海上自衛隊は戦前の帝国海軍時代からの制度を受け継ぎ、新しく士官に任官した初級幹部の教育訓練のため毎年練習艦隊を海外に派遣(指揮官:練習艦隊司令官)し、併せて訪問国との親善交流を図ってきている。この約5ヶ月にも及ぶ遠洋練習航海(以下「遠航」)は昨平成28年で60回を数えたが、長い遠航の歴史は多彩な秘話、エピソードの宝庫でもある。
 このコーナーでは、退官後十数年を経ておおむね認知症初期世代にさしかかり、記憶も曖昧になりつつある歴代練習艦隊司令官の面々にご登場いただき、今だからオープン出来る苦心談、感想等をざっくばらんに綴って貰うこととした。題して、~元練習艦隊司令官が呟く「遠航こぼれ話」~。
 遠航については各種の公・準公的記録があるが、執筆に当たっては、特にこれらに記述されていないエピソード(秘話)を中心に、船乗りの気風、醍醐味を一般の人にも分かりやすいかたちで記述していただくようお願いした。




元練習艦隊司令官が呟く「遠航こぼれ話」(第1話)
 環太平洋墓参りコース三題

平成8(1996)年度 山田 道雄
(その1)「鹿島立ち」の風景

 俗に「鹿島立ち」という。日本大百科全書によれば、「旅行に出発すること。旅立ち、門出。奈良時代、東国から筑紫、壱岐、対馬などの要路の守備に赴いた防人(さきもり)が、任地へ出発する前に鹿島神宮に道中の無事を祈願したことに始まり」とある。
 毎年行われる遠航の出港風景は、練習艦隊の旗艦「かしま」を先頭に出発するだけにこの表現がピッタリと言えよう。従って大勢の観衆が見送る中でいかに整斉とスマートに出港するかについては、歴代の司令官・艦長の腐心するところだ。また、辛口の先輩諸氏の一言も現役の将官には気にかかるところ。といっても、特別派手なパフォーマンスを行うわけでもなく、ただ平素のとおり淡々と出港作業を実施するだけ。しかし、不思議なもので同じ作業をやってもその部隊の気風とか各指揮官の統率ぶりが自ずと現れてくるもので、それが全体として“スマート”とか“見栄えが悪い”という印象や評価になる。

