呉海軍墓地

山村 洋行

 昨年(平成25年)横須賀の馬門山海軍墓地修復工事竣工に際し、「チャンネルNippon」において同墓地を紹介した。 今回は海軍墓地シリーズ第2弾として呉海軍墓地を紹介することとする。
 広島県呉市は横須賀、佐世保と並び旧日本海軍の一大基地であった。戦艦「大和」が建造された地としても知られており、現在は「大和ミュージアム」に「大和」の1/10スケールの模型が展示されている。(「大和ミュージアム」については、当サイトにおいて「大和ミュージアム見学記」として紹介しているので参照されたい。)


(呉海軍墓地遠景)


 呉海軍墓地の歴史について述べておきたい。
 明治22年、安芸郡呉港に呉鎮守府が開庁され、その後明治35年、宮原村、荘山田村、和庄町及び二川町が合併して呉市が誕生、明治36年には海軍工廠が設置され、大正9年には戦艦「長門」の竣工、さらには昭和16年の戦艦「大和」の完成など呉市は日本海軍の基地として発展することとなる。 呉海軍墓地は呉鎮守府開庁と時期を同じくして「和庄葬儀場」として「上長迫の丘」に設置された。(横須賀馬門山海軍墓地紹介においても触れたが、墓地については「葬儀場」との名称がある。)
 墓地設置翌年の明治23年、第1回の埋葬が行われ、以後日清、北清、日露戦争、第一次世界大戦、満州、支那事変及び第二次世界大戦において国難に殉じられた英霊の安住の地となり、毎年春、秋2回の慰霊祭が執り行われてきた。
 しかしながら、昭和20年大東亜戦争の敗戦により日本海軍が解体となるや、戦災に続く終戦後の混乱により墓地は荒地と化したのである。そして、墓地の清掃すら覚束ない日々が長期にわたり続き、一般市民の墓地に対する感情も次第に遠ざかっていった。
 しかしながら、このような状況にあっても心ある人々、団体、付近住民等の奉仕により清掃と供養が続けられてきたのである。 そして昭和46年、同志が集い「呉海軍墓地保存協力会」(昭和63年「呉海軍墓地保存会」と改称)が組織され、墓地環境整備とともに毎年秋分の日を式日と定め遺族並びに戦友等関係者が参列して追悼の式典が行われるまでに至った。
 呉海軍墓地は昭和46年3月旧軍港市転換法に基づき呉市に無償貸付、昭和61年には無償譲与され市有地と併せ約29,000平方米を「長迫公園」として整備、呉市が維持管理することとなり昭和60年9月23日には、高松宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ第15回合同追悼式が盛大に挙行された。


(呉海軍墓地所在略図)



(長迫公園)



(高松宮同妃両殿下記念植樹碑)


 平成7年、「財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」の設立に伴い「呉海軍墓地保存会」は解散、追悼式等の事業及び資産の一切を「財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」が引き継いだ。
 呉市は平成9年度から3ヶ年計画で墓地の整備を実施、平成12年春、呉海軍墓地は歴史平和公園として完成した。 「財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」は財団設立10周年を記念し、平成17年「海軍墓地誌」を出版、同年9月「武夫の碑」(歌碑)、そして平成18年には鎮魂歌歌碑「長迫の丘」を建立した。(「財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」は平成22年「公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」となった。)
 現在も「公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会」が中心となり墓地の維持管理がなされている。呉海軍墓地は公園でもあることから、穏やかなたたずまいである。
 呉海軍墓地にある碑を紹介しよう。
 下に墓地案内図を示す。(1枚の看板であるが2分割して表示)




(墓地案内図)


