翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

候補生勤務 (3)

 沖縄から南西諸島、それに鹿児島県は、台風銀座である。一年に何回かは肝を冷やす事態が到来する。台風が来るとなると、小型機は格納するが大型のP2Vは全部を格納するほどのスペースがない。
 で、格納しきれない航空機は台風のコースから外れた安全そうな基地に逃げる。海上自衛隊用語で「台風避退」である。
「避退先は、石川県の空自小松基地。往復は修業の迫っているVP‐○○期の航法教育を兼ねる」
 こうなると、Vサインである。飛行計画は学生がやる。我々コパイロットはフライトプランにそれを丸写しして提出すればいい。面倒な計算いっさいなしである。ただし計算間違いがないかよくよく気をつけないと赤恥をかくこともある。
 避退先では、台風の動静をうかがいつつ地元企業に貢献すべく買い物をしたり、チンジャラしたり。台風を迂回して帰投できる状況になったら、やおら腰を上げて鹿屋に帰投する。
 台風の動きが遅いときは、ラッキー、もう一日、ということで息抜きが続く。が予想に反して台風の針路が避退先に向かって来たときは、大変である。大急ぎで町中を走り回って乗員を呼び集め、次の避退先に向かう。
 あるときなど、迷走台風に翻弄されて美保、小松、八戸、千歳と数日かけて転々としたあげく、ようやく帰れたこともあった。「ひまわり」もアメダスもない時代、台風の針路予想が難しい時代でもあった。

 昭和三十八年(一九六三年)七月、一等海曹に昇任。
 さらに日が経って、南国鹿屋でも朝夕は涼風が吹き始めた十月半ばのこと、
「第四航空隊勤務を命じる」
 え、幹部候補生学校入校までおいてもらえるんじやなかつたのか。ナビゲーターの段階を飛ばして幹部に任官したら1Pだ、と甘く見ていた前途がにわかに険しいものになってきた。
 四空は八戸基地に所在している。この年二空から分離独立したばかりの若い部隊でもある。
 青森県八戸基地に着任。まだ夏の気配が残る鹿屋と違って、明日にも白いものが舞おうかという季節である。
 当時の四空には、先輩、同期生、後輩とり混ぜて十数人の航空学生出身の候補生が勤務していた。最先任は、一期生の槌山汎候補生である。彼は私の高校の二年先輩でもある。努力家にバイタリテイーの粉をまぶして制服を着せたような人で、運動会の障害物競走では他人にひけをとったことがない。この人は、後年航空学生出身幹部のトップを切って一佐に昇任、かの二〇一教空司令として後輩パイロットの教育に大きな功績を残した人である。
 彼はすでにベテランといえる2Pで、我々三期生と同じ一曹だが、幹部候補生学校の課程を終わっており、来年四月の幹部昇任を待つばかりである。
 我々航空学生は、四月と十月に入隊、六年後の四月、十月にそれぞれ幹部に任官する。しかし幹部候補生学校の課程修了は六月と十二月なので、修業後も一曹のまま部隊に赴任して任官を待つ必要があったのである。

「まだナビゲーターの経験がないわけだな。他の三期生はもう2Pになっとるから気の毒ではあるが、やはリナビゲーターからやってもらおう」
 飛行隊長に引導を渡される。やっぱり……。
 ナビゲーター席にへばりついて、六時間以上もの飛行。それも、北の荒海の上を、荒れ狂い始めるという冬に向かっての、この時期に……。
 対潜捜索追尾攻撃訓練。
 レーダー捜索の段階は、三〇〇〇フィート前後の高度で飛行するからまだいい。これが追尾訓練にかかると、二〇〇フィートの低空までおりて、ひっきりなしの右旋回、左旋回である。
 たちまち吐き気が襲ってくる。しかし、そのための用意は、ちゃんとできている。ソノブイ(聴音ブイ)の投下位置などを表示する発煙筒のケース、プラスチックの円い筒で、ぴったり閉まる蓋もついている。