翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

操縦基礎課程 ―― 館山 (5)

 やがて半年が過ぎ、先輩である二期生が修業して去って行き、入れ代わりに後輩の四期生がやってきた。
 先輩の視線を気にしながらの生活もさることながら、後輩を意識しながらの生活も存外気骨の折れるものである。しかも分隊長、教官がことあるごとにそれを強調する。
「ボクはお兄ちゃんなんだから、しっかりしないと、弟に笑われるわよ」
 世のママさん連中が言うのと、同趣旨である。後輩、先輩それぞれに辛いところはあるもので、世の中、まるっきり呑気の楽チンというのは、望む方が無理であるらしい。
 昭和三十五年(一九六〇年)四月一日、四月馬鹿の日だがウソではなく海士長に昇任。
 そして六月、館山の課程の最後は乗艦実習であった。米海軍からの貸与艦で「PF」と呼ばれる排水量一四五〇トンの護衛艦「きり」「くす」「さくら」の三隻に分乗して東京湾から遠州灘、潮岬(和歌山県)沖をまわって紀伊水道、瀬戸内海を経て呉までの航海である。
 この型の艦には前述のとおり木の名前がつけられている。あまりにポンコツなので、「屑なら貸します」をもじって「くす」「なら」「かし」「まつ」と命名したとかしないとか……。
 そんな与太話が本当に聞こえそうな艦である。
 艦種の「PF」は、「パトロール・フリゲート」の略で、つまりは沿岸警備用の艦で、当然航洋能力はそれ程高くない。 一〇ノット(時速約一八・五キロ)に満たない速力で遠州灘をヨタヨタと進むうち、風波が高くなった。やっと潮岬沖にかかるころには、我々実習生の半数近くがあえなくダウンしてしまった。
 精も根も尽き果てて寝室にこっそり逃げ込んでベッドに横になっていると、けたたましく警報が響き、スピーカーががなる。
「訓練火災、場所は実習員居住区」
 同時に部屋に煙が充満し始める。訓練にリアリティーを持たせようという趣向か、はたまた我々に対するおシオキか、発煙筒が焚かれたのである。
 松葉いぶしに遭ったタヌキよろしく、我々サポリ組はホウホウの態で脱出する。
「あの連中には人の情ってもんがないのかよ、まったく」
「くそ、パイロットになれなかったとしても、金輪際船乗りにはならないぞ」
 ぶり返した吐き気をこらえつつ、乗員に聞こえないよう小声で我々は毒づく。はかない抵抗である。
 一年ぶりに懐かしい呉の町を踏んだら、船酔いはすぐに回復したが、三日間の呉滞在はあまりに短かつた。帰路につく。帰れば修業式が待っている。
 そして、次の課程への出発。

 平成六年(一九九四年)、千葉県在住の同期生十数人で、早春の南房総に夫婦同伴の一泊
 旅行をした。その途次、館山基地に立ち寄った。
 我々の青春の汗を吸いとったあのグラウンドには芝が張られ、見違えるように立派に生まれ変わっていた。格納庫も新しくなり、最新鋭の対潜ヘリSH ‐60Jが格納されていた。そのほか新しい建物も幾つかあるなかで、食堂、講堂、居住区などは昔のままに残っていた。
 すでに五〇の坂を越え、あるいは白く、あるいは薄くなった頭をした男たちが、少年のように声を弾ませてあれこれ思い出話に花を咲かせるのに、奥方連中は呆れ果てた顔で、でもなぜか自分も楽しそうな表情を浮かべつつ、その後に続くのだった。
 その日の我々一同は、立ち去りがたい思いで館山基地を離れたのであるが、昭和三十五年(一九六〇年)夏の我々は、操縦桿を握れる日が一歩近づいたことに心を弾ませながら、基地を後にしたのであった。