 最近2ヶ年の例を見てみよう。平成27年度の遠航は、東京の晴海埠頭から「かしま」以下「やまぎり」「しまゆき」の3隻がスマートに出港して行った。いわゆる中抜き出港といわれる方式で、「かしま」とその後方の埠頭に横付けしている2番艦「やまぎり」、3番艦「しまゆき」を同時にタグボート(曳船)で曳き出し、「かしま」、その後方内側の「やまぎり」、外側の「しまゆき」の順で適度の距離で縦列になって出て行く。こうすると曳船の使用時間が短縮され、1番艦から2番艦・3番艦と順番に出て行くことになるので“スマート”となる。しかし、曳船の曳き出し要領や2・3番艦の発進時機等、特に風が強い場合は結構難しく危険に陥ることもある。また慎重なあまり時間をかけたり、前の艦との距離をとりすぎたりすると間延びしたものになり、とてもスマートとは言えなくなる。発進時の使用速力も重要な要素であるが、この場合は、、毎秒数メーターの吹き離しの風の中各艦原速(12ノット、時速約22.2km)を使用して発進したので、3隻が遠ざかりレインボーブリッジを通過するまで10分とかからなかった。
 注:「吹き離しの風」とは、埠頭側から埠頭に横付けている艦に向かって風が吹いている状態で、艦と埠頭を結んでいるロープを緩めると容易に艦は埠頭から離れることができ、短時間で出港が可能となる。一方、「吹き寄せの風」とは、この逆で艦が埠頭側に圧迫されるため、曳船を使用して埠頭との距離を十分にとる必要がある。
 発進速度で1つのエピソードを思い出した。ある年、幹部候補生学校のある広島県江田内湾を某地方隊の某護衛隊が半速(9ノット、時速約16.7km)で出港した。出港する艦艇に乗艦した卒業生を在校生、隊員、家族等多くの人が見送っていたが、「帽振れ」する右腕がしびれるほど時間がかかった。
 注:艦船の出航等に際しては、制帽を手に持って頭上で振る「帽振れ」と呼ばれる帝国海軍からの伝統的な見送りが行われる。
 傍にいたOBの故佐久間一元海幕長(当時水交会会長)が、「お嬢さんのような出港だったね」と当時呉地方総監だった小生に呟いた。「隊司令が挨拶に来た時よほど出港要領に言及しようと思ったのですが」と暗に指揮系統外の他の総監隷下部隊であることを仄めかしたら、「それは君の仕事だよ」とやんわり(呉・江田島地区)所在最高指揮官としての職務を指摘され、自らの不明を恥じた次第。
 閑話休題。出港を見送ってから、近づいてきたT海幕長に「今日の出港はいかがでしたか」と聞かれたので、「近来稀に見るスマートな出港」と答えたら、「早速司令官に伝えます」とのこと。実はこれには伏線があった。この鹿島立ちから2ヶ月前、同じ練習艦隊司令官が統制して外洋練習航海部隊を含む計5隻の艦艇が広島県江田内湾を出港した。江田内湾の場合全艦錨泊からの出港になるので、「一斉抜錨逐次出港」方式となる。