翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

VP課程「P2V-7」――鹿屋 (1)

 昭和三十七年(一九六二年)、早春。四カ月ぶりの鹿屋である。
 階級が一つ上がり、そんなことより何より胸にウイングマークが光っている。ほとんど誰も見てもいないし言いもしないのだが、
「どうだ、一回り大きくなったろう」
 周囲の人に、またSNJでお馴染みになった鹿児島の海に山に、胸を張って誇りたい気分である。
 VP‐五一、これが私のVP課程でのクラス名である。クラスメートは幹部学生の竹添三尉たったの一人。つまリクラスがわずか二名でザッツオールである。課程が進むにつれ、クラス編成がだんだん小規模になる。
 それはともかく、SNJ、SNBと博物館行き目前の飛行機から、今度は米海軍部隊でもまだ一部にしか配備されていないという最新鋭の対潜哨戒機P2V‐7である。内部の装備、計器類も世代が違うのが歴然である。
 巡航速力も、メンター、SNJ、SNBと、いずれも一二〇から一三〇ノットだったのに比べて、約一・五倍の一八○ノット、全備重量も三四トン、ひと桁違う。
 操縦席に着くと、これまでとは目線の高さが格段に高い。三階から見下ろす高さである。こんなデカいのが自分に操縦できるかしらと、反り加減になっていた背すじが少ししおたれてくる。
 VP課程の正式名称は、「操縦実用機(VP)課程」である。しかし、頭についた「操縦」の二文字はやや羊頭狗肉の感がある。
 なぜなら、ここでの課程の主眼はP2Vの操縦ではなくて、航法だからである。それも操縦しながらやるコックピット航法じゃない、ナビゲーター席に座っての本格的航法。

 面倒でもここでまた説明が要る。
 現在のP-3C部隊には、戦術士なる戦術と航法の専門家がおり、一機に二人が乗り組み、一人(NAVCOM)が航法、通信、もう一人(TACCO)が対潜戦の遂行と、手分けして切り盛りしている。
 しかし、昭和三十年代半ばのこの時期、NAO (NAVAL AVIATION OFFICER)と呼ばれる旧軍の偵察員出身者あるいはレーダーマン、レディオマン(通信員)などから教育を受けて転身した航法戦術の専門家がいるにはいたが、それはごく少数で、航法・戦術は共にパイロットの職掌であったと言っていい。
 P-3Cでは、新前コパイロットといえども最初からコックビットに座ることが許される。とにかく後部席には仕事がないのだから当然ではある。
 しかし、この当時のパイロットは、まず3P (サードパイロット、即ち取りも直さずナビゲーター)をやらされる。ある程度の経験を積んだところで2P (コパイロット)、これを務め上げてようやく1P (メインパイロット、即ち機長)という段階を踏まなければならなかった。(1P・2P、3Pという呼び方は、パイロットとしての資格を表わすもので、機内の配置でいう場合は、1Pは機長[メインパイロット、略してメンパイあるいは単にパイロット]、2Pはコパイロット[略してコパイ]、3Pはナビゲーター[略してナブ]となる)
 航空学生の場合は入隊後六年で幹部に任官、通常、任官後すぐに機長になる。したがって幹部になるまでの六年のうち、学生の課程が三年と三、四カ月、幹部になるための幹部候補生学校入校期間が六カ月、その残りの二年少々の期間でナビゲーターからコパイロツトまでを務め上げることになる。一般的には、ナビゲーターの期間とコパイロットの期間がほぼ同じ、各一年と少々といったところであった。