翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

操縦基礎課程 ―― 館山 (4)

 少し教務について触れる。
 課目については先に述べたとおりであるが、それぞれ試験があり、規定の点数がとれないと不合格ということになる。ただし追試験(「リチエック」と称した)を受けて合格点をとればそれでいい、というところまでは普通の学校と同様である。(かく言う私も、いちおう人並みに二科目ほどリチエックのお世話になった記憶がある)
 学校と違う恐ろしい点は、最初の試験で合格点をとれなかつた科目が三科目に達すると、そこで「学生資格審査会」にかけられることである。この審査会は、その学生を継続させるか罷免するかを決定するのである。
 この制度は、米軍からの輸入品のせいか、けっこう民主的で、その学生が合格点に達しなかったことについて、教え方は適当であったか、差別はなかったか、学生の側の熱意に不足はないのか、精神的、肉体的に学業に身が入らない要因が生じているのではないか、などを本人、関係の教官、同期生(通常は学生長)などから聴取して、裁定が下される。教える側、教えられる側のどこに問題があったのかを明らかにしたうえで、判断するのである。
 多くの場合、本人が熱意をもっている限り、単に不合格科目数のみによって学生罷免になるケースはほとんどなかったようである。
 とはいえ、 一部その犠牲者も含めて、この館山基地での課程教育中に数人の同期生が去って行った。どうしても自衛隊が肌に合わない、大学進学の夢が捨て切れないなど、理由は各人さまざまであるが、去る者残る者、感無量の別れであった。
 たった数ヵ月を一緒に過ごしただけ、それが四〇年近い年月を経た今も、彼らとはれっきとした同期生としての行き来がある。「同じ釜の飯を食った」ことの絆の強さは、経験のない者には理解の及ばない面があるかも知れない。

 入隊後、半年経った昭和三十四年十月、 一等海士に昇任。
 何よりも嬉しいのは、外出で外泊できるようになることである。ベッドでの生活、ラッパと号令に区切られる生活に慣れたとはいっても、畳の上でくつろぐ、布団に寝る、ラッパと号令から解放されたいという願望は、我々の皆が根強く持っていた。
 外泊となれば当然下宿がいる。先輩の紹介を受けたり、行きつけの食堂で教えられたり、大多数が事前に決めていたようで、こういうことには皆抜け目がないのである。
 私も、昇任が迫ったころから外出を利用して、同期生の群馬県出身の富岡六郎学生、新潟県出身の本間正学生と三人で下宿探しを始めた。後年、私は固定翼に進み、また、富岡学生はヘリコプターに進んで名を成し、本間学生はパイロットヘの道を断念して地上救難(遭難した航空機の救難、消火などを専門とする特技)に進んでその道の権威ともいうべき存在になる。それぞれ違う道を歩くことになったが、三人とも呉教育隊では六班に属し、尻の皮を剥がしつつ同じカッターを槽いだ仲、今はラグビー部で一緒に鍛えられている。
「商売で下宿をやっているところは、うるさいことを言われるだけで落ち着けない。下宿は素人下宿が一番だよ。損得抜きで面倒見てくれるようなところを探すんだ」
 高校時代下宿生活の経験のある私が発案して、あちこち飛び込みを始めた。無鉄砲な試みだったが、案ずるより生むが易しで、駅にほど近い閑静な一画にお誂えの家が見つかった。
「あ、そう。置いて上げようじゃないの。うちは主人が長期入院中でさ、娘と二人だけでしょ。元気な若い人が三人いてくれれば安心だしねえ」
 おばさんはいとも簡単に承知してくれた。私の思惑は図に当たり、以後我々三人はそこの家族同様の扱いを受けることになった。どの部屋を使うという明確なものもなく、食事も家族と一つ食卓を囲み、家に戻ったようなくつろいだ雰囲気での下宿生活を楽しむことができたのだった。