すなわち、卒業生乗艦後司令官の令により各艦一斉に錨を上げ、先頭艦から順次一定距離を保ち縦列で発進して行く。卒業生が上甲板に整列し、数百メーター沖合を逐次出港して行く各艦を、陸岸から海幕長や学校長はじめ部内外の多くの観衆が見送る中、5番艦の錨が揚がらず出港できない状況となった。実は江田内湾には捨てワイヤ等の海中異物が結構あり、錨に絡むことを想定してこのような晴れがましい舞台においては、予め早めに錨を揚げ海中に吊下した状態で待機するというのが先人からの知恵。幸いトラブル発生は最後尾艦であったため一般観衆からはそれほど目立たない格好となったが、あまり前例のない事態に海幕長としては内心忸怩たるものがあったと思われる。
 翌28年度の遠航は、横須賀港の逸見岩壁から出港した。晴海埠頭が都合で使用できないため、横須賀地方総監部構内の岩壁から初めての遠航部隊の出港であったが、防衛省・外務省等部内外機関や家族、地元民等から例年同様盛大な見送りを受けた。
 この時は、港内が狭隘なため逆番号順出港となった。すなわち、「かしま」外側の3番艦「せとゆき」がまず解纜(らん)出港、続いて前列の2番艦「あさぎり」、最後に旗艦「かしま」が出港した。各艦とも曳船と自力で50度以上右回頭しつつ港外に向かわなければならないので、一般には相当時間がかかる。10メーター近くの吹き寄せの風の中、曳船を効率的に使い、狭い港内を安全かつ短時間に、“見栄えよく” 出港して行った。
 この時も近くにいたT海幕長に「安全かつスマートな出港」と感想を述べると、「D横総監が直接指導したと聞いています」とのことで、後進を育てる船乗りの良き気風が残っているのを知り老兵としては嬉しく思った次第。
 さて、20年前の自らの平成8年度遠航に遡ろう。この年の遠航はいわゆる環太平洋・大東亜戦争戦跡ルートであり、レイテ沖海戦等洋上慰霊祭6回、各寄港地等で献花・追悼式計21回を行うという遠航史上も異例のもので、別名「墓参りコース」と言われた。
 また、各級指揮官の容貌、性行からひそかに「極道艦隊」と呼ばれ、、随伴艦「さわゆき」の故清原洋艦長も遠航中の川柳大会で、自嘲的に「極道がオーストラリアの献花旅~さわゆき組組長」と詠んだほどだ。
 この年の遠航の随伴艦は護衛艦さわゆき1隻であり、江田内出港時も計2隻という寂しいものであった。それでも前日は先人の教え通りの要領で入念なリハーサルを行い、当日は難なく出港できた。  また晴海出港においては、殆ど記憶になかったが当時の私的メモには、「旗旈“TO THE SEA”一杯、一斉解纜(らん)一斉出港、距離150メーター(両艦の水空き約50メーター)、前進半速で発進」とあった。当時の幕僚の記憶によれば2番艦さわゆきは搭載ヘリのブレードを展張したという。多分“見栄え”を意識したのであろう。

