回想記「米海軍との長いつきあい」

元自衛艦隊司令官 金崎 實夫

 物心ついた時から海軍に憧れ続けた軍国少年の私は敗戦によってその夢を失った。太平洋戦争に敗れ、生まれ故郷の朝鮮を追われて四国に引き揚げた時生活の惨めさも応えたが、海軍がなくなった事のショックも大きかった。然し朝鮮戦争を契機として日本にも海軍に似た海上自衛隊が生まれ、少年はDream Comes Trueの幸運を得た。有難いことに第2次大戦後わが国に対する直接侵略は生起せず、自衛官でありながら戦場経験を味あうこともなく、武人としては半人前の経験でしかなかったが、30有余年の勤めを終えた。そして幼心に染み付いた仇敵米海軍1は、この30有余年で最強の友人に変って行った。

 昭和35(1960)年私は米東岸チャールストンの機雷戦学校に入った。それ以前の昭和30(1955)年に海上保安大学校の練習船でハワイを訪れ、更にその3年後の1963年には米加西岸への遠洋航海も経験していたが、いわばパック旅行のようなものだったから、個人でアメリカで暮す生活はこのときが初めてであった。
 その機雷戦学校には候補生時代の教官A1尉が1年前に留学して居られた。
 某日校長オーア大佐に呼ばれたところ、『A1尉の成績は抜群で日本人の素晴らしさを知った。君も負けずに頑張って欲しい。チャールストンの繁華街は学校から遠く不便なので当直に言っておくから週末は随時公用車を使っても良い』との有難きご沙汰だった。安保改定の年でハガティー事件が起きアイクの訪日が取りやめられるという対日感情の悪い時期だったので、次のサンディエゴに移動する時、校長はとても心配してくれた。 単純なようだが最初の学校の校長の好意が以後の私の米海軍に対する態度に大きく影響した。

 サンデイェゴに降りる筈の飛行機が霧で降りられずロスに降りた時、深夜にも拘らず担当の中尉がロスで待ち受けてくれたのも嬉しかった。携帯電話もなく一面識もない留学生を混雑した空港で見つけ出してくれた好意に感謝した。サンディエゴは対潜学校の他に砲術学校、防空学校、両用戦学校、教官課程学校など十指に余る学校があり、日本からの留学生も海軍兵学校64期の1佐から我々2尉まで10人近く居て、更に私が対潜学校を終え教官課程学校に移る頃には、故O.Y兄がN.N、O.Sの両先輩などと一緒に到着、留学生は更に多くなった。
 教官課程に移ってから某夜韓国海軍大尉二人が私の部屋に来た。彼らの言い分は、士官クラブの黒人スチュワード達が韓国人を馬鹿にして注文の料理が中々来ない、それに反して貴官は後から注文しても米海軍士官より早く料理が来る、明らかに差別なので担当士官に苦情を言いに行こうと思っているとの事だった。広く大きな食堂なのでそういう間違いもあるのではないかと日本語で慰めた。ここでも日本人は優遇されていた。
 サンデイェゴ最後の教官課程学校に移ってから、主任指導官の少佐と些細なことで口論になった。双方譲らずその少佐は別の教室に居た元指導官U3佐を呼び私を説得するよう依頼した。Uさんは中に入って苦労されたが結局物別れだった。やがて卒業の日が来たが、その指導官は笑顔で近づきCongratulationsと握手を求め、youとのtalkは忘れない又何処かで逢おうと言ってくれた。そのフランクさがまた私のアメリカ人好きを加速した。

 時は移って1977年2月、舞鶴を母港に第3護衛隊群幕僚として勤務中、突然『RIMPAC77』のオブザーバーとしてハワイへ出張するよう指示された。『RIMPAC77』への海上自衛隊参加が難しくなったのでオブザーバーを出すことになった、米海軍に対して部隊が参加出来なくなった背景を説明してくるようにとのことだった。某TVが過去のリムパックの様子を詳しく放映し、核搭載艦が参加する訓練に海上自衛隊も参加すると批判したらしい。途端に内外各部から慎重論が続出し参加を見送ることになったという。参加見送りは公式に通知済みであり、裏話をしてくれば良いと言われ、その心算で出かけた。
 第3艦隊司令官のグレーブリー提督は黒人初の中将で魁偉な巨躯に似合わず温厚柔和、形式的な挨拶だけで終わったが、太平洋艦隊の作戦担当参謀副長オバーグ少将の剣幕は凄まじかった。早口でまくし立てるので良く判らない所もあったが、介添えのハワイ連絡官H.K3佐は英語が全部判るだけにハラハラして聞いていたようだった。帰国後どのような報告を出すのか訓練終了後もう一度会って話を聞きたいと言われた。2週間の実動期間は海上で過ごしたが、次の2週間余は研究会準備で暇だったから、マカラパのニミッツBOQから毎日ホノルルへ遊びに出かけ、旧知の二世たちとの久闊を叙した。
この出張で得た私の所見は、
① 米海軍の海上自衛隊に対する期待が現実味を帯びてきたこと、
② 海上自衛隊は早くデータリンクを装備するとともに
③『ROE(交戦規則)』を制定すべきこと、
④ 米海軍将兵の忍耐強さ、長期戦に堪える強靭な体質を見習う必要があることだった。
 それから3年後に候補生時代の教官だったY.Tさんが指揮する部隊が『RIMPAC80』に初参加した時はホッとした。偶々その年の秋にワシントンに出張したので、ペンタゴンで前述オバーグ少将に会って話をしたいと思ったが、残念ながら直前に退役され果たせなかった。

