「平成13年度遠洋練習航海回顧録」第二回

第46代練習艦隊司令官 保井信治


 5月27日深夜サンゴ虫が満天の星屑のように鮮やかに煌めくホルムズ海峡を通峡し、29日ミナ・サルマンに入港した。岸壁は米海軍第5艦隊施設に隣接しており、機銃を構えた小型ボートが周囲を監視し、港口周辺を中心に侵入防止索が展張されているなど米海軍の厳しい警戒の実情を垣間見ることになった。写真はバハレーン海軍司令官を表敬して、同司令官からブリーフィングを受けているところ。

 以下は聞いた話である。実はバハレーンは島国でありサウジアラビアとは長さ25㎞の近代的な橋で結ばれている。普段は通る車もまばらなこの橋が水曜、木曜、金曜日は渋滞する。サウジアラビアから酒を求めて、大勢がやって来ては一泊して帰ってゆくというのである。バハレーンではホテルやレストランで酒が飲める。酒に関してはいろんな噂を聞いたが、時には厳しいイスラムの戒律から離れることも必要なのであろう。この橋はサウジアラビアの安全弁、ガス抜きは万国万民共通の必需品なのだ、と改めて思う。

 閑話休題、バハレーン海軍及び米海軍と各種交換行事を通じて親睦を深めたのち、31日シュワイク(クエート)に向け出港した。第5艦隊司令官ムーア中将は横須賀勤務も長い旧知の親日家であり旧交を温めることにもなった。











クエート

 ミナ・サルマン出港後バハレーン海軍艦艇と、午後は米海軍及び仏海軍艦艇と3か国の、翌1日はクエート海軍とそれぞれ親善訓練を行い、2日クエート(ダンマン)に入港した。米・仏・日、3か国親善訓練(写真)は基本的な陣形変換運動を行った。親善訓練とは、まさに親善のための訓練であるが、外見ではわからない外国軍艦の基本性能、乗員のレベルなどが垣間見えることもあり貴重な機会である。

 バヤーン宮殿でジャービル首長への表敬訪問が実現した。これはクエート側から湾岸派遣掃海部隊の功績に対する敬意を示す形で行われ、大々的に報道された。会話は侍従を介して間接的に進められた。こちらの挨拶などに、首長は言葉短く答えられるのであるが、その都度、直接通訳が訳す前にそのお言葉を侍従が敷衍するのか少し長めに話している。 通訳はそれを聞いて長々と翻訳するという妙な会話が繰り返された。短いお言葉がなぜかくも長くなるのか不思議な気がしていた。アラビア語には短い単語にも深い意味があるのかも知れない。
 湾岸戦争の捕虜は当時もその多く(数百名)が行方不明であり、同国の最大の関心事であった。残された家族から22名を「かしま」に招待して、ともに鶴を折り、乗員作成分と合わせて、行方不明者の早期帰国を祈る千羽鶴として贈呈した。6月4日ダンマン(サウジアラビア)に向け出港した。









サウジアラビア王国

 6月5日ダンマンに入港した。研修は同地及び首都リヤドで行われた。リヤド行き航空便に乗り込むと我々の指定席に黒づくしのご婦人たちが既に席を占拠している。CAに言っても全くらちが明かない。いつものことらしく、どこにいるのかご主人様の言うことしか聞かないらしい。CAもお手上げであった。
 ダンマンでの艦上レセプションには東部艦隊司令官並びに東部軍管区司令官(写真)の両名が出席された。防衛駐在官によればいずれかの1名でも他国海軍のレセプションへの出席は前例がないという。日本に対する関心の高さを示すものである。
 停泊中のとある朝のこと、艦橋から外に出ると何となく涼しく感じたので、「今の気温は何度?」と確認したら、「40度です(℃)。」という。「そりゃ涼しいはずだ」と思う。ここにきて温度感覚が完全にずれていることを認識させられた。北国育ちは南国に順応することが難しいというが、そうでもないのではないか。



 また、サウジアラビアはイスラムの戒律が厳しく、宗教警察が市内を巡回している。婦人自衛官には現地女性が纏うアバヤ(眼だけを出す黒い衣装)を購入させた。
 8日ドーハ(カタール)に向け出港した。出港後サウジアラビア海軍と親善訓練を行った。











カタール


 6月10日ドーハに入港した。カタール国立劇場で音楽隊及び「かしま」祥瑞太鼓の演奏会を開催した。各国大使を始め多数来場し、アンコールの拍手が鳴りやまなかった。 また、同港には英海軍駆逐艦「ランカスター」が単艦入港していた。艦長は少佐であったと記憶しているが、早速、SOPA(所在先任指揮官)である本職(日本国練習艦隊司令官)を訪れ情報を共有することができた。これは国際的な海軍の慣例であるが、彼のスマートな対応に英海軍の伝統を感じた。ドーハでは実習幹部対カタール海軍選抜チームとのサッカー交歓試合を行った。残念ながら「ドーハの悲劇」は繰り返し惜敗した。12日出港、フジャイラ経由タマタブ(マダガスカル)に向かった。











マダガスカル共和国



 6月25日タマタブに入港した。礼砲の交換に手榴弾を使用していたとは後で聞いた話である。雨の中の入港行事となったが、その中で日本国歌が吹奏され、多くの人々に出迎えられた。マダガスカルはアフリカに最も近いアジアと言われ、マレー・インドネシア系の人々がモンスーンに運ばれて建国した国である。主食は米であり、顔つきも似ているので親近感を覚えた。
 首都アンタナナリボには旅客機で移動して6月26日の独立記念式典に出席した。大統領観覧席に近い特別席に位置した黒制服の集団は目立ったと思う(写真上)。大統領もスピーチで我々のことに触れられた。大統領への挨拶はレセプション会場で行うはずが急きょ変更されレセプション終了後大統領府内において懇談することになった。御婦人と外相が同席された(写真中。ラチラカ大統領は仏海軍士官学校を卒業され日本寄港の経験もあり約30分間話題には事欠かなかった。
 7月1日タマタブを出港して7月3日強風の中、マ島北端アンティラナナ(ディエゴスアレス)に入港した。港を見下ろす高台に特殊潜航艇4勇士の慰霊碑が建てられており、その前で慰霊祭を行った(写真下)。風速15メートル以上の風が吹きすさぶ中での慰霊祭であった。ちなみに、特殊潜航艇4勇士とは。第2次世界大戦中の1942年、ドイツ軍の要請により、帝国海軍は航空機搭載の大型潜水艦伊10、戦殊潜航艇(甲標的:2人乗り)各1隻を搭載する潜水艦伊16、伊18、伊20をインド洋の連合軍攻撃に派遣した。5月31日航空偵察の結果アンティラナナ湾内に敵艦を認め、湾外において特殊潜航艇2艇(各艇乗員2名)を発進、湾内に侵入させて、英戦艦「ラミリーズ」大破、油槽船1隻撃沈の成果を上げた。しかし、4名とも帰還せず。2名は陸上で銃撃戦の末戦死、英軍の手で埋葬され、他の2名は不明である。
 終了後出港、マスカット(オマーン)に向かった。
 なお、首都から戻った日の深夜、音楽隊のN1曹が心肺停止の状態で医務室に運び込まれたと知らされた。飛び起きて医務室に行くと医務長以下が懸命に救命の手当てを行っていた。数時間後N1曹は意識障害から回復した。しかし、原因が不明であった。周辺には適当な病院施設がないため、検討した結果フランス経由航空便で帰国させざるを得なかった。マダガスカルからパリまでは医務長が同行し、海幕衛生企画室からパリの空港まで付き添いの医官を派遣していただいた。