馬門山海軍墓地

山村 洋行

 神奈川県横須賀市の国道134号線(いわゆる久里浜街道)を大津から久里浜に向かい、根岸五丁目交差点から左に入り、階段を上った丘陵地に馬門山(まもんざん)海軍墓地がある。



 同墓地は現在横須賀市が管理しているので、名称としては「横須賀市営馬門山墓地(旧横須賀海軍墓地)」となるが、本稿では「馬門山海軍墓地」と呼称する。


(墓地入口)


 筆者は海上自衛隊OBであるが、恥ずかしながら数年前まで馬門山海軍墓地の存在すら知らなかった。 本稿執筆に当たって数人の元部下に聞いたところ、彼らもまったく知らないという。
 呉、佐世保には大きな海軍墓地があり、呉海軍墓地には呉鎮守府管轄下の大東亜戦争戦没者約13万余柱が合祀され、また、佐世保東山海軍墓地には佐世保鎮守府管轄下の17万6千余柱の霊名簿が奉納されている。 どちらの墓地も保存会により管理され、地元では公園としても親しまれている。
 呉海軍墓地及び佐世保東山海軍墓地については、筆者も数回訪問したことがあるのだが、横須賀に海軍墓地があることを知ったのは、海上自衛隊を定年退官してからであり、数年前ふと地図を見たときに馬門山海軍墓地の存在を知り、自宅から徒歩20分程度の距離でもあることから、ウオーキングを兼ねて訪問したのが最初であった。

 馬門山海軍墓地の開設については、「新横須賀市史 別編・軍事」(平成24年12月31日横須賀市発行)に以下の記述がある。
 :明治10年代初頭、国内ではコレラが大流行し、陸海軍でも多くの病死者を出していた。海軍では下士官以下が戦病死した場合、その遺体は、軍艦の停泊地(横浜、横須賀、浦賀など)から船を雇用して東京白金の東京海軍埋葬地に移送していた。
 ところが天候により出帆が困難になると数日間にわたって停泊地で待機せざるを得なくなることから、衛生面の不安を解消するため到着地で遺体を火葬し、その後遺骨を白金に移送したいとの申請が、東海水兵分営長から何度か東海鎮守府に提出されていた。
 わざわざ横須賀や浦賀を経由して東京に遺体を搬送するなど不便なことであったが、何よりも伝染病に対する不安がそれを上回っていたのである。このため一時的にでも仮埋葬が可能な横須賀や浦賀近傍に求められるに至ったのである。そして、明治15年(1882年)1月、「馬門山海軍埋葬地」として開設された。: 
 以後、馬門山海軍墓地は大東亜戦争終戦までは横須賀鎮守府が管理運営を担当、大東亜戦争終戦後は海軍省廃止に伴い、大蔵省、その後横須賀鎮守府の後継たる横須賀復員局が管理を行っていたが、昭和24年(1949年)、横須賀市が同墓地の維持管理を引き継ぐとともに敷地内に一般墓地を造成し、現在に至っている。 
 同墓地には旧海軍軍艦等の殉職者、上海事変戦死者等、海軍軍人の英霊1,592柱が殉職者之碑、個人墓等に祀られている。 
 馬門山海軍墓地は、呉、佐世保の海軍墓地に比べると随分と小規模のものである。また、国道等から直接見ることができない場所にあるので、一般墓地が併置されているとはいえ、横須賀市民でも馬門山海軍墓地について公園のような親しみをもって接することはないように思われる。(ところが、馬門山海軍墓地は横須賀風物百選の一つなのである。このことも本稿を記述するに際して知ったことである。)


(横須賀風物百選・馬門山墓地)


 馬門山海軍墓地を紹介しようと思い立ったのは、平成25年10月2日同墓地の修復完了に伴う竣工式が執り行われたことにある。 竣工式は 公益財団法人「水交会」*主催により多くの来賓を迎え墓地において実施されることとなっていたが、運悪く台風22号の通過による悪天候のため、墓地近傍の大津行政センターにおいて行われた。
 筆者は「チャンネルNippon」からの取材ということで竣工式に参加予定であったが、屋内での実施のため、参加者数等との関係から不参加とならざるを得なかった。

