翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

入隊教育 ―― 呉(1)

 昭和三十四年(一九五九年)。
 この年四月十日、皇太子殿下のご婚儀が行なわれた。今の天皇皇后両陛下のご成婚である。
 その国民期待の晴れの日を数日後に控えて、すでに広島県呉市のこの一帯の桜は満開を過ぎようとしていた。海上自衛隊呉教育隊の塀に沿った通りの桜も、風の立つ度に盛大に花びらを舞わせて、辺りを白く煙らせていた。
 私はその花びらを浴びながら、受け付けが行なわれているはずの間に向かって歩きつつ、今日から始まるこの塀の中での生活のことをあれこれと想像していた。
 ……あの映画で見たような猛訓練がまだ存在するのだろうか。かの悪名高い「海軍精神注入棒」なる恐怖の棒はまだ猛威を振るっているのだろうか。
 制服の自衛隊員の姿を見たことさえ数えるほどしかない私には、軍隊にいた人の話、映画・小説のたぐい、人の噂などから得たこまぎれの知識を総動員し、ああでもあろうか、こうでもあろうかと想像をめぐらせるしかない。
 いつの頃からか、「愛される自衛隊」「開かれた自衛隊」といつた言葉を聞くようになり、事実最近ではその言葉どおりの存在になりつつあるが、創設後数年を経たばかりのこの時期、自衛隊はまだ国民にとつて決して身近な存在とは言えなかったのである。
 ともかくこの日、私は操縦学生(後年「航空学生」と改称された。以下、便宜上「航空学生」で統一記述する)第三期生として海上自衛隊に入隊したのだった。
 身分は二等海士、制服も一般の海士と同じセーラー服である。ただ階級章の上に、一定の課程を修了すれば三等海曹に昇任が約束されていることを示す銀色の桜のマークと、その上部に、航空学生であることを示す桜と錨のに翼の付いた小さなモールの記章が付く。(現在の航空学生は、制服自体が一般の海士とは異なる七つボタンの制服である)
 入隊当初のあの、オロオロとドタバタの連続のことは、雑多な記憶が順不同で残るだけで、どうにもとりとめがない。なにしろ高校を卒業したばかりで、これまでとは一から十まで違う生活に投げ込まれたのだから、それも当然である。
 現役隊員から選抜された数人を除いて皆スタートは同じで、オロオロもドタバタも、みんなでドジれば怖くないの精神で、恥ずかしさや焦りとは無縁でいられたのはおおいに助かった。

 ここで航空学生制度の発端について少し触れておきたい。

 航空学生制度が発足するまでの、海上自衛隊の操縦士のソースは次の三種類であった。
 ①旧軍での操縦士経験者
 ②幹部要員として採用された者の中から選抜された者
 ③若い一般隊員から選抜された者(乙種航空学生と呼ばれた)
 ③の乙種航空学生を、高校卒業生を対象として一般から募集するようにしたのが航空学生で、昭和三十三年(一九五八年)四月にその一期生が入隊した。採用は年二回だったので、半年後の十月には二期生が入隊する。我々三期生の入隊は、制度発足後ちょうど一年目のことになる。
 なお乙種航空学生については、人事上の扱いは我我とほぼ同じで、名実ともに紛れもなく我々の先輩なのだが、話の都合上、本書では新制度以降を「航空学生」として述べていきたい。
 ともかくもわが三期生の自衛隊生活は始まった。

総勢九四名。一、二期生がいずれも二十数名の採用だったのに比して、三倍以上に当たる大人数である。これを六コ班に分け、それぞれ班長が付く。
 一班長が新谷晋一曹、二班長が久田幸周一曹、三班長が上原正男一曹、四班長が麻野準七一曹、五班長が山本達実一曹、そして六班長が細川昭三二曹という布陣である。
 さらに一班から三班までと、四班から六班までの二教部に分けて、一教部に藤井薫二尉、二教部に稲妻秀夫三尉とそれぞれに分隊士が置かれ、壁谷正喜一尉が分隊長として全体を統括するという編成である。