翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

訓練・戦術・応急出動 (11)

 自衛隊の各基地では、周辺地域での緊急事態の発生に備えて、部隊それぞれの機能に応じた応急待機を実施している。航空部隊の場合は、いつでも緊急の出動に応じられるよう、常時航空機を準備し飛行チームを確保している。
 特に航空機の遭難に対応するのを任務とする救難ヘリコプターの部隊は、わずか二ないし三チームで交替しながら一年三六五日、待機についている。
 これらの航空機の応急出動の対象となる事態は、まれに部内の緊急要務もあるが、大部分は天災地変、船舶や航空機の遭難、離島での救急患者の発生などで、いわゆる災害派遣である。
 災害派遣は、事態に応じて都道府県知事、海上保安庁管区本部長、空港事務所長などの要請を受けて行なわれる。
 離島の多い地域に所在する基地のヘリコプターは、離島からの救急患者の緊急輸送に活躍している。鹿児島県の場合は鹿屋基地、長崎県では大村基地、伊豆諸島の場合は館山基地のヘリコプターが出動する。
 航続距離が長く、捜索能力も高い哨戒機は、洋上はるか遠い海域での船舶の遭難などに対応することが多くなる。
 その他に期待されている能力として、地震、風水害、山火事などの場合の状況偵察がある。
 機動性を生かして上空から状況を偵察、通報したり、映像を直接地上に送る、あるいは撮影したビデオや写真をいち早く提供する。
 私は青森県八戸基地の第二航空群司令部で、昭和五十八年(一九八三年)四月末から二年弱の期間、運用幕僚として勤務したことがある。
 運用幕僚は、部隊の訓練、行動全般を所掌する幕僚であるが、その間に経験した災害派遣をいくつか挙げてみる。それで海上自衛隊航空部隊の災害派遣の実態がおおよそ理解してもらえるかと思う。

 着任して間もない昭和五十八年四月末、茨城県から岩手県に至る太平洋側の山地一帯に、大規模な山林火災が同時多発するという事態が発生した。八戸基地の南西に位置する三戸郡南郷村でも山火事が発生し、なお延焼のおそれが伝えられていた。
 八戸基地では情報を収集しつつ、出動要請に備えて消防車、給水車、救急車に作業隊と通信班からなる派遣防火隊を編成して待機させる傍ら、青森県庁と連絡をとってみた。
「陸上自衛隊の八戸駐屯地へはすでに出動を要請したんですが、海上自衛隊にもそういう能力があるとは知りませんでした。早速に要請させていただきます」
 出動した防火隊の働きは、現地の広域消防組合から高い評価を受けた。
 このように航空基地では航空機の派遣ばかりでなく、防火のために部隊を派遣することもある。基地近辺で発生した火災では、いち早く出動して大事に至るのを食い止めることも少なくない。これには、火の見やぐらとして絶好の条件を備えている、あの管制塔が一役買っている。

 後に「日本海中部地震」と名づけられた地震が起こったのは、その一ヵ月後、昭和五十八年五月二十六日のことである。海岸に行楽に来ていた学童や教師など、津波の犠性者が多数出た地震である。
 八戸地方はそうひどい揺れではなかったが、青森県の日本海側と秋田県地方は震度が高く、津波来襲のおそれがあると速報が出た。
 群司令に進言して、ただちに応急出動機を出すことにした。
「津波の来襲が目で確認できるかも知れないので、秋田県の海岸から洋上を北西方向に飛行する。すでに津波が海岸に到達していたら被害の状況を偵察、撮影してくる。すぐに出動」
 一刻を急ぐので電話で指示、すぐに発進させた。
 青森県知事から、状況偵察を内容とする災害派遣の要請が出たのは航空機の離陸後のことである。この航空機は、実際には津波来襲には間に合わず、陸上に打ち上げられた大小多数の船舶や護岸のテトラポットなど、津波被害の無残な様子を撮影して戻ってきた。
 この後、波にさらわれて行方不明になった人の捜索などが一週間ほど続いたあと、この災害派遣は終結となった。