。なお、この時の法改正では、同じく寒暖計は温度計に、風信器は風向計に、風力計は風速計に、それぞれ呼称変更されている。

 「測量所」は、後に「測候所」と名を変える。測候の名称については、「気候測量」の略だとする説もあり、「測りて候(そうろう)」の意味だとする説もあるが、定かではない。
現在の函館・金森赤レンガ倉庫群辺りに、日本最初の「気候測量所跡」として碑が残されている。

 明治4年から長崎医学校の化学の教師として来日していたオランダ人ヘルツは、校内に私設の気象観測所を設け、測候していた。
明治6年には、ヘルツは、長崎・上海間に海底電信ケーブル(海底ケーブル)を敷設し、電信事業を営んでいたデンマークの大北電信会社と交渉し、電報により、香港、上海、廈門(アモイ)の気象観測者と観測データの交換を始めている。
交換されたデータは長崎の電信局内に掲示されていた。

大北電信会社は、徳川幕府から交渉を引き継いだ明治政府から長崎での海底ケーブル陸揚権を得て、明治4年には、長崎~上海間及び長崎~ウラジオストク(ウラジオ)間に海底ケーブルを敷設し、国際電信回線を開通させていた。

 我が国として、本格的に測候業務を開始したのは明治8年である。鉄道工事の測量技師として来日していた御雇外国人のイギリス人ジョイネルが、赤坂葵町(現在の港区虎ノ門)にあった官舎に、風力計、寒暖計、雨量計、地震計、晴雨計、オゾン計などの気象観測器材を設置し、毎日3回観測していた。ジョイネルは、観測結果を定期的に横浜の外字新聞社に掲載していた。

観測した場所は、東京気象台と呼ばれるようになった。
東京気象台は、後に中央気象台となり、ジョイネルが観測を開始したと言われる6月1日は、中央気象台の創立記念日になっている。

明治9年、札幌測候所が開設し、以後、逐次各地の測候所が開設していく。
その後、幾度か組織の改編を経て、日本人による観測も組織的に行うようになる。
明治16年には、東京気象台内に工部省(後の逓信省)の電信局(気象台局)が設けられ、各地の観測データを気象電報により直接集められるようになった。

同じ年、東京気象台は天気図の調製(作成)も始めている。
この年に天気図の作成が可能になった大きな理由は、気象電報の取り扱いが1日1回無税(無料)となったこともあり、定期的に観測データを直接入電できるようになったためである。
香港、上海、廈門に加え、マニラ、釜山、ウラジオからも定期的に気象電報が入電されるようになった。
今日のような近代的天気図は、1820年にドイツ人ブランデスが作成したのが世界で最初と言われている。
ヨーロッパ各地からほぼ同時刻に観測されたデータを集め、研究目的で天気図(気圧配置図)を作成した。

 天気図の定期刊行を始めたのはフランスである。
1854年、クリミヤ戦争において、黒海のセバストポリ沖でロシア艦隊と対峙していたフランス・イギリス連合艦隊は、突如襲った暴風雨により大きな損害を被った。
とりわけフランス自慢の最新鋭の戦艦「アンリ四世」の座礁、遭難に衝撃を受けたフランス政府は、天気が急変した理由について徹底的に究明した。
その結果、連続して天気図を作成することにより暴風雨の進路を予想できるとの見通しがたち、気象を専門的に扱う国家機関の必要性が認識された。

 「フランス気象局」が創設され、同局は、1863年から、ヨーロッパ地域の天気図を毎日作成、刊行するようになった。
電信ネットワークの整備と電信機の発達により、短時間で各地の観測データを収集できるようになった背景がある。

アジアで初めて天気図を作成したのは、我が国である。
ただし、この時期、明治16年当時の天気図の解析は、未だ外国人に頼っており、内務省地理局に暴風雨取締掛として雇われていたドイツ人クニッピングによる英語の解析文を翻訳していた。
天気図は、毎日1回印刷し、宮内庁をはじめ、官報により関係官衙(かんが)(役所)に配布していた。新聞社へも提供し、福沢諭吉が主宰していた新聞「時事新報」 も全国の天気実況の掲載を始めている。

