翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

飛行幹部候補生課程――江田島 (2)

 カッター訓練も当然ある。
 ここでは通常のカッターを漕ぐ訓練ばかりでなく、帆走訓練もある。
 カッターは船艇搭載の交通手段であると同時に救命艇でもあるわけで、尻の痛い思いをしつつ漕がなくても帆を張って進めるようになっている。
 カッターに帆を張った姿は、優美なヨットに比べると、クレオパトラと山姥ほども格差があるが、そう思って見れば、頼もしくもある無骨さである。
 帆の構造は、原理的にはヨットと同じだそうで、操作もヨットの操作とほぼ同じらしいのだが、私には肝心のヨットがわからないので、そう聞かされてもなんの足しにもならない。
 夜間帆走訓練というのもあった。前後の状況から押して江田島の南西の海面ではなかったかと思う。乗り組んでいるのは皆航空学生、それでも多少心得のあるのがいたので、これを艇長に祭り上げ、なんとか帆走を続けていた。漕ぎ手不要の航海なので、艇長役と帆を操る役の二、三人を除いて、みな重心を低くするために船底に座り込んでいる。
 そのうちに誰かがカードを取り出して、ブリツジをやろうと言い出した。ブリッジは飛行隊で最も一般的に行なわれているゲームで、これができないと仲間外れにされるしかないので、皆できるし好きでもある。
 座板にランタンを吊り下げ船底に屈み込んで、早速にゲームが始まった。
「ガリガリガリッー」
「なんだ、どうした。坐礁か」
 一時皆慌てたが、なんのことはない、そこら中にあるカキ筏の一つに乗り上げたのだった。
 ゲームに熱中していた我々は知らなかったのだが、操帆手はおろか艇長までがゲームをのぞき込んでいて、見張りがお留守になったのだった。
「帆走は、するなさせるな事故のもと」
 誰かが言い出して、この後、我々は帆を下ろし、カッターをカキ筏の杭につないで、交替しつつ終夜ブリッジを楽しんだのだったが、よくぞカキ泥棒に間違えられなかったものだと思う。
 総短艇という競技もある。これは起床にはまだ少し間のある時刻、
「総短艇―」
 という号令一下、飛び起きて岸壁に走り、逆J型の鉄柱にロープで吊り上げてあるカッターを海面に下ろし、沖のブイを回って戻って来る競技である。
 この競技は、何の予告もなく不意打ちで行なわれるのが通例であるが、地獄耳というのはどこにでもいるもので、どうカンを働かせるものかどこからか嗅ぎつけてくる。
「明日は総短艇が掛かるぞ」
「その根拠は?」
「さっき当直連絡に行ったら、机の上に教官同士の申し継ぎメモが乗ってた」
「この前は二位だった。今度はトップをとりたいね」
「いいことを思いついたよ」
 一人が言い出す。
 カッターは前部と後部にそれぞれ太いマニラ麻のロープを付けて吊してあり、そのロープの端々はほどけないようにしっかり結んである。彼は、他のチームのそれを更にしっかり締め上げて、簡単にはほどけないようにしておこうと言うのである。つまり、テキがロープをほどくのに手間取っている間にこちらは……という目論見である。
「そいつはフェアとは言えないな」
「おれたちは飛行機乗りよ。飛行機にカッター積んで飛ぶかよ。カッターは海の連中のもんだ。いわばおれたちはやつらの土俵で相撲を取らされるんだ。この程度はいいんだ」
「ま、面白い。消極的賛成としようか」
 暗くなるや彼は出掛けて行き、してやったりという顔で戻ってきた。
「水で湿らせたうえに思い切り締め付けてきた。明日は楽勝だ」
 皆ニヤニヤするが、後ろめたさのせいか笑顔がややいびつである。
 
 翌朝、情報どおり総短艇が掛かった。成績はまたも二位。妙なことにロープにてこずったチームはまったくなかったようだつた。折角湿しておいたのが夜のうちに乾いてしまったか。
 名案氏が非力で、締めようが足らなかったのだろうか。
 以後、二度とこれをやろうと言い出す者はいなかった。

 昭和三十九年(一九六四年)は、東京オリンピツクの年である。
 秋、いよいよ開幕。競技のニュースが新聞紙上に躍り、テレビ、ラジオもオリンピツク報道一辺倒になる。女子バレーボールで東洋の魔女たちの金メダルが日本中を沸騰させ、重量挙げの三宅選手、マラソンの円谷選手など自衛官選手の活躍も目覚ましかった。
 我々の毎日は、相も変わらず教務の連続である。が、昼休み、夕食後自習の始まるまでの束の間など、娯楽室のラジオ(今考えると、娯楽室にテレビすらなかつたのである)にかじりついて、日本選手の競技結果に一喜一憂したものであった。
 思えばこの頃が、日本経済が高度成長の坂を駆け上がり始めた、ちょうどその時期に当たるのではないだろうか。そして、東京オリンピツクはその前夜祭だったように思える。子細に数字をひもとけば別の答えが出るのかも知れないが、我々の生活感覚などからすればそう思えるのである。
 そんな感慨は、その年の夏、江田島所在部隊が池田勇人首相の部隊視察を受けたことと無関係ではないかも知れない。
 池田首相は、「貧乏人は麦を食え」と発言して物議をかもした政治家であるが、所得倍増論をブチ上げ、事実、日本の国を高度成長のスタートラインに据えた政治家である。もちろん、(とはヘンな言い方だが)訓示の内容などはまったく記憶に残っていない。
 この年の秋、池田首相は急病死、第一次佐藤内閣が成立する。

 年も押し詰まったクリスマスイブ、我々は課程を修了してそれぞれの任地へと散って行った。
 何年か後には、一般幹候以外の課程でも修業に引き続いて、グアム島方面などへのミニ版遠洋航海実習が行なわれるようになったのだが、当時は修業後は直ちに任地へ向かったのである。(グアムだろうがタヒチだろうが、船に弱い私には行かないで済む方が有り難い。いい時代に卒業したと思っている)
 私の赴任先は鹿屋の第一航空隊。三度日の鹿屋。最も馴染みの深い基地である。心は弾んでいた。