ー 裏文字と片仮名の見事なコラボレーション ー
  海軍式手旗信号事始め(下)

伊藤 和雄
正式採用された釜屋式手旗信号

 釜屋式手旗信号の骨子となるキーワードは「片仮名」「裏文字」「両手に異なる色の旗」である。
 旗の色は、海上では紅色と白色が鮮明で遠くからも見え易い。主用する右手に紅色、補用的に使用する左手に白色の旗を採用した。また、対手を呼ぶ時、これに応ずる時、了解した時の符号を加え、釜屋式手旗信号法は一応の完成をみた。
 釜屋は、乗り組んでいた「扶桑」艦長新井有貫大佐に手旗信号法完成を報告し、認許を得て、信号長、信号兵に説明し、手旗を作らせ、要領を教授した。彼らは、ほぼ半日あまりで会得するに至った。
 信号兵の中に一人、あまり片仮名が得意でない者がいた。その兵隊が一人海図室で片仮名の裏文字を書く練習をしているのを釜屋が見て、このような兵隊がいれば、自分の考案した方式は短期間で海軍全般に普及させることができると確信した。
 艦長に信号の要領を展示することになった。釜屋は信号兵を前艦橋と後艦橋に配し、艦長に、伝達する質問内容を選んでもらった。質問は一方の信号兵から対手に伝えられ、間もなく回答が送られてきた。新井艦長は歓喜感嘆し、これを機会ある毎に諸艦長に伝えた。諸艦から信号兵が教えを得るために「扶桑」に来艦し、瞬く間に艦隊中に広まった。
 噂を聞き、横須賀海兵団の信号教員道本逸作(後に「掲聲」と改名)が釜屋を訪ねて来た。道本は「実は横須賀鎮守府の命により、セマホア式を基本とした有馬式信号法(有馬式もこの時は紅白二種の小旗を使用)を研究していました。二箇月余り一生懸命やってみましたが、難しくて相手に中々理解させるのは難しい。あなたの信号法は誰にも分かり易そうです」と言うので、釜屋は発明の基本思想を丁寧に説明し信号法を伝授した。
 道本は、さっそく海兵団の信号兵に教え、さらに釜屋式手旗信号が広く知られることとなり、評価が高まった。
 釜屋式手旗信号は、常備艦隊司令部から海軍省、軍令部に報告されることとなり、明治二十二年五月、海軍省は、海軍式手旗信号(当時の名称は「仮名手旗」)として制定した。
 明治二十二年八月三十日、海軍省は、手旗信号開発の先駆者有馬と完成させた釜屋両名に対し「簡便ナル手旗信号法ヲ発明シ海軍信号ノ改良ヲ促シタルニ依リ其ノ賞トシテ服地料金二十五円下賜候事」として褒賞した。



海軍式手旗信号

 釜屋が考案した手旗信号法についてまとめてみたい。
 右手に紅旗、左手に白旗を持ち、手旗信号法の基本となる計一〇(現在は一五)の原画を組み合わせて片仮名の裏文字を表現する。例えば、「イ」を表すには、送信する側が左図のように三原画と二原画を組み合わせて送れば、受信する側は「イ」と読む。
 セマホア信号の弱点は両手に同じ旗を持ち、旗の角度で文字を表現するので、遠くから見ると角度の識別が困難で識字率が悪い。これに対し釜屋の開発した手旗信号は、文字数は多いものの、識字率は格段に上であった。
 海上自衛隊では、全ての隊員に対し手旗信号法を素養として教えているが、仕組みが判れば、特段訓練を受けなくても誰でも読むことができる。ちなみに、現在海上自衛隊では、航海科・信号特技員に求めている手旗信号の送信速度は、一〇〇文字、一分三〇秒である。