当時の天気図は3色刷で、陸が茶、海が青、等圧線、等温線、天気概況は黒であった。
クニッピングが等圧線を引き、絵師が版木を描き、書家が文字を書き、印刷用の石版、銅版も匠が担当した。
天気図作成に携わった人達の、ひたむきな一生懸命さが伝わってくる。


この美しい美術品のような天気図は、諸外国にも郵送され、我が国の気象業務実施体制が欧米に近づきつつあるのを知らしめるとともに諸外国と気象情報を交換するうえでの手助けとなった。

図1-1 創設時の天気図1

図1-1は、創刊当時の天気図例である。天気図は、左右2ページの見開きで、左は「天気図」、右は「天気報告」欄であった。天気報告欄には、各測候所からの観測データと、全国天気概況を和文及び英文の両方で記入し、暴風警報の発表もここに記入された。

記入された観測データの種類は、気圧、風向・風力、気温、前24時間雨量及び天気である。
等圧線は、水銀柱示度一桁目の数字が0又は5の5mmHg間隔を基本として引き、後に等温線も記入している。
この時点では、国内24箇所の測候所が開設しており、電信線が未通であった北海道の根室・留萌測候所の2箇所を除き22箇所の測候所から、気象電報により観測データを集めていた。

 明治17年には、これまでは天気実況のみであったのが、天気予報を始めている。ちなみに最初の予報文は、「Variable winds, changeable, some rain. 翻訳文:全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」である。
この予報文から、どのような天気になるのか想像もできないが、予報を始めたこと自体に意義を認めたい。

京都時(後の中央標準時)の午前6時、午後2時及び午後10時の1日3回、気象電報を集め、天気図を作成し、全国を7つの気象区に分け翌日の天気を予報していた。気象電報は、1日3回無税となった。

海軍における気象観測

 明治4年、当時の兵部省海軍部に水路局が設けられた。
水路局の主要事業4項目の中に、「側天観象」がある。
側天観象とは、天文・気象を一緒にした分野である。

その事業方針として、「一切ハ海員的精神ニ依リ徹頭徹尾外国人ヲ雇用セス自力ヲ以テ外国ノ学術技芸ヲ撰択利用シ改良進歩ヲ期シタリ」とある。これは、初めから、御雇外国人の力に依存した他の官署と大いに異なるところである。
旧幕府の代表格として海軍創設に携わった勝海舟の心意気が感じられる。勝は、明治2年から約半年間、兵部大丞(たいじょう)に、明治5年から約2年間、海軍卿の職に就いている。

明治7年7月、海軍は、気象事業を所掌する水路寮観象台を東京・芝に設置した。
翌年7月にはイギリスから晴雨計、寒暖計、験湿計、乾湿寒暖計、量雨計、験風儀、太陽寒暖計などの観測機材が届き、観測を始めている。この時代、観測器材は全て輸入品に頼っており、国内で簡単な観測器材が製造され始めるのは、明治16年以降である。

その後、しばらくは、内務省地理局が所掌する気象事業とは別個に、海軍水路部独自で気象事業を推し進めることになる。
理由は、我が国全体の気象業務を扱う内務省と海上気象を中心に扱う海軍とでは、事業目的が異なるためであろうか。観象台は、後に長崎、兵庫にも設置される。灯台における気象観測データは、気象台と水路部双方で入手可能であった。

 海軍水路部の気象業務として特筆すべきは、東京気象台に先駆け、国内で初めて気象電報を連続的に取り扱ったことである。
明治14年8月、天皇が北日本巡幸の折、御召艦「扶桑」へ、長崎と東京の気象情報が、連日、1日2回、「天気電報」により届けられた。
また、海軍は、独自で艦艇に対して暴風警報も発令しているが、各地から入電される資料を見たうえでの判定であり、天気図は作成していない。
明治21年、後述する巡洋艦「畝傍」消息不明事件などを契機として、水路部の気象業務を廃止し、気象業務は中央気象台に一局化される。

