「ある会社顧問(防衛省元将官)の独り言」
 第33回 歴史の裏読み

堀口 紀博

 講演(10 月25 日)で陸上自衛隊衛生学校所蔵の医史学史料の紹介をしました。元々は旧陸軍軍医学校所蔵の資料です。
 敗戦時に多くの資料は焼却処分されました。大量の処分が困難なため大東亜戦争に関係がないと思われた明治期の資料は一部残されました。戦争に負けると軍事衛生資料さえ焼却処分です。戦争は負けてはいけません。
 残された資料の中で、明治9(1876年)廃刀令に激怒した熊本の元士族の反乱(神風連の乱)時の刀傷図があります。当時の軍医総監がこの戦闘は刀による最後の戦闘であると考え、明治天皇の御影を描いた高名な洋画家に刀傷図を描かせました。さすがに一流の画家です、傷の部分、切られた人の表情等すばらしいものです。(下記「神風連の乱」刀傷図 参照)
 しかし、よく考えると何故明治9年に刀で切りあったのか不思議です。
 種子島の鉄砲伝来(1543 年)の約30 年後、織田信長は約1000 丁の火縄銃を用いて武田軍に長篠の戦い(1575 年)で勝ちました。
 徳川政権300 年、日本には刀はあっても鉄砲は無かったということです。徳川時代はきわめて平和な時代であり、豊臣秀吉の刀狩(兵農分離政策;1588 年)以来徹底して武器を管理したことがわかります。
 武器が無ければ平和になるというのは現在一部の人々が主張することですが、国内だけならば政権に歯向かう者は無いので、正解かもしれません。
 しかし、諸外国では現在でも武器狩りが出来ている国はきわめて少なく、自衛隊が派遣されたカンボジア、イラクなどは夜になると銃声が良く聞こえたそうです。米国では学校での銃乱射事件がよくマスコミを騒がせます。
 神風連の刀傷図はすべて切り傷です。後世に残す為の日本刀による刀傷図は当時普通に見られる刀傷ではなく、希少価値のある、珍しいものでした。
 日本刀は切る武器ではなく、突き刺す武器というのが当時の常識です。切る刀は直刀(柄の部分が短すぎで、すぐに目釘が役立たなくなります)ではなく、中国で見られる円錐形をした曲刀です。円弧を描くように刀を使わなければ人は切れません。
 チャンバラ映画のように、日本刀でばったばったと人を切ることは出来ません。神風連の刀傷図では、ばっさり切断されているものはありません。よく切れて腕の骨一本くらいです。更に、人体は脂肪分が多いので、刀は直ぐに切れなくなります。
 「神風連の乱」の刀傷図を見ただけでも、当時の常識や武器に関する歴史的変遷を考慮に入れれば多くのことが分かってきます。
 現代でも資料を読み込む「人の力量」により、得られる情報量は左右されます。優秀な人の成功体験の共有(資料の読み込み)は中々困難だと思われます。
 個人の歴史と能力と社会環境により成功できたことは、その人独自の成功にしかなりません。社内、部内で共有し、実施し、成果を挙げるように普遍化することは出来ません。
 しかし、出来なかった事、「不成功体験」は、皆の参考になるかもしれません。「負けに不思議の負けは無し」と言います。負けるのは、売れないのは、必然の事象があると言えます。そんな必然のマイナスを無くしていく努力のほうが、成果に結びつくのではないかと思えます。
 今ある出来事は、急に現れてくるわけではなく、「因果の法則」から見て、原因があり、結果があります。マイナスの原因を無くすことで社業の繁栄が出来ることもあるでしょう。歴史を裏読みしてみたら、こんな独り言になりました。なお、先月号の読んだよメールは計16通ありました。これは氷山の一角であろうと思います。この10 倍、20 倍の人に愛読されていると、私は勝手に誤解しています。今月もメールを待っています。

(続く)