(その2)遥かなる「パールハーバー」

 遠航のような長期航海では大小いろいろな事故や危険事象が生起するが、よく「艦首が日本に向いてからが一番危ない」と言われる。平成8年度遠航は、いわゆる環太平洋コースで、最後に韓国・プサンに初めて寄港して帰国する航路であった。専ら韓国訪問が最大の難関といわれていたが、結果的にまだ日本に向かないフィジー(スバ)~ハワイ(パールハーバー)間が航海最大の難所となった。「さわゆき」の患者発生と「かしま」の機関故障という大きな事案がほぼ同時に生起。患者は盲腸炎と診断されたが、場所は中部太平洋のど真ん中、東経180度の日付変更線付近で陸上までの輸送は困難な海域なので、「かしま」艦内の医務室で手術をする決断をした。「かしま」就役後初めての艦内手術とあって医療関係者は緊張したが、無事手術は成功した。
 それでも腹膜炎を併発し症状はかなり深刻な状況だったようで1時間以内の予定が約4時間かかり、途中から全身麻酔に移行したほどだった。かくて執刀医の若いさわゆき医務長が血だらけの手術衣のまま艦橋に上がり、「船を揺らすな!」と叫んだとかいう逸話を残すことになる。
 この艦内手術事案の直後、文字どおり一難去ってまた一難、「かしま」の右推進器プロペラ翼角の制御が不能となり艦内修理不能、次の寄港地パールハーバーで本国から技術者が来て修理することになった。減軸の左軸運転のみで出しうる速力は14㏏(時速約26km)。ハワイまでの進出速力は12㏏で計画していたので大変厳しい状況である。しかも、入港前に米海軍の補給艦との洋上補給と原子力潜水艦との共同訓練を計画しており、予定通り会合点にたどり着けるかがまず問題だった。しかし、これも実戦と考えれば…と強気で実施、片軸運転常時あて舵約10度で米艦「シマロン」から洋上補給(燃料、生糧品等)を行い、米原潜には平均速力12㏏で対潜訓練の実目標として行動してもらい、パールハーバーにも片軸運転で何とか予定通り入港した。幸いにも港内進入後は岩壁横付けまで全て右回頭で助かった、とベテランのYかしま艦長も当時を回想している。「かしま」の1件はハワイ在泊中米海軍内でも話題となり、しばらくは“Fourteen-knot Kashima”と勇名を馳せることになる。
 しかし、フィジー~ハワイ間航路のほぼ中央で2つの難関に遭い、パールハーバーまでの1週間の航程がなんと遠かったことか…手元にある川柳大会句集には、「盲腸と片軸(ちんば)で越える日付線~タラワの亡霊」とある。
 注:潜水艦に対する韜晦のため左右両軸のプロペラの回転数を意図的に違えて機関を運転することを、昔から俗に「ちんば運転」(現在は「不均等運転」と改称)、故障等のため一方の軸を固定して運転することを「減軸運転」と称するが、ここではやっと難関を越えたという当時の心境を重んじ敢えて原文のままの表現とした。タラワ島はこの事案の前に通過したギルバート諸島の島で、マキン島とともに、日本軍守備部隊の中部太平洋初めての玉砕の島。
 毎年の遠航において、必ず長期の航海に堪えなくてメンタル(ボディ)・ダウンする乗員が数名発生し、途中帰国を余儀なくされる。この年も案の定2名発生した。しかも出港直後のまだ最初の寄港地に入港しない時期に、である。一人は「かしま」の実習幹部で網膜剥離の疑いで入室中、このままでは同期の足を引っ張ると帰国療養を希望。もう一人は「さわゆき」の調理員で出港直前航空部隊から転属し艦内の人間関係がうまく行かずノイローゼ気味で退艦を希望するという状況だった。
 いずれも両艦長、医療チームの判断は次のバンコックで退艦、本国送還が適当というものであった。前年の遠航においてインド洋で実習幹部1名が行方不明(自殺と推定)という事故もあり、帰国という判断もやむを得ないという事情もあった。しかし、出国早々から2名も帰国していたらこの航海は収拾がつかないと部隊指揮官の権限で帰国を許可しなかった。因みに、実習幹部には直接面接しバンコック入港後専門医に受診(入院不要)させ、調理員には監視を強化することにして状況を見た。その後実習幹部の方は精神的に立ち直り暫く訓練に励んでいたが、眼底出血の症状が出たのでドクターストップとなり、日本出発から約2ヶ月経過後の豪州からやむなく空路帰国させた。その際、精神不安定な調理員も一緒に帰国させることにした。このような場合、通常は衛生員等が成田まで付き添うのが一般的だが、この時は帰国する実習幹部の申し出により彼自身が付き添い者となり帰国した。因みに、それ以降約3ヶ月の遠航期間中、帰国者は1名も出なかった。
 こういった「患者」が発生した場合の医官と指揮官の関係には微妙なものがある。医官の診断結果と部隊としての任務遂行との兼ね合いである。この時も任務を優先する指揮官の決断に、医務長は一時悩んで昼休みのカードにも顔を出さない時期もあった。しかし、最終的には初めてでかつ困難な艦内手術を成功させ、医療チームは見事に職責を全うしたと評価できる。その後の遠航においてこの種患者はかなり発生していると思うが、艦内で手術した例はついぞ聞かない。今や稀有となったこの事案は、当時の医療関係者には大変貴重な経験・教訓となり、その後の勤務においても大きな自信となったものと信ずる。(http://www.jpsn.org/?p=11096#17