 合祀碑は大東亜戦争以前のものが11基、大東亜戦争関連のものが80基、合計91基、合祀者は34,429柱であり、南洋諸島派遣部隊、海軍航空隊など陸上部隊及び戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など艦艇の碑がある。(うち戦艦の碑は4基で、「大和」、「日向」、「伊勢」及び「扶桑」である。航空母艦の碑4基の中には日本海軍最後の航空母艦「信濃」の名がある)。
 合祀碑の他に、明治23年~昭和20年にかけて建立された157基の個人墓碑、さらに明治40年建立の英国海軍水兵の墓碑1基がある。
 呉海軍墓地には呉鎮守府関係の戦没者約133,000余柱の御霊が眠っておられるのであるが、すべての碑についての紹介は紙面の都合上できないので、個人墓碑写真、英国海軍水兵の墓碑並びに合祀碑の一部の順に紹介することとし、残りの碑については稿の最後に表示する墓碑写真集(抜粋)及び墓碑等一覧表にての案内とする。

(個人墓碑)




(英国海軍水兵の墓碑)



(英国海軍水兵の墓碑)
 香港駐在の英国中国駐屯軍司令長官
アーサー・ウィリアム・ムーア海軍中将座乗の英国海軍軍艦「アクラリティー」が、1907年4月15日の戦艦「安芸」進水式に参列のため呉に回航の際、同艦乗組員ジョージ・ティビンス2等水兵が広島県宮島沖にて海中転落した。
彼の誕生日2日前であった。遺体は同年5月2日広島県佐伯郡五日市沖にて発見され、葬儀は日本海軍礼式に準じて呉海軍墓地において執り行われた。
 英国海軍軍艦「アクラリティー」は5月24日呉を再度訪問、乗組員仲間による寄付による墓石を翌25日呉海軍墓地に建立した。戦後墓石台上の十字架が折られる事案が発生したが、海上自衛隊呉地方総監部及び呉グリーン・ライオンズクラブにより修復された。

    SACRED
TO THE MEMORY OF
  GEORGE TIBBINS
    AGED 19


の文字が読み取れる。


(合祀碑)
「大東亜戦争以前の碑」


(軍艦吉野戦死者の碑・昭和13年建立・合祀者303柱)
 日露戦争において旅順口沖強行封鎖中、濃霧に遭遇、後続の艦に追突され沈没、艦長以下303名が戦死した。
この“碑”はこれを悼んで、海軍大佐武田盛治の発起によって建立された。



(上海満州事変戦没者之碑・昭和8年建立・合祀者49柱)
昭和6年の満州事変、昭和7年の上海事変において戦死した49名の霊を悼み建立された。同事変には各鎮守府から出征したため各鎮守府ごとに慰霊碑が建立されている。
(横須賀馬門山海軍墓地及び佐世保海軍墓地に上海事変戦死者之碑があるので合計3基の碑がある。)


「大東亜戦争関連の碑」
{陸上部隊の碑}


(第634海軍航空隊基地隊慰霊碑・平成元年建立・合祀者389柱)
第634航空隊基地隊約400名は昭和19年12月、フィリピン東方海上における航空戦に従事中の第634航空隊飛行隊に合流するため航空母艦「雲龍」に乗艦、進出中のところ敵潜水艦の雷撃を受けて「雲龍」は沈没、ほとんどが戦死した。“碑”は「六三四空基地遺族会」により建立された。



(レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑・昭和45年建立・合祀者60柱)
ブーゲンビル島とガダルカナル島のほぼ中間にあるレンドバ島に配備された守備部隊(海軍;呉鎮守府第6特別陸戦隊及び陸軍;第38師団歩兵第229連隊第7中隊)は、昭和18年6月30日大規模な上陸作戦を開始した米軍反攻作戦上陸部隊に抗戦するも米軍との圧倒的な戦力差は如何ともしがたく、多くの隊員が散華した。レンドバ島派遣部隊の生存者は、戦死した陸海軍の戦友の御霊を鎮魂するため、この“碑”を建立した。



(呉海軍設営隊顕彰慰霊碑・昭和51年建立・合祀者7026柱)
呉海軍設営隊は、大東亜戦争において呉軍港から出陣した27個部隊の設営隊で、太平洋の殆どの戦域で海軍施設の建設、運営に従事し、敵軍と交戦、熾烈な砲爆撃のもと勇戦奮闘した。
呉海軍設営隊が展開した代表的な地域は、パラオ、バリ、東北ニューギニア、ラバウル、香港、ペリリュー、グアム、マニラ、タラワなどであり、各設営隊員一万数千名の鎮魂のため戦友会が結成され、この“碑”が建立された。