*公益財団法人「水交会」
 戦前の海軍士官の団体「水交社」を源とし、戦後いったん解散されたが海軍関係者により「水交会」として再編成された後、財団法人「水交会」としての認定を受け、海上自衛隊OBの会「海上桜美会」と合同、平成23年、公益財団法人「水交会」となった。
「水交会」は「海洋安全保障の研究・普及」「海上自衛隊等の施策・活動に対する協力支援」を行うとともに「戦没者、殉職者等の慰霊顕彰」等の活動を実施している。

 馬門山海軍墓地の修復作業には次のような経緯がある。 馬門山海軍墓地では約130年という年月を経て風雨にさらされ、激しく傷んだ、あるいは傾いた、さらには倒れて損壊している個人墓が235基を数えた。管理を担当する横須賀市としては、当該墓が個人の所有であるため修復工事等介入ができなかったようである。
 このような情勢を受け、「水交会横須賀支部」が墓地修復に乗り出したもので、財団法人「防衛施設周辺整備協会」からの助成を受け、平成25年3月下旬から修復工事に着手、同年9月20日工事が完工した。そして、10月2日修復工事完工に伴う竣工式が行われたのである。
 10月14日、筆者は墓地修復状況を確認するため同墓地を訪問した。 下写真のとおり、墓地入口から墓地に向かう通路は舗装され、また、手すりも取り付けられるなど以前の訪問時に比べると随分と綺麗になっていた。  墓地は下から(入口から)下段、中段そして上段と3段に分かれており、これに順次参拝していった。


(墓地入口から下段墓地への通路)


 各段の墓地の概要は下図のとおりであり下段・中段が兵の墓地、上段に士官の墓地と慰霊碑等がある。



 墓地入口からの階段を上りきったところに「拝霊堂」がある。



 拝霊堂正面には「海軍墓地合祀者霊位」と記されている。
 下段墓地を上から眺めたところ。修復された兵の個人墓が整然と並んでいる。



 こちらは中段墓地の状況。清掃が行き届いている。



 兵の個人墓。「●●縣 平民 ○○○○ 享年廿二才」が読み取れる。明治時代の墓。



 最上部には広場があり、下の写真3葉のとおり慰霊碑等が建立されている。







 以下、代表的な慰霊碑等を紹介する。


北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑
 明治33年の北清事変において軍艦愛宕から陸戦隊員として北京に派遣籠城中、壮烈な戦死を遂げた5勇士を慰霊するため明治34年横須賀市天栄寺に建立、これを昭和7年移設



軍艦筑波殉職者之碑
 大正6年横須賀軍港において火薬庫爆発の軍艦筑波において殉職の152名を弔うため大正8年建立



軍艦河内殉職者之碑
大正7年徳山港において火薬庫爆発の際の殉職者621名の慰霊のため大正8年建立



特務艦関東殉職者之碑
 大正13年暴風雪のため福井県の海岸に座礁した特務艦関東の殉職者68名を慰霊するため大正14年建立



第四艦隊遭難殉職者之碑
 昭和10年海軍大演習に参加中、北海道東方海面において台風のため遭難殉職の30名並びに室蘭港内において乗艇沈没の際の遭難殉職者6名を慰霊するため昭和11年建立



支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔
 昭和12年の支那事変引き続き大東亜戦争に従軍した横須賀鎮守府管下英霊の忠誠を語り伝えるため昭和28年建立


 以上、国難に立ち向かって戦死、殉職された海軍の諸先輩に想いをいたし、その御霊安かれ、と祈りつつ馬門山海軍墓地の概要を紹介してきた。
 この度、同墓地は修復され英霊を祀る場として相応しいものになったと思う。今後は現在の良好な状態を維持していくこととなろうが、これには何らかの墓地保存会的な体制の整備が必要となろう。
 冒頭紹介の「新横須賀市史」によると、海軍墓地は7つあるという。横須賀・馬門山、呉、佐世保の他に東京白金(海軍葬儀場)、函館(海軍葬儀場)の合計5つは別の資料で確認できたが、残りの2つは舞鶴と大湊か?
 これらを調べながら「呉海軍墓地」を皮切りに順次紹介していきたいと考えている。

 最後に、「こんなところに慰霊碑が・・・・」を紹介しておきたい。
 伊良湖岬を訪問した際、観光名所の恋路ヶ浜遊歩道にある「海軍機動艦隊戦没者招魂慰霊碑」(大東亜戦争における日本海軍機動艦隊の戦没者の招魂慰霊碑)である。このような慰霊碑等も機会をとらえて紹介していきたいと思う。





(了)