気象と電信

 気象業務の歩みは、通信事業の歩みそのものである。
通信の進歩が気象業務の進歩にもつながった。 言うまでもなく、幾つかの地で同時に観測したデータが一箇所に集められて、天気図が作成され、天気予報が可能になる。
当時の観測データを送る通信手段は、電信である。電信とは電話などで電報が送れるようになるまでは、電報と同義語である。明治30年代に無線電信が発明されるまで、全て有線の電信である。

我が国は、明治9年には、既に全国主要地域間の陸上通信網を形成していた。
明治10年に生起した西南戦争では、政府軍が、情報交換、指揮命令に電信を最大限に活用したため、これが薩摩軍に勝利した一因となっている。
その後も、各地方が競って自分の地域に電信線(陸線)を引き込もうと政府に働きかけ、電柱などの工事資材や役務を提供していたため、我が国の通信網は急速に整備されていく。

一方、我が国と国外とを結ぶ通信回線も整備されていく。
大北電信会社は、明治4年に開通させていた、長崎~上海間、長崎~ウラジオストク間に加え、対馬~釜山間にも海底ケーブルを敷設して、我が国の国際通信事業を独占していた。ようやく我が国も、明治29年に独自の技術で、鹿児島~台湾間に海底ケーブルを敷設、2年後、台湾~上海間の海底ケーブルを清国から買収し、我が国が管理する初めての国際通信回線が開通した。
通信インフラストラクチャーの整備に伴い電報による気象情報の交換が頻繁になる。

幕臣の功績

 それにしても、気象・通信分野の事業発展に功績のあった者に徳川幕府出身者が多いのには驚く。
功績のあった主な者を挙げる。

明治23年、中央気象台官制が公布され、中央気象台は(明治20年に東京気象台から中央気象台へ改称)内務省地理局から独立した官衙となった。
初代台長に就任したのは、幕府の海軍奉行であった荒井郁之助である。
荒井は、戊辰の役でも榎本武揚の下で海軍(軍艦)奉行の配置にあり、榎本艦隊の中で最後まで残った「回天」艦上で戦った。

戦争終期、箱館湾弁天台場沖の海戦では、「回天」は、被弾して身動きができなくなると浅瀬に乗揚げ「動かぬ砲台」として射撃を続けた。砲弾を打ち尽くした後、荒井達は、抜刀、敵中を突破し、本陣のある五稜郭に入った。まさに荒井達は、最後の戦う武
士の姿である。回天とは、「衰えた勢いを元に戻す」という意味である。
先の大戦で、若い命を散らした回天特攻隊の名前と重ね合わせると悲しい響きがする。

 荒井は、新政府軍の軍門に降(くだ)った後、榎本と共に約2年半獄中生活を送るが、出獄後、北海道開拓使に出仕し、英和対訳辞書の編纂、札幌農学校の創設、測量業務に携わり、明治10年には、当時、測量や気象業務などを所掌していた内務省地理局に奉職した。

本来は、「隕石」に由来する“Meteorology”を「気象」と訳したのは荒井である。
彼の業績で特筆すべきは、全国の三角測量事業を創始したことである。
後に測量事業は陸軍に引き継ぐ。また、明治15年には、気象観測の数値単位を全国で統一するとともに諸外国と気象データを交換するため、メートル法の採用を提言している。ローマ字の採用を主張したのも荒井である。

明治20年には、我が国初めての日食観測を新潟・三条で行い、コロナの写真撮影にも成功した。
国内では、天明6(1786)年以来、100年ぶりの皆既日食であった。
荒井は、日食観測の学術的意義をよく理解していた。コロナの写真とともに詳細な観測記録を各国天文台に送付し、送り先各国から高い評価と賛辞を得ている。
荒井が、台長の配置にあったのは約1年間で、翌明治24年には、後輩の小林一(かず)知(とも)に職を引き継いだ。
荒井は気象台を退官した後も、我が国の近代化に多くの功績を残している。余談ではあるが、功績のひとつを紹介する。

