翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

基本操縦課程「前期:T-34」―― 小月 (1)

 航空自衛隊小月基地は、関門海峡から一〇キロと少々瀬戸内海に入った所にある。
 この基地は、昭和三十九年(一九六四年)から海上自衛隊に移管されているが、この当時はまだ航空自衛隊の基地で、第一一飛行教育団が所在して単発複座の初級練習機T-34メンターで、海、空の飛行学生の教育を行なっていた。
 我々は、ここで約四カ月にわたって操縦基礎前期課程を履修するのである。
 課程開始に先立って航空身体検査、なんたること、私は外斜位が許容を超えているということでこの身体検査に不合格になってしまった。
 このとき、私を含めて四人の不合格者が出た。うち二人は再検査でどうゴマかしたか、予定どおりの課程開始にこぎつけたが、私ともう一人、私と同じ島根県出身の川崎泰孝学生は、結局取り残された。
 川崎学生の場合は視力不足で、ニワトリの頭を食べては夜空の星を眺めたりして、回復にこれ努めたものの結局視力は戻らず、夢破れて故郷に戻った。
 三十余年を経て再会したとき、彼は郷里の町で町長就任二期目という町の名士になっており、彼のパーソナリティーと持ち前のがんばりを思い合わせて、さてこそと感じ入ったことであつた。
 ところで、私の場合の「外斜位」とは、眼球を動かす筋肉が左右不均衡で一方の眼がふさがれたりして目標を失ったときに、あらぬ方を向いてしまうという、いわば潜在的ヤブニラミとでも言うべきものである。
 万事休すかと諦めかけていると、手術をすれば治せる、治ればまた課程に戻れるという話。
 早速に飛び付いて、手術したい旨を申し出る。しかし、右から左へとは行かず、 一カ月ほどを団司令部の青い制服の中で、安全ポスターなど描かされつつ無為に過ごした後、やっと呉への転出が発令となった。発令先は、原隊の呉補充部である。
 我々航空学生は、採用・入隊が呉だったので、海士のあいだは原隊が呉補充部となり、何かの理由で学生罷免になれば、自衛隊を辞める場合を除いてここに戻される。
 補充部とは読んで字のとおり、部隊の欠員を補充するための、物品でいうなら補給所のようなものであり、また修理工場のような役目も持っている。したがつて、ここにいる隊員は、私のような要修理の者もいれば、修理完了、元気いっぱい次の発令を待っている者もいる。
 ここに至って、ようやく私にも思い当たる。
 ……入院手術だけなら、現所属のままでも不具合はないはずではないか。手術の結果次第ではそのまま呉に残し、いずれ艦艇乗り組みにでもすればいいというわけではなかろうか。
 こいつはうかうかしていられない、と行動を起こす。
 「艦艇は国有財産だが飛行機なんて消耗品だぞ(当時は本気にしたがこれはウソ。航空機もレツキとした国有財産である)。おまえも飛行機乗りなんか諦めて、艦に乗れ」
 そんな声には耳をふさいで、 一目散に国立呉病院の眼科に入院した。
 「手術は簡単だよ。たいして痛くもない。眼を左右に動かす筋肉の弱い方、鼻側の筋肉を切ってつなぎ直すだけの話だからね。あんただってパンツのゴムが緩くなったらそうするだろ」
 医師の説明は、明快である。バンツのゴムの場合は、まずいことになる場合もあるから交換した方が……などとは思っても言わず、とりあえず理屈はわかるので、安心する。
 確かに簡単な手術だった。ただ、
 「二、三日は、キョロキョロしないように。物を見るときはなるべく目玉を正面に据えて。左眼を動かすと眼帯の下の右目がそれにつれて動く。つなぎ目が外れたら二度と元へはもどらん」
 これは難問だったが、なんとかつなぎ目も無事で、五日ほどで退院。
 やいのやいのと騒ぎ立て、その甲斐あって、その月の内に小月の課程への復帰を取りつけることができたのだった。