{艦艇部隊の碑}
:戦艦、航空母艦等の碑:


(戦艦大和戦死者之碑・昭和54年建立・合祀者2780柱)
昭和20年4月7日、海上特攻作戦部隊・第二艦隊の旗艦として沖縄向け進出中、米艦載機延べ千機の攻撃と潜水艦の雷撃を受け、東シナ海において沈没、司令官以下2780名が「大和」と運命を共に散華した。戦艦「大和」は日本海軍の栄光の象徴であり、散華した乗組員の偉勲を永く後世に語り継ぎ、鎮魂の誠を尽くすべく、戦艦「大和」の生存者、遺族の協力によってこの“碑”が建立された。



(戦艦扶桑戦没者慰霊碑・昭和55年建立・合祀者1637柱)
昭和19年10月25日、西村艦隊に属して比島沖海戦に参加中、米駆逐艦の魚雷と戦艦の集中砲火を受け沈没、1632名の乗組員は全員戦死した。戦後、呉海軍墓地には次々と各艦の慰霊碑が建立されるのに、呉鎮守府最大の戦艦でありながら生存者がないため、「扶桑」の慰霊碑が建立されなかった。名古屋在住の野原朴氏が各方面に働きかけ、「扶桑」に縁のある浜田利貞氏らと協力してこの“碑”を建立した。



(航空母艦飛鷹の碑・昭和58年建立・合祀者704柱)
昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦において米雷撃機隊及び潜水艦の魚雷攻撃を受け、ガソリン庫が爆発、大火災となり、ヤップ島北方にて沈没、乗組員250名は艦と運命を共にし散華した。昭和58年生存者により「飛鷹会」が結成され、京都嵐山に碑を建立、碑は、その後平成7年和歌山に移転、平成14年呉海軍墓地に移転した。



(軍艦信濃戦没者之碑・昭和41年建立・合祀者801柱)
「信濃」は戦艦「大和」型3番艦であったが、ミッドウエー海戦での主力航空母艦4隻喪失により、急遽航空母艦として建造された。そして、昭和19年10月19日横須賀海軍工廠で竣工したが、完全に工事が終了したわけでもなく、横須賀への空襲が予想されることから、呉に回航することとなった。その回航中の11月29日潮岬沖において米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受け、潮岬南東約100マイルで転覆沈没した。「信濃」には乗組員のほか多数の海軍工廠工員が乗艦していた。



(軍艦加古戦没者慰霊碑・昭和42年建立・合祀者74柱)
昭和17年8月8日~9日の第一次ソロモン海戦において敵重巡4隻撃沈の偉功をたてたが、その帰途、8月10日カジエレ付近にて敵潜「S-44」の雷撃により沈没、74名が散華した。碑はこの折の戦死者の霊をいたみ建立された。


:駆逐艦、潜水艦、工作艦等の碑:


(第17駆逐隊(谷風、浦風、濱風、磯風、雪風、初霜)之碑・昭和57年建立・合祀者655柱)
第17駆逐隊は、大東亜戦争において最新鋭の駆逐艦部隊として顕著な武勲を立てた。終戦時「雪風」のみが唯一残存し、最高の強運艦といわれた。戦後は中国海軍に譲渡された。碑は、戦没者655柱の鎮魂と第17駆逐隊の栄光ある戦歴を永く後世に伝え、かつ、祖国の安泰を祈念するものとして建立された。



(伊号29潜水艦戦没者慰霊碑・昭和42年建立・合祀者107柱)
昭和17年2月竣工以来、各方面での作戦に従事してきたが、ドイツ派遣という重大使命を果たしてシンガポールから帰国途上の昭和19年7月26日、バタン島バリンタン海峡で米潜「ソーフィッシュ」の雷撃を受け、艦長以下107名が艦と運命を共にした。「二九潜」と語呂合わせで名づけられた「不朽会」が栄光ある艦歴と散華した戦友の武勲を“不朽”に鎮魂するため建立した。