退官後間もない日、浦賀の入り江を見下ろす山に「中島三郎助君招魂碑」が建立され、荒井はこの建碑式に参列した。
中島三郎(さぶろう)助(すけ)は、ペリー来航時の浦賀奉行所与力で、黒船に最初に乗り組んで対応した人物である。
榎本、荒井達と伴に函館戦争を戦い、五稜郭開城の2日前、二人の息子と共に戦死する。
中島父子の戦死した付近は、現在中島町と命名されている。
荒井は、眼下の入り江を見てドック建造を発案、当時政府の要職にあった榎本に提案する。
中島に対する鎮魂の意味があったかも知れない。

ドック建造は、明治30年、浦賀船渠株式会社(通称浦賀ドック、現在閉鎖中)として実現した。同社は、その後、民間造船会社として、海軍工廠の軍艦建造能力を補完し、多くの艦艇を建造する。
これについては後日談がある。
荒井が浦賀の新会社で、同社の造船技術者として雇われていたドイツ人ボーケルと面談した際、思いがけないことを聞かされる。
荒井が座っているのは「回天」の木材で作った椅子だと言うのである。
ボーケルは、以前、函館港の浚渫(しゅんせつ)作業にも従事しており、その時、海中から引き揚げた「回天」の廃材を利用して、記念に椅子を作っていた。
荒井は言葉がなかった。後に、「感慨に堪えざりき」と語っている。

荒井の後を継いだ2代目台長小林も旧幕府海軍出身者である。
小林は、幕府軍所属「咸臨丸」としての最後の艦長である。
明治維新直後、榎本艦隊は、「開陽丸」など8隻の船で蝦夷地(北海道)へ向かうが、途中、鹿島灘で嵐に遭遇した。艦隊の1隻「咸臨丸」は、主隊と離れ伊豆下田まで流され、駿府に転封させられたばかりの徳川家膝元の清水港に逃れた。
「咸臨丸」は、太平洋を横断した時は外輪蒸気船であったが、この時は、老朽化に伴い蒸気機関を取り外し帆走軍艦となっていた。

 小林が駿府(静岡)藩庁へ出かけ船を離れていた時に、船は新政府軍に見つかり捕獲され、船内に残っていた二十余名の部下は一人残らず惨殺された。
小林は戻ったところ捕らわれる。 地元では新政府軍を恐れて、部下の遺体は放置されたままでいた。

新政府軍の考え方では、「天朝に敵対した賊徒の死体を葬るのは罪」だったのである。
これを目(ま)のあたりにした地元、清水の侠客、清水の次郎長こと山本長五郎は、「仏(ほとけ)に官軍も賊軍もない」と言って、新政府軍から咎(とが)められたが、これを振り切り、遺体を収容、埋葬した。
次郎長は、その後小説、講談、浪曲などの主人公として有名になる。
全国から彼の武勇伝を聞きに人々が集まるが、その中の一人に、後に日露戦争における旅順港閉塞隊指揮官として壮絶な戦死と遂げる若き日の広瀬武夫の姿もあった。

明治2年、小林は出獄後、測量に関する知識を買われて新政府に出仕した。
諸官を歴任し、新橋・横浜間の鉄道建設測量などに従事した後、ジョイネルの下で気象観測の助手を勤め、明治10年には、内務省地理局測量課長に就任した。
小林は、明治28年に気象台長を退官するまで、課長、台長時代を通じ、気象関係規則の制定、観測器材の開発改善など多くの業績を残している。

榎本については、その功績を詳述するに及ばないであろう。
旧幕臣を率いて箱館・五稜郭で敗れた後、しばらく獄中生活を送るが、出獄後、新政府に登用される。
駐露全権公使、海軍卿、駐支全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣、初代電気学会会長などを歴任している。中でも逓信大臣として、通信事業に果たした功績は大きい。

