戦後日本の国家再建・復興の陰に
-「こんぴらさん」の小さな追悼式-

チャンネルNippon理事 山田道雄

 未曾有の天災と言われる3.11東日本大震災から2年を経過し、ようやく本格的復興が軌道に乗り、一方政治の世界では「日本再建」が叫ばれている。
 今年も香川県琴平市のいわゆる「こんぴらさん」で行われる掃海殉職者追悼式に参加した。
 毎年参加して思うことは、この79名の掃海殉職者を追悼する厳粛かつ簡素な式典が毎年この地で行われていること、戦後日本の国家再建・復興の陰に身命を賭けた男たちがいたことを、どれだけの国民が知っているのだろうかという疑問である。
 当日偶々参詣で居合わせた人たちも足を止め、例年同様数名の者が式典を見学していた。しかし、毎年何百万人という「こんぴらさん」の参詣者も含め、殉職者を慰霊するための「掃海殉職者顕彰碑」の碑が参道階段の脇道に入った所にあることも今は殆ど知られていない。
 昭和27年6月、戦後の日本周辺港湾の掃海作業で殉職した隊員の功績の顕彰と慰霊を目的にして、港湾航路啓開の恩恵を受けた全国32の関係各都市の市長、県知事が発起人となり、この「掃海殉職者顕彰碑」が金刀比羅宮境内の朝日ヶ丘に建立されてから、毎年この時期に碑前において追悼式が行われている。

有名な「こんぴらさん」の階段の途中、この右奥に「掃海殉職者顕彰碑」がある


 今年は気温30度を越えた5月25日、全国から7家族14名のご遺族をはじめ約200名の来賓、海自制服姿の鮒田海上幕僚副長以下掃海部隊乗員ら関係者が参列した。式典は山口透呉地方総監が執行者となり、儀仗隊、音楽隊が参加して宗教色を排した海上自衛隊の儀式として例年通り整斉かつ厳粛に実施された。
 半世紀を経てご遺族の方々も世代交代となり、昼食会で代表して謝辞を述べられた方のご子息は中学生のころからこの行事に参加してその後海上自衛隊に入隊、現在は護衛艦の副長として海上勤務についているという。
 式典で徳丸掃海隊群司令と勝山呉水交会会長が「追悼の詞」を述べたが、慰霊追悼の真情に溢れ、初めてこの式典を見学した一般の人にも大変分り易いものだったので、当日の写真と共に最後にこれを紹介することにしたい。(写真提供:海上自衛隊呉地方総監部)