(工作艦明石慰霊碑・昭和56年建立・合祀者187柱)
大東亜戦争中「明石」は移動工廠として聯合艦隊に所属、主としてトラック島にて損傷艦艇約300隻を戦列に復帰させ、米軍をして“「明石」を叩け”と命令させるほどの功績をあげたが、昭和19年3月20日米軍の大空襲を受け、パラオ諸島の海岸に擱座、乗組員100余名が壮絶な最期をとげた。戦後、生存者有志が集い「明石」の功績と散華した乗組員英霊の史実を永く後世に伝えんと、「慰霊碑建立委員会」を結成して碑を建立した。


{大東亜戦争戦没者の碑}


(大東亜戦争戦没者の碑・昭和22年建立・合祀者128,000柱)
大東亜戦争死没者の遺骨で遺族から納骨希望のもの、引き取り遺族不明のもの及び氏名該当者不明のもの121柱を納骨するため、呉地方復員局が昭和22年1月呉海軍墓地の災害復旧工事完成時に建立した。昭和30年6月碑文(真鎮鈑)盗難にあい、同年7月石材で修復した。平成14年7月財団法人呉海軍墓地顕彰保存会によって碑の化粧直しと周辺整備工事が実施された。



 以上、呉海軍墓地の概要を紹介してきた。 この度、十数年振りに呉海軍墓地を訪問、大東亜戦争における南洋諸島陸上部隊の展開地域、各海戦の海域を再認識し、あらためて大東亜戦争の戦域の広大さを感じるとともに、祖国に帰ることもできず戦地にて“草むす屍”“水漬く屍”となられた方の無念さはいかばかりか、と思った次第である。
 呉海軍墓地は公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」が中心となり維持管理がなされているが、同法人のホームページには海上自衛隊の艦艇乗員、呉教育隊(主として新規隊員のリクルートセンターとしての部隊)入校中の隊員そして呉市対岸の江田島市にある海上自衛隊幹部候補生学校の候補生などが墓地清掃等奉仕活動を行っているとのこと、さらには地元の小学生等子供たちも奉仕活動に参加している、とのことが紹介されている。
 海上自衛隊の隊員が先の大戦において散華された海軍の先輩に哀悼の意を捧げつつ、任務完遂を誓う姿は日本海軍の伝統を受け継ぐ海上武人としての姿勢が感じられ、頼もしい限りである。
 また子供たちにとっては、多くの人が祖国のために戦い、命を失ったこと、そして現在の日本の繁栄はここに眠る英霊の尊い犠牲の上にある、ということを学ぶ機会になるのではないか、と思うのである。
 呉市には冒頭述べたように、「大和ミュージアム」そして海上自衛隊の退役潜水艦の実物を展示する「海上自衛隊呉史料館・てつのくじら館」が、また、対岸の江田島市には「海軍兵学校」の跡地に海上自衛隊幹部候補生学校及び海上自衛隊第1術科学校があり、多くの見学者で賑わっている。 本稿が上記「大和ミュージアム」等見学に訪れた方々の「呉海軍墓地」訪問のきっかけとなることを願うものである。

最後に、呉海軍墓地追悼歌「長迫の丘」歌碑を紹介し本稿を閉じたい。



慰霊碑等一覧表  慰霊碑等写真集:  ⅰ陸上部隊慰霊碑 ⅱ戦艦等慰霊碑 ⅲ駆逐艦、潜水艦等慰霊碑
参考・引用文献等(リンク):呉市ホームページ
              :呉海軍墓地誌・海ゆかば・合祀碑と英霊
              (公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」 発行)
(追記)
 本稿執筆に当たり、呉海軍墓地に関する資料の提供等ご支援をいただいた公益財団法人「呉海軍墓地顕彰保存会」並びに墓地写真撮影等に協力いただいた呉市在住の元海上自衛官・中原信久氏に深甚の謝意を表したい。