 1980年代になってからは米海軍との関りは更に強くなった。海上自衛隊と米海軍との関係は『依存』から『共存』に少しずつ近づいていった。その『共存』の中身については事柄の性質上触れられないのが残念である。
 その頃の仲間とは退職後の今もコンタクトを続けており、当時彼らが示してくれた友情、職務上の秘密を共有し合った親近感、苦労を分かち合った連帯感は忘れがたいものがある。
 1989年夏、退官も近くなった頃、私は海上自衛隊始まって以来最悪ともいえる『なだしお衝突事故』を起こした。諸先輩が営々として築き上げた海上自衛隊に対する国民の信頼を一挙に失墜させた罪は重く、毎年この日が来ると気持ちが暗くなる。初入閣だった瓦力防衛庁長官は事故の翌月に在職10ヶ月で引責辞職されたが、防衛庁を離れた後も第七艦隊と在日米海軍の両司令官を選挙区(石川)の温泉に招待し、日米海軍の絆を強めるのに側面から支援された。政治家にとって大事な2度目の入閣が中々回ってこず、申し訳ないと思っていたら漸く建設大臣の席が回ってきて、2002年10月両陛下主催の園遊会でお目にかかれた。その場で改めて事故のお詫びを申し上げたが、米海軍との思い出話も弾んだ。

 前後するが事故のほぼ1年後の平成元年夏、海難審判の1審裁決が出た日に関係者の処分と、減俸期間満了日を待って退職が発令された。同夜、モウズ第七艦隊司令官と会う機会があったが『減俸15分の1では2日分の酒代が不足するだろう、サケット在日米海軍司令官と1本ずつウイスキーを送る』といってくれた。嫌な話を冗談に紛らす友情に感謝した。彼らは既にこの日のあることを予測して私が制服を脱ぐ前に佩用できるよう手を廻していたらしく、退職直前に米国政府から『レジオン・オブ・メリット勲章』を頂いた。何処までも尽きせぬ友情を身に沁みて感じた次第である。

 潜友U.T君は私を『超アメリカ贔屓』だと言う。そのアメリカ贔屓が原因で、一人の韓国青年と気まずくなったことがあった。2003年2月に58年ぶりで生まれ故郷、朝鮮の大邱を訪ねた。インターネットで知り合った同市広報課の青年が昔の母校まで案内してくれた。その 翌月、サンディエゴに3度目の里帰りをした時、彼に旅先から便りを送った。『町を歩いていて聞こえる会話や宣伝カーの文句には他の国と違い違和感がない、ここは日本と同じで水道の水が飲める、ドルは他の通貨と違い何時でも何処でも使えるから幾ら残っても無駄にならない』と書いいた。彼はこのことを韓国との対比と受取って不快感を覚えたらしく暫く連絡が途絶えた。民族感情とは怖いものだ。

 2003年10月、これが現役軍人最後の友人となるナッター大将から退官行事の招待が来た。ヴァージニア州ノーフォーク軍港に浮かぶ原子力空母『ルーズベルト』の飛行甲板で儀式は行われた。初めて会った時未だ大佐だった彼は功なり名遂げて去っていく、海上自衛隊の後輩に対するのと近い気持ちだった。
 内外の情勢は今後どのように変っていくのか判らない。我々の過ごした冷戦期の『東西対抗団体戦』時代と違い、『全方位総当り個人戦』の現情勢下で、海上自衛隊が米海軍と強固な団結を維持しつつ発展することを祈って終わりにします。(2006.4.10記)

ナッター大将と原子力空母ルーズベルト艦上にて (2003.10)



1(参考)以下は小学生時代の日記である。
昭和19年7月19日 戦時児童日記 (朝鮮大邱東雲国民学校) 五年松組 金 崎 實 夫
サイパンの英霊に誓う
サイパン島英霊感謝の神社参拝に行った。サイパン島の仇は必ず僕たちがうつのだ。
さうして大御心を安んじ奉り、米英をこの地球上から追い払うのだ。サイパンの少国民が弾丸を運んでいる気持ちで作業に勉強にはげんでいく。