翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

基本操縦課程「後期:SNJ」―― 鹿屋 (1)

 「鹿屋航空基地」の名は、先の大戦末期、特別攻撃機が多数出撃して行った基地としてつとに有名である。
 飛行場地区に出て見ると、その昔もかくやと思わせる光景を眼にして、アッとなる。
 エプロン狭しと並べられた、黄色い数十機の練習機。SNJである。尾輪式のせいで月にうそぶく虎のような姿勢で、ぐいと空をにらんだ姿は威圧的である。メンターと同じ単発複座だが一回り大きい。前輪式で鼻面が細くスマートなメンターを見慣れた目には、ごつくて異様な迫力を感じさせる。
 この飛行機は、戦中から戦後にかけて米海空軍の練習機として幾多のパイロットを育てて来た名機である。SNJは海軍名で、空軍名をT ‐6テキサンと呼ばれる。
 少し離れて航空士訓練や部内輸送に使用されるR4D (空軍名をC-47、民間仕様ではDC-3と呼ばれ、大戦中最も活躍した輸送機で、これまた傑作機として名が高い)もいる。
 さらにエプロンの向こう端には、世界最新鋭といわれる対潜哨戒機P2V-7ネプチューン、そして旧式のPV-2ハープーンが、銀色に輝く機体を並べている。
 これぞ航空基地の姿である。もちろん飛行場も小月や館山とは比べものにならないくらい広い。
 すぐに鹿屋術科教育隊(この年九月、部隊改編に伴って、いくつかの部隊に分割された。我我が教育を受けた部門は、第二〇一教育航空隊となった)での教育が始まる。

 例によってSNJの性能要目、操作法などに関する座学から入り、やがて飛行教育に移る。
 ここでの教育は、小月と同様基本操作に始まり、離着陸訓練、ソロ検定を終えてアクロバットに入り、計器飛行、編隊飛行、航法の各ステージがある。総飛行時間は約一三〇時間。
 教官はほとんど大戦の生き残り組で、敵機を何機も撃墜したいわゆる「エース」も何人かいる。その上この時期の飛行服は、旧海軍のそれとほとんど同じで、カーキ色の上下に茶色い皮の半長靴、首には白い絹のマフラー。帽子だけは焦げ茶色のビニールレザー製であるが、中身は正真正銘の元海軍パイロット、まるで戦争映画の一場面に迷いこんだ心地になる。
 この教官連中、天候が思わしくないときなど、状況が良くなるまでの間、学生とバレーボールに打ち興じたり、ほんとに楽しいオジさんたちなのだが、これが飛行作業にかかると一変するのである。おそろしく豊富なボキャブラリー(おそらく自分が教えられたときに仕入れたものと思われる)を駆使しての叱声、怒声、罵声。
 SNJもメンターと同じく、通常は前席に学生、後席に教官が搭乗する。教官がいくらカツカきても後席から前席には手が届かない。それが我々の幸いでもあるのだが、安心してはいられない。
 思うように動いてくれない飛行機と汗ダクで取り組んでいると、
「何やってるんだ! そんな操縦だれに習った!」
 教官が後席で、操縦桿を左右にあるいは円を描いて思いっきり振り回す。操縦桿は前後席連動しているので、学生の内腿にビシバシ当たる。この場合、思い切り両足を広げることで被害は局限できるが、短足の人物の場合は諦めてもらわなければならない。

 さて、その飛行作業である。
 飛行開始前に各機それぞれにブリーフィングがあり、その日の実施科目の説明、要領や注意すべき点などの教示を受ける。ブリーフイングルーム内だけでなく、外のベンチ、そこらの芝生の上、通路や植え込みの脇で立ったままやっている組もいる。
「そんなこともわからんのか。何を勉強してきたんだ!」
「おまえはバカか。何べん同じことを言わせるんだ!」
 そこらじゅうで大声が飛び交う。なるほど、室内じゃお互いうるさくてかなわないわけである。
 しばしばこれに、肉体に何かがぶつかつて発する衝撃音も混じる。教官の話の要点をメモしつつ、そっと横目で音の方角をうかがうが、どこを見ても教官、学生ともに真剣かつ緊迫した、まるで睨み合っているような雰囲気、音源のつきとめようもない。
 飛行機に乗り込む。シートに座ると首から上だけが外にのぞく程度で、メンターがタライならこちらは五右衛門風呂である。おまけにこのSNJは、プロペラ軸を中心にシリンダーをぐるりと円形に配置した星型エンジンなので、頭でっかちである。尾輪式のため、地上では仰向いていることもあつて、ちょうど小山に眼前をふさがれたような具合である。
 エンジンを起動し、徐々に回転を上げて発進する。(飛行機のギアはマニュアルかそれともオートマティックかと聞かれたことがあるが、航空機の場合はプロペラジェット機の場合はエンジンの推力だけで地上滑走するわけで、エンジンと車輪の連接はまったくない)
 飛行機が並んでいる列線を出るまでは、前が見えないので左右同時に横目を使うという離れ業が必要である。