音楽隊の奏でる「国の鎮め」が静かに流れる中、顕彰碑に向かい黙とう

追悼の詞を述べる徳丸掃海隊群司令

追 悼 の 詞

 本日ここに、新緑に陽光注ぐ金刀比羅宮の神苑において、第62回掃海殉職者追悼式が挙行されるに当たり、海上自衛隊掃海部隊を代表し、謹んで追悼の詞を申し上げます。
 顧みますれば、大東亜戦争末期、我が国の主要港湾及び海域に日米両軍が敷設した機雷は、その数、6万7千の多きに上るものでありました。中でも、米国が対日飢餓作戦と称して関門海峡を始め、瀬戸内海、伊勢湾及び東京湾の各海域に敷設した感応機雷約 1万個は、四面環海の我が国の命脈を繋ぐ海上交通を途絶に追い込んだのであります。そのため、終戦後はこれらの機雷を残らず排除し、海上交通の安全を確保することが国家再建上喫緊の課題でありました。敗戦の混乱と虚脱の最中にあって、当時の掃海従事者は、疲弊した国力を回復させるため、困難かつ危険に満ちた任務に敢然と立ち向かい、新生日本の航路を啓いて、今日の平和と繁栄の礎を築いたのであります。
 さて、昨年に続きまして、今年も個人的な思いを述べさせていただきたいと思います。私の父も戦後掃海に参加し、今年で84歳になります。私は、この追悼式に参加するに当たり、父からこれまで幾度となく聞いてきた同僚が志し半ばで職に殉じられた情景について思いを致しております。
 私の父は昭和20年12月から昭和27年5月の海上警備隊入隊までの間、佐世保掃海部、下関掃海部そして神戸海上保安部航路啓開部においてディーゼル員として勤務しておりました。その間、昭和25年10月の韓国元山沖の掃海業務にも従事しております。そして、3度危険と隣り合わせとなり、今考えても生き残れたのが幸運であったと申しております。一度目は玄界灘で掃海作業に従事している時でした。中学を中退し、15歳で予科練に入り2 ヶ月で終戦を迎えた父は、幼い頃に病で父を亡くし母子家庭であったこともあり、針生にある第二復員省の地方局で職を探しておりました。その時、掃海艇乗組員の募集があったため、父は直ちにこれに応募しました。今回この追悼式に参加しております掃海母艦うらが艦長、触井園2佐の御尊父も予科練を経て戦後掃海の道に入り、定年まで掃海部隊において勤務されています。航路啓開開始当時の掃海艇には元パイロットが養成途上の者も含め多く乗り組んでいたとのことです。
 第2次大戦後、それまで船乗りであった者は復員船等の比較的安全でかつ待遇の良い業務に従事することが出来ましたが、掃海については、危険でかつ厳しい業務であることから志願者が少なく、乗船経歴が無くとも従事することができる職務であったため、予科練出身者等が多く乗挺していたそうであります。危険に果敢に挑むDNAの萌芽がここにも有るような気がします。さて、最初の危険との遭遇の話に戻りますが、戦後掃海の始まりにおいては、まだ復員省も組織だった業務を実施するには至らなかったようで、父が掃海艇乗組員に志願した際には、志願者は2 列に並ばされ、前列は駆潜特務艇248 号に、後列は250 号に乗り組むように指示されたそうです。一度前列に並んだ父は、友人の顔を後列に認めたため、そこに移動しました。その後、掃海作業中に、前列が乗船した248 号が触雷し、沈むこととなりました。
 2度目の危険は下関の満珠島付近での磁気掃海作業中の出来事です。父が乗り組んでいた駆潜特務艇は、当日は母船を支援する脇船として掃海作業に従事する予定でしたが、母船が出すべき電らんを作業員が誤って繰り出してしまいました。これを揚収するにはまた手間がかかるため、父の乗る艇は、そのまま母船として電らんを曳航することとなりました。母船になると発電機により電らんに電気を供給しなければならないため、ディーゼル員としての作業はきつくなります。父は、ついていないと思ったそうでありますが、共に作業をしている掃海艇3 隻で回頭している最中に脇船が触雷し沈みました。
 3度目は韓国の元山においてであります。まず、掃海開始前に陸から射撃を受けたそうです。それに対し、米国は駆逐艦による艦砲射撃を行い、この攻撃を阻止しました。その後、4 隻で掃海作業を開始しました。父の乗艇する掃海艇には機雷敷設に詳しい者がおりまして、その者が、元山にある大きな木とそこから離れた岩を見て、これを結ぶラインは危険だから避けた方が良いと艇長にリコメンドし、そのとおりにしたそうです。後続してくる掃海艇はそのラインの方向に向かい、その後、触雷しました。皆様ご存知のとおり、この時、作業のため艇内に入った1 名の方が殉職いたしております。もし、父がこのいずれかの機会で殉職していたならば、私はここで追悼の言葉を述べることはできておりません。ここで眠られている79 柱のご英霊も、本来であるならばご家族と、そして新しく引き継ぐ命と共に幸せな家庭を築けたところ、その職に殉ぜられましたことは、痛恨の極みでありましょう。輝かしい航路啓開の偉業と共に、途半ばにして壮烈な殉職を遂げられた皆様のあったことは、我々掃海部隊の末裔のみならず、すべての日本国民の心にとどめられ、その誇りは長く語り継がれることでありましょう。
 翻って、現在の我が国を巡る国際環境は厳しく、権力基盤が脆弱な若い国家指導者が理不尽な要求を掲げミサイル発射をちらつかせ西側各国を脅す国、また、海洋権益の確保のため外洋への進出を活発化するとともに、公船を我が国領海に平然と進入させる国等、情勢は緊迫すれども緩まる気配はありません。そして、中東に目を転ずれば、核開発を巡る力の駆け引きが行われており、その結果としてホルムズ海峡の安定に懸念が持たれています。
 そのような中思い起こせば、今から20年余り前、掃海部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣され、危険かつ困難な業務を安全かつ適切に遂行し、先輩から受け継いだその実力が世界から認められることとなりました。そのペルシャ湾においてはここ3年連続して多国間掃海訓練が実施されており、海上自衛隊掃海部隊も毎年同訓練に掃海艦艇や水中処分員等を送り、現地においてその実力を遺憾なく発揮することにより、参加各国から高い評価を得ております。そして、我が国の生命線、すなわち日本が輸入する約85%の原油が通過しているペルシャ湾の海上交通の安全の維持に貢献すると共に、グローバルな安全保障環境の改善にも寄与しています。
 また、一昨年の東日本大震災においては、掃海部隊の艦艇及び水中処分員が直ちに出動し、小型艦艇及び潜水員というその特性を活かし、入り組んだ沿岸部において瓦礫をかき分け、汚濁した海中に潜り、捜索救難の任にあたりました。また、同時に半島僻地や島に孤立する住民に対し救援物資を輸送する任務にも従事しました。劣悪な環境の中でも黙々と任務を遂行する隊員たちは、皆様の掃海魂をしっかりと受け継いでおります。
 こうした中、航路啓開以来の掃海の伝統を受け継ぐ我々は、平時・有事を問わず、いついかなる任務が与えられようとも、これを整斉と遂行し、以て国民の負託に応えるべく、日々精進し、即応態勢を維持する覚悟であります。
 本日ここに、改めて、身命を賭してその使命を完遂されました皆様の偉業を忍びつつ御霊の安らかならんことをお祈りすると共に、我が国の行く末と海上自衛隊の諸活動に一層のご加護を賜らんことを祈念して追悼の詞といたします。