 海軍式手旗信号は制定後も使用実績を踏まえつつ、現在のように完成された姿になるまでには、幾多の改良が加えられている。
 特に数字をどう表すかが懸案であったが、信号兵等の現場からの提案意見も採用され、数字は、数字の形を表現するのではなく、原画数字名称がそのまま数字(例:〇原画が数字〇、一原画が数字一、二原画が数字二)として表すようになった。
 その他、起信・応信・消信・終信・発動・解信信号の制定、さらには艦橋から張り出した手旗送信台の設置など幾多の工夫と困難があったことは想像に難くない。
 明治二十七八年の日清戦争において、手旗信号は、既に通信手段として作戦に欠かせない存在になっていた。モールス符号による発光信号が無い時代、旗流信号を除けば、手旗信号は視覚信号として唯一の通信手段であった。



日本海海戦における手旗信号運用例

 明治三十八年五月二十七日午後二時八分、日露主力艦同士の砲撃戦で海戦の火蓋が切られた。
 敵砲は聯合艦隊旗艦で先頭艦の戦艦「三笠」に集中し、無線電信機の空中線(アンテナ)が複数回被害を受け、その都度応急空中線を展張し復旧に努めたものの、無線電信使用不能の時間帯が長く続いた。
 聯合艦隊司令部は、最初の合戦が終わり、日没も近づいたことから、夜間の作戦は小艦艇に委ね、次の合戦に備えるため主力艦を鬱陵島附近に北上させようとした。
 無線電信が使えない「三笠」は随伴していた通報艦「龍田」を呼び、手旗(てばた)で各艦に伝える電文内容『鬱陵島附近に集合』を指示し、「龍田」は各艦に対し、これを東郷司令長官名で電報発信した。
 海戦は聯合艦隊の一方的勝利で終えたが、戦果として五隻のロシア軍艦を捕獲し、二隻のロシア病院船を臨検、抑留した。
 臨検隊、捕獲隊を派出するに当たって、派出艦は、チームの構成員には必ず手旗のできる信号兵を含ませている。派出艦と捕獲隊、臨検隊との間の報告、命令等の通信には手旗信号が使用された。
 一例をあげよう。
 五月二十八日午後二時過ぎ、鬱陵島に向け北上中の駆逐艦「漣(さざなみ)」と「陽炎(かげろう)」は、二本マストの二隻の駆逐艦と思われる艦を発見した。当時二本マストの艦は、日本にはいない。敵艦である。「漣」と「陽炎」は手旗信号で情報交換しながら、近づいた。一隻の敵艦は、白旗を揚げているようである。「漣」と「陽炎」は、両艦の役割を分担することにし、手旗信号で「漣」は白旗を揚げ速力を落としている敵艦に向い、「陽炎」はもう一隻の敵艦を追跡することにした。「漣」が捕獲したのはロシア駆逐艦「ベドウイ」であった。
「漣」艦長・相羽恆三少佐は伊藤中尉以下八名の捕獲隊を「ベドウイ」に向かわせた。驚くことに捕獲隊から手旗信号で送信されてきた内容は「本艦ニハ敵艦隊ノ司令長官ロジェストウェンスキー提督及ビ幕僚座乗、乗組員総計九十四名アリ」であった。「ベドウイ」には、バルチック艦隊の司令長官が、大破した旗艦・戦艦「スオロフ」から「ブイヌイ」に移乗し、さらに「ブイヌイ」も機関故障のため「ベドウイ」に再移乗していたのである。
 この後、降伏手続き、重症で動かせないロジェストウェンスキー司令長官を治療するための医官の派遣、曳航要領について、捕獲隊と派出艦の間で手旗信号により頻繁に指示命令、情報交換がなされている。 

 余話になるが、二本マストの敵艦を発見したのは、「漣」の塚本中尉である。塚本中尉は、当時世界で最高性能を有していると云われたツァイス双眼鏡を使用していた。中尉は、自費で、年棒の半分にあたる三六〇円で購入していた。海戦時この双眼鏡を使っていたのは、塚本中尉の他には東郷司令長官だけである。