榎本は、幕臣としてオランダに留学していた時、下宿に2台のフランス製の電信機を持ち込み、その仕組みを究明していた。
榎本は、留学を終え、幕府がオランダに発注していた「開陽丸」を日本に回航する際、その電信機と電線などの資材を船に積み、日本に持ち込んでいる。
電線の長さは約8里で、東京・横浜間の距離に相当する。
明治2年、東京・横浜間に我が国初めての電信線が架設されるが、その時、この電線が使われた可能性がある。
榎本は、既に留学中から、「江戸・横浜間電信敷設計画」を構想していた。
逓信大臣として、通信インフラ整備に情熱を持って尽力したであろうことは十分うなずける。

気象業務の発展にも尽くし、明治25年には、大日本気象学会の2代目会頭に就任している。
同学会は、明治15年に気象学の学術的発展を目的として設立された東京気象学会が、明治21年に改称されたものである。
初代会頭山田顕(あき)義(よし)の逝去に伴う就任であった。榎本は、諸官退任後も同学会の会頭職は最後まで務めていた。

 榎本の前任者、山田についても若干触れておく。
山田は、長州・松下村塾出身で、函館戦争の時の新政府軍青森口総督府陸海軍参謀である。
榎本軍が攻め落としていた松前城奪回作戦の指揮も執っている。
新政府軍の圧倒的兵力と艦砲射撃が威力を奏し、榎本軍は松前から敗走する。
つまり、榎本は、仇敵であった山田から気象学会の会頭職を引き継いだわけである。

榎本の心境はどうだったのか、想像もつかない。
なお、この時、艦砲射撃に参加した新政府軍の薩摩藩軍艦「春日」に、若き21歳の東郷平八郎が三等士官として乗り組んでいた。
山田は、箱館戦争後、司法大臣など明治政府の要職を務め、日本法律学校(現日本大学)、国学院大学の創立にも尽力している。

我が国最初の測候所である、「函館気候測量所」創設のきっかけを作ったのは、ブラキストンであることは、先に述べたが、このイギリス商人(陸軍大尉、動植物学者、デンマーク領事の肩書きも使い分けている)は、箱館戦争の時は、新政府軍青森口総督府の諜報員でもあった。
総督府から金を与えられ、榎本軍についての情報を集め通報していた。

函館駐在の外国人の間では、どちらの軍にも加担しないとの申し合わせがあったため、榎本軍も気を許していた。
荒井、小林、榎本達が、なぜ気象の分野に情熱を注ぎ、このように多くの業績を残したのであろうか。
8隻の榎本艦隊が、新政府軍に抵抗し北海道を目指す途中、鹿島灘で荒天に遭遇し、「咸臨丸」は前述したように漂流した後、新政府軍に捕獲された。

荒天に遭遇した日は、今の暦に直すと10月6日である。
日本列島を北上する台風に見舞われたものと思われる。
榎本軍戦力の最大の頼みであった最新鋭の大艦「開陽丸」は、新政府軍と戦う前に、北海道・江差沖で嵐のため座礁、沈没する。

 荒井達は、起死回生を期し、新政府軍の艦を捕獲しようと、東北・宮古湾に碇泊中の新政府軍艦隊の襲撃を決意する。
荒井は総指揮官として「回天」に乗り、「蟠(はん)竜(りょう)」と「高雄丸」を伴い3隻で箱館を出航するが、途中濃霧と嵐のため「蟠竜」と逸(はぐ)れ、「高雄丸」も機関故障のため襲撃に参加できず、「回天」単艦での宮古湾突入となった。8隻の新政府軍軍艦に戦いを挑んだが、結局は敗走する。

このように榎本艦隊は、気象に恵まれなかった。榎本艦隊の中で、当初の8隻に、後に加わった3隻も含め、実際に海戦に参加したのは「回天」、「蟠竜」の2隻のみである。
悪天候や座礁で失った艦があまりにも多かった。荒井達は、身をもって気象の怖さと重要性を認識し、無念を気象業務の発展にぶつけたのであろうか。