ー 裏文字と片仮名の見事なコラボレーション ー
  海軍式手旗信号事始め(上)

伊藤 和雄
はじめに

 日露戦争の帰趨を決した日本海海戦の勝因として有形、無形種々挙げられている。砲の門数・口径、装甲の厚さ、伊集院信管、下瀬火薬など、また、敵前大回頭(丁字ターン)、練度、士気などもある。いずれも勝因のひとつであろうが、決定的要因ではない。
 二〇〇一年、米軍は、二十一世紀・情報化時代の戦争に相応しい軍隊組織の再編成を目指し、国防総省直轄の戦力変革局を設けた。初代局長に就任した元米海軍大学校長セブロウスキー中将は、情報化時代の戦争を先取りしたのは、日本海海戦に勝利した日本海軍であり、日本海軍は「情報優位の傘(Umbrella of Information Superiority)」の下で戦ったと述べている。そして、勝利の最大の要因は「情報・通信ネットワークの形成と無線電信機の適切な運用にある」と評している。
 すなわち、海底ケーブルと陸上通信網、我が国が独自で開発した三六式無線電信機により有線・無線のネットワークを形成し、これを駆使して戦った。事前にロシア海軍の動静を把握し、この情報を聯合艦隊の各艦は共有していた。現場の状況は正確に指揮官に報告され、指揮官の命令も的確に現場に伝わった。組織力としては間違いなくロシア海軍を凌駕していた。
 そして、忘れてならないのが視覚信号として、情報・通信ネットワークの一端を担った手旗信号である。我が国海軍独自で開発した、裏文字と片仮名の見事なコラボレーションによる信号手段である。本稿では、この手旗信号の開発の経緯とそれがどのように運用され、海戦に寄与したか探ってみることとしたい。



手旗信号制定を進言した島村速雄

 島村速雄は、日露開戦時の聯合艦隊参謀長、日本海海戦時の第二戦隊司令官である。名参謀秋山真之の能力を発揮させ、東郷司令長官を的確に補佐し、司令長官からの信頼も厚かった。後に元帥に列せられている。
 明治二十一年六月、大尉時代、島村は英国留学を命ぜられている。英国に到着して、いち早く着目したのが、英海軍の巧妙な手旗信号であった。早速、海軍参謀本部長・仁礼景範中将あて書簡で、我が国海軍独自の手旗信号制定を進言している。
 英海軍が使っていたのはセマホア信号といわれるもので、両手に持った同じ色の手旗を上下左右、斜め四五度に突き出し、腕の角度(旗の位置)でアルファベット二六文字と数字一〇字を表現する方式である。
 セマホア信号の元になっていたのが、腕木通信といわれる通信方式である。一七九三年、フランスで考案され、セマホールと呼ばれる通信塔の上部に置かれた強大な腕木の形の変化を望遠鏡で捉えて、信号を伝達した。セマホールを約一〇km間隔でフランス全土に設置して腕木通信網を築いた。この原理を模して視覚内の通信として開発されたのがセマホア式手旗信号である。
 しかしながら、この方式は日本語の表現には不向きであった。アルファベットに比べ、いろは四八文字は数が多く、旗の角度で表現するのは、信号を送る方も受ける方も容易ではない。日本語に適した独自の信号法を考案する必要があった。
 それにしても、手旗信号制定を進言した島村の鋭い眼力には驚嘆する。日本海海戦二日前、島村第二戦隊司令官は、三六式無線電信機を開発した木村駿吉海軍技師あての書簡で、無線電信機の効用を称えるとともに、「……無学なる小生か如き者は日夜無線電信の恩尺に預かりながら其原理の如きは今に了解に苦しみ云々」と記している。腰の低い島村の人柄が表れているが、どうして、海軍兵学校(七期)を首席で卒業し、外国語に長け、手旗信号の有用性に着目し制定を進言した先見性はさすがである。



手旗信号開発に取り組んだ有馬良橘

 島村が手旗信号制定を進言したほぼ同じ時機、手旗信号の開発に取り組んでいたのは有馬良橘(りょうきつ)である。
 有馬は、日露戦争開戦時、聯合艦隊司令部先任参謀(中佐)として、旅順閉塞作戦を立案し、第一回と第二回の作戦の指揮を自ら執っている。二回目の作戦においては、有馬と一緒に閉塞作戦を進言した広瀬武夫少佐が作戦に参加し、壮絶な戦死を遂げた。その後、有馬は病気のため、先任参謀を秋山真之に引き継ぎ転出した。晩年は明治天皇の侍従武官を務め、明治神宮の宮司も務めている。
 有馬が砲艦「天城」の航海士(少尉)であった当時の海軍では、誰もが視覚内の信号の必要性は認めていたものの、試行錯誤の状態にあった。
 六尺余りの竹竿端に四角な旗を取り付け、これを右や左に振り、あるいは前に倒す信号法も試みたが、実用化には至らなかった。
 また、艦と端艇との間の通信に「端舟通信」という旗を使った通信があった。これは、いわば合図のようなものであり、通信内容も運用場面も限られていた。
 何れにしても、モールス符号による発光信号が無かった時代、手旗による視覚信号法の確立は、海軍にとって喫緊の課題であった。
 有馬は、手旗信号に使用する文字は直線で表現できる片仮名が適当と考えていた。セマホア式手旗信号については情報を得ており、これを基本に、いかに片仮名に適用できるか種々研究を重ね、実験を繰り返していた。
 後年、島村は有馬が手旗信号開発に取り組んだ労を称えている。日露開戦時の聯合艦隊参謀長島村が、信頼のおける人物として先任参謀に有馬を選んだ理由のひとつになっているのかも知れない。