 これらの場面において手旗信号が無ければ、他に如何なる通信手段があったのであろうか、視覚信号としての手旗信号の役割は大きかった。
 ちなみに、ロシア海軍はセマホア式手旗信号を採用している。
 五月二十七日未明、バルチック艦隊を最初に発見したのは、哨戒中の仮装巡洋艦「信濃丸」である。「信濃丸」が発見したのは、バルチック艦隊の後方に隋伴していた病院船「アリヨール」であった。
 この時の様子をほとんどの文献には「信濃丸が不審な船を見つけ臨検しようと近づいたところ、その船から信濃丸を味方の艦と誤認したのか発光信号(はっこうしんごう)があり、これで信濃丸は不審船がロシアの艦船であると確信した」と記述されている。
 しかし、発光信号とあるのは誤りである。「アリヨール」が「信濃丸」に信号しようとした手段は、電気手旗(でんきてばた)である。言うまでもなく手旗信号の弱点は、夜間使用できないことである。ロシア海軍は、夜間は手旗に代えて、両手に白燈を持ってセマホア信号の要領で通信していた。
 もちろん我が国も夜間の電気手旗については研究している。白色のランタン(提燈)と紅布を覆ったランタンで白燈と紅燈を表示する方法であり、一部で運用されていた。



日本陸軍における手旗信号

 海軍が手旗信号を制定してから四年後の明治二十六年、陸軍も海軍式手旗信号を正式採用している。
 当初海軍は手旗信号を秘密扱いにして公開していなかったが、陸軍からの強い要望で手旗信号法を提供した。
 陸軍は、手旗信号使用の目的を「手旗信号ハ手旗ノ操作ニ依リ単簡ナル命令、報告ヲ伝達シ通信ヲ補フヲ以テ目的トス」とし、また、使用する時機を「○船艦ト陸上軍隊間ノ通信 ○前哨各部ノ連絡及前哨ト本隊間ノ通信 ○要塞各堡塁砲台間ノ通信 ○交通不便ナル両地間ニ於ケル通信」と定めている。
 日露戦争を「情報優位の傘」の下で戦ったのは、海軍だけではなく陸軍も同じである。
 日本国内の通信網と複数の海底ケーブルで朝鮮半島を結び、そこから軍専用電信線を部隊の展開拠点まで仮設し、さらに当時は、既に量産化し普及していた有線電話で前線の部隊まで繋いだ。すなわち、前線の部隊と東京の参謀本部間は全て有線の通信網で接続されていた。
 また、前線部隊では前述のような場面で手旗信号が活用されていた。歩兵、砲兵、工兵には手旗信号の教育を受けた兵隊が含まれていた。
 明治四十四年、一般の商船にも海軍式手旗信号が適用されるようになった。戦後は、昭和二十七年の運輸省告示により「日本船舶信号法」が制定され、海軍式手旗信号は今も使われている。



おわりに

 それにしても、島村から現場の士官・下士官・兵に至るまで上下一体となって、手旗信号の開発改善に取り組んだ当時の先達の進取の気概と国家のためにひたむきに尽くす姿勢に感動さえ覚える。
 日露戦争の勝因のひとつといわれている伊集院信管を発明した伊集院五郎少佐、下瀬火薬を発明した下瀬雅允海軍技師、魚雷の縦舵機を開発した関才右衛門大尉、三六式無線電信機を開発した外波蔵吉少佐、木村駿吉海軍技師、山本英輔中尉、数えあげれば際限ない。いずれも海軍現役士官・技師である。海軍軍人全てが、階級を問わず、職域を問わず、それぞれの立場で、あらゆる分野に関心を持ち運用装備の開発改善に取り組んだ。もちろん海軍軍人だけだはなく多くの民間人も同様に開発改善に取り組んだ。
 明治五年に海軍を創設してから僅か三十数年で、清国海軍、ロシア海軍を打ち破る海軍に成長したのは、こういった一人一人の努力の結晶があったからであり、その背景にあるのは国民の国家に対する忠誠心であろうか。国家と国民が一体感を持ち得た時代であった。
 先達の足跡を振り返り、その功績を記憶に刻み、次世代に伝えていかなければと思う。    
(おわり)

東郷会機関紙「東郷」(28年5・6月号)より転載