(その3)異聞「トラック島沖通過事案」

 最近は「トラック島」も死語となりつつある。現在の名称はミクロネシア連邦のチューク州の州都、チューク諸島。西太平洋カロリン諸島の諸島で、かつては「トラック諸島」と呼ばれていた。周囲200km、248もの島々からなる世界最大級の堡礁である。アメリカの旧植民地フィリピンと太平洋艦隊母港の真珠湾を結ぶライン上に位置するという地理的重要性と、太平洋の荒波から環礁によって隔離された広大な内海という泊地能力の高さから“日本の真珠湾”とも呼ばれ、旧日本海軍の一大拠点が建設された。(「ウィキペディア」から引用)
 平成8年度の遠洋航海のハワイ(パールハーバー)~グアム間行程の途中、少し南下してこのトラック島の環礁沖合を通過することにした。かつての日本海軍の艦隊泊地で戦跡でもあるトラック島を遠望し、併せて国際法上の領海内の無害通航を体験させることが目的だった。
 無害通航については、前月のマキン・タラワ島沖の例もあり問題ないと考えていたところ、直前になって東京(海幕)からストップがかかった。各艦とも前日には実習幹部にトラック島戦史や国際法の講話までしてこの日に備えていた。腑に落ちないので東京に電話したら、どうも本庁(内局)に対する配慮のようだ。リムパック訓練に米国派遣されている別の部隊が、対空射撃訓練で誤って米軍の標的曳航機を撃墜するという大事故を起こした直後で、本庁の海自に対する不信感が高まっているらしい。計画以外の余計なことはやめて欲しいという官僚的心情は十分理解できる。しかし、当方も教育現場の部隊指揮官としての立場もある。「実はもう領海に入っている。出かかった小便を途中で止めろと言っても間に合わない」と防衛部長に言ったところ、ちょっと待ってくれと言って上司に報告したらしく、「入ってしまったものは仕方がないとの内意」との返答。「なぁんだその程度か」と思い予定通り実行した。しかし、領海外ギリギリで艦載ヘリを発艦させ航行する2隻を写真撮影したが、中央の意向を尊重し領海内航行はすれすれの線にとどめた。おそらくかつて部下だった中央の担当課長と直属の旗艦艦長の諫言が効いたのだろう。
 あれから20年…この事案は特に実害もなかったこともあり個人的にずっと封印していた。しかし、齢古希を越え今静かに振り返ってみると、一つの反省・教訓事項として後進に残しておきたいと思うようになった。長い人生において誰でも自分の実力と幸運を過信し絶好調の時期があるものだ。
 この事案の約2か月前、豪州のメルボルン~アデレート間の行事、航海に参加するため水交会会長の元海幕長の故中村悌二氏(以下海軍からの慣例に従い「中村さん」)が「かしま」に乗艦された。仕えたことはないが、自衛艦隊・護衛艦隊両司令官を務めた海軍時代からの船乗りで、海自現役時代は大変厳しいことで知られていた人だった。中村さんはご老体にも拘わらず、毎朝艦橋に昇るのは誰よりも早い。艦内を隈なく回り、豪州空軍哨戒機との協同訓練も含め熱心に各種訓練を見学された。
 中村さんが帰国のため最後に艦を去られる時、言われた言葉を今も鮮明に記憶している。「この1週間、司令官の統率ぶりや部隊を見せていただいて何も言うことはありません。この遠航は間違いなく成功するでしょう。ただ老兵の一言として言わせてもらうならば、自分が順調と思っている時が実は一番危ういということです。かつての帝国海軍がそうでした…」とポツリと言われた。当時はその言葉をあまり気にかけていなかったが、この事案やその後の勤務を振り返ると、やはり先人の言葉は重いなぁと改めて認識する次第…
 指揮官と幕僚間の意思疎通は、日常近くで接していることもあり比較的容易に図れるものであるが、上下関係の高級指揮官同士については特に海外派遣等遠距離で往来や電話連絡が間々ならぬ場合は困難な状況となる。いくらお互い昔からよく知っているといえども立場が変わると考え方も変わってくるので、幕僚調整のみでなく直接意思疎通を図る努力が必要である。そう言えばかつて遠航担当で中央勤務していた当時、練習艦隊司令官から海幕長によく手紙が来ていたのを思い出す。また、かの山本五十六等旧海軍の将官も平気で公的内容を部内高官と私信(手紙)でやり取りしている。現代においては、海外でも公的電報以外にメール等の手段があると思うが、意思の疎通や安全性においては古典的な直筆の手紙の有効性は変わらないと思う。今思えば筆者の場合、公的電報を過信し私信の手紙を一度も書かなかったことが悔やまれる。
 実はトラック島事案には後日談がある。戦前トラック諸島のトノアス島(日本名:夏島)には旧海軍第4艦隊司令部があり、横須賀の海軍料亭「小松」の支店があった。昭和19年2月の米軍機による空襲で小松の芸者等4名が死亡したという。2代目の山本直枝女将は95歳で亡くなったが、生前トラック島を慰霊訪問することを熱望していた。実は今回の遠航でトラック島沖を通過したのもこの件が念頭にあった。帰国後、「さわゆき」艦載機から撮影した旧春・夏・秋・冬各島を背景に航行する練習艦隊2隻の写真を届けたら、大変喜んでくれた。彼女はトラック島訪問を果たすことなくそれから8年後に逝去したが、よほど嬉しかったのだろう、この写真はずっと小松の待合室に飾られていた。
 昨年の遠洋航海の出港直前、司令官、艦長の壮行を兼ね小松で小宴を計画した。ところが、その2日前に小松が不慮の火災で焼失してしまった。旧海軍・海自の士官に「パイン」という愛称で親しまれた創業130年を誇る老舗も今はない。因縁のトラック島の写真も焼失したそうだ。その写真には意味不明の川柳が書かれていたという。…(川柳1句)「トラックでパインを捜す司令官」
http://www.jpsn.org/?p=11096#19

                            (完)