釜屋式手旗信号を開発した釜屋忠道

 釜屋は、軍艦「扶桑」乗組み(少尉)であった当時、僚艦「天城」乗組みで兵学校一期下の有馬少尉が手旗信号の開発に取り組んでいるのは承知していた。しかし、有馬の手がけているセマホア式を基本とした方式は、日本語に適用するには無理があると考え、何か他にいいアイデアがないかと、思考を巡らせていた。
 ある時、出身地の山形県米沢で少年時代目にしていた「笠信号」にヒントを得た。
 釜屋の生家は、山形県米沢市の矢来町で、川を使って木材を流す木流し運搬作業場の近くであった。少年時代はよくその附近で遊び、木流し衆の「笠信号」に殊の外興味をもっていた。当時、米沢の附近の山林で伐採した薪となる木材を、鬼面川(最上川の支流)を利用して町まで運んでいた。木流し衆は、かぶっていた笠や番傘を手に取り、笠(傘)の仕草で情報交換していた。「笠信号」と呼ばれる通信手段である。手にした笠を旗に持ちかえれば手旗信号としても使える。しかも、笠を持った手と持たない手に対応し色の異なる旗を持てば、同じ色の旗を使うセマホア信号よりも表現の範囲は広がる。
 釜屋は、片手にハタキを持ち、片手に小箒(ほうき)を持ち、工夫を凝らしていた。思いついたのは、左右の手に異なる色の旗を持つことと、左右の旗で何種類かの直線を表現することであった。

 片仮名の字画は突き詰めると一三の直線の原画の組み合わせでできている。一三の直線を混雑なく手旗で表現できれば片仮名を表現することができる。
 釜屋はこの考えが浮かんでからは、嬉しくて仕方なかった。人の見ていないところで両手を振り動かし、肩が凝って痛くなるまで、色々試してみた。夜はハンモックに寝ていても夢に見る。目が覚めるとハンモックから飛び下りて、考えついたことを蝋燭(ろうそく)の灯りで、手帳に書き込んだ。
 このようにして、釜屋は遂に四五文字の片仮名の手旗表現法を完成させた。イロハ四八文字でないのは、「オ」は「ヲ」に通じ、「ヰ」は「イ」に通じ、「ヱ」は「エ」に通じさせ、三文字を省いたためである。また、「ス」と「ヌ」は混同しやすいため、「ス」は「寸」と置き換え表示することにした。原画は更に簡素化を目指し、一〇原画に減らしている。

 余談だが、山形県といえば「花笠音頭」が有名である。その歌詞は最上川流域各地の名所名物を謡込んだものである。「ハァーヤッショマカショ」と掛け声をかけながら、花笠を手にして表現するダイナミックな踊りが特徴である。現在のような謡回しと振り付けは戦後の誕生であるが、元になったのは古くから受け継がれる人夫達の作業歌である。最上川木流し衆の「笠信号」は海軍の手旗信号と「花笠音頭」の誕生に少なからず寄与しているのかも知れない。



画期的アイデア「裏文字」の採用

 更に釜屋は片仮名を裏文字で表現することを思いついた。裏文字は、日本人にとって、さほど特異な表現法ではない。鏡文字ともいわれ、印鑑を彫る際にも使われる。特徴は片仮名を裏文字で送れば、信号を受ける側は、表文字、すなわちそのまま片仮名として読むことができる。
 筆者は、以前ある旅先で投宿した際、障子に大きな文字が書かれている部屋に通された経験がある。聞くと、某著名な書家が部屋の外側に位置して障子に裏文字を書いたとのことである。部屋の中に居る者はそのまま文字として読み取れる。薄暗い灯りの中で文字が描き出されていく様子は幻想的であったとも語っていた。
 裏文字は左手で書けば書き易いとのことであるらしい。表文字を右字、裏文字を左字と表現する場合もある。
 海上自衛隊でも裏文字を描く訓練をしている。透明の垂直作図盤に文字や記号で作図する際、作図員は作図盤の裏側に位置し、記号、文字、数字などを裏文字の手法で描く。作図盤を見る指揮官にとって見易い。
 米海軍では、作図員は垂直作図盤の表側、見る者にとって同じ側に位置して作図していた。作図している間は、作図盤は見え難い。
 裏文字を描く技術は、日本人の器用さの現れであろうか。もっとも近い将来は、全ての作図もIT化され、手書きの作図は見られないのかも知れないが。
(つづく) 

東郷会機関紙「東郷」(28年3・4月号)より転載