平成25年5月25日  

海上自衛隊掃海隊群司令  海将補 德丸 伸一   


追悼の詞を述べる勝山呉水交会会長

追 悼 の 詞

 緑したたるここ金刀比羅宮神苑において、第62回掃海殉職者追悼式が挙行されるに当たり、水交会を代表して謹んで御霊前に申し上げます。
想えば、大東亜戦争終結以来68年の歳月を経て、時の流れと共に世相は移り変わりましたが、敗戦直後のあの混乱のなか、ひたすら国家再建を念じつつ、機雷の海に命を賭けた男達がいたことを忘れることは出来ません。
 顧みるに、昭和20年8月、祖国未曾有の敗戦を迎えたとき、周辺海域には、我が軍が沿岸防備用に敷設した係維機雷5万5千余個と、米軍が「対日飢餓作戦」において敷設した感応機雷の未処分機雷6千600余個が残存し、このため国内外を結ぶ主要な航路は悉く塞がれ、海上交通の要所、関門海峡や瀬戸内海は沈没船で埋まり、もはや船の行き交うことの出来ない「死の海」と化しておりました。
 同年9月、海軍省軍務局に掃海部が設けられ、全国に地方掃海部を設置するとともに、海軍軍人約1万名と残存せる小型掃海船等をもって、海国日本の復興に着手したのであります。
 21年5月には、第2復員省所管のもと、全国から掃海船や徴用漁船など百隻余りが下関方面に集められ、「臨時関門掃海部隊」を編成し、困苦欠乏に耐えながら、航路、港湾の掃海作業に従事し、関門海峡の再開と、下関、大阪間の主要一貫航路が切り拓かれたのであります。
 以来、所管省庁も変遷を重ね、23年5月には、運輸省内に海上保安庁が創設され、掃海作業も航路啓開業務として、瀬戸内に限らず我が国の全海域で組織的に行われるようになりましたが、岡山県牛窓沖で旅客船「女王丸」が触雷沈没したほか、瀬戸内海を中心に、15隻200名に上る犠牲者が出たことに鑑み、航路啓開業務は重点海域を再び瀬戸内海として行われたのであります。
 25年6月、朝鮮戦争が勃発するや国連軍の要請に応え、佐世保港外及び東京湾口の日施掃海と連合軍艦船の水路誘導が始まり、10月には、朝鮮海域における掃海作業に協力することとなり、「日本特別掃海隊」が編成され、冬の日本海で酷寒風浪に耐えながら、元山、群山、仁川などの掃海に従事したのであります。このことは、当時交渉中であった対日講和条約の締結に大きく貢献することになり、時の吉田茂首相から、「諸君の行動は、国際社会に復帰せんとする日本の行く手に大きな光を与えたものであった。」と激賞されたのであります。
 昭和27年、わが国の主要な航路と百箇所に余る港湾、総面積5千平方キロメートルに及ぶ海域の掃海作業が遂に終了し、国民待望の安全宣言を世界に向けて発することとなり、之を契機として日本の産業経済の再建が始まったのであります。
 終戦からの7年に及ぶ期間、航路啓開隊員は、木造の小型船に乗組み、風浪寒暑と闘い、黙々として危険かつ困難な作業に挺身されました。この間、蝕雷沈没などの凄惨な事態により、業務半ばにして壮烈な殉職を遂げられた79柱の御霊に思いを馳せるとき、痛恨の情、切々として胸に迫り来るのを禁じ得ません。今日の我が国の平和と繁栄を見るとき、それは正に国家再建の礎となられた御霊の尊い犠牲の上に打ち立てられたものであり、その偉業は、掃海殉職者顕彰碑と共に、永く後世に伝えなければならない歴史上の一ページであります。
 最後になりましたが、今後も、我が水交会がその偉業を称え、御霊の慰霊顕彰に努めていくことを固くお誓い申し上げます。
 ここに、御霊の安らかなご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様のご健勝とご多幸をご祈念申し上げ追悼の詞といたします。

平成25年5月25日  

呉水交会会長   勝山 拓   


儀仗隊による「捧げ銃」(指揮官は女性自衛官)

海自隊員代表による献花


式典終了後「掃海殉職者顕彰碑」の前でご遺族を囲んでの記念撮影