翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

派米訓練――ハワイ (1)

「君を今度のハワイ派遣訓練のメンバーに入れたいと思うが、特に不都合はないな」
 飛行隊長からそう言われて、私は躍り上がった。
 海外旅行など珍しくもない今と違って、この昭和四十二年(一九六七年)当時は、一般の人にとっては海外への観光旅行などは夢のまた夢、限られた人たちが新婚旅行でやっとハワイに出掛けるという程度であった。
 高度経済成長の途上にあり、自家用車が普及し始めたといっても、まだまだ日本人はつましく、いじらしい時代だったのである。
 それを自衛隊機に乗り組んで行くとはいえ、ハワイ行きの機会を与えられたのである。嬉しくないはずがない。英語が苦手なことなど、きれいさっぱりどこかへ吹き飛んで、
「行きます行きます。機長でとは言いません、2P、3P、いや、なんなら雑用係でも
・・・・・」
 二つ返事に三拝九拝、確約を取り付けた。
 海自航空部隊のハワイ派遣訓練は、この前年から始められ、四十二年度は第二回目に当たる。
 派遣部隊は、対潜チームが一空から四空までの四個航空隊から各一チーム、司令部要員及び器材等の輸送のためのチームが指定された部隊からニチーム、合計六機六チームで編成される。
 わが一空からは、一機一チーム、機長は農塚開志一尉(幹候八期、海保大三期)である。
 私はすでに二尉に昇任し、1PとしてもグレードAになって教官パイロットの端に連なっている身であるが、2Pの役回り、3Pは平野敏幸二尉(幹候一三期、防大六期)という顔ぶれである。
 事前の研究会、説明会が何度かあって、暮れも押し詰まった十二月下旬、下総基地に集結、部隊を編成する。指揮官は青木国雄一佐(海兵七〇期)である。幕僚の中には、東山収一郎三佐(幹候四期、水産大卒。のち海上幕僚長)の顔もある。
 あと数日で年が改まるという二十七日深夜、最初の寄港地ウェーキ島に向けて下総基地を出発。しんじんと冷える真夜中にもかかわらず基地の隊員が整列して見送ってくれる。
 先発隊二機は一日早く出発している。我々の機は後発隊の二番機である。
 離陸して二〇分、三〇分、三番機が上がってくる様子がない。
「どうしたんですかねえ」
 コックピットで話しつつ首をひねっていると、三番機にトラブルが発生したため後の二機は明日の出発になる、という無線連絡が入る。
 後に判明したところでは、離陸中に滑走路から外れ前脚を破損したということであった。
 機上の要務が一段落ついたところで、それぞれ着込んでいた冬用の厚い下着を夏用のものに着替える。なにしろウェーキ島は日本の南東一七〇〇マイル余り、緯度からすると台湾のまだ南、海南島とほぼ同じである。常夏の国である。
 およそ八時間の飛行の後、ウェーキに着く。コバルトブルーの大海原のド真ん中に、真っ白い砂浜を持ったセンベイさながらのペッタンコの島が、エメラルドグリーンの礁湖に囲まれて浮かんでいる。初めて見る珊瑚礁の島のたたずまいである。
 飛行場は、各種の大型軍用機の発着が頻繁で、活発な動きを見せている。民間の旅客機も降りて来る。すでにジェット旅客機が太平洋路線に就航していたが、まだジャンボ機のような超長距離型の機体はなく、前からジェット気流を受ける西行きの航程では、燃料補給が必要なのである。
 時差は二時間、通年サマータイムなので、実質三時間を体内時計からかすめ取られた勘定である。到着するとすぐ昼食、若干の昼寝、夕食、寝る。
 翌早朝には次の経由地ミッドウェイ島に向けて出発する。航続距離が長いといっても、三十数トンのビストンエンジンのプロペラ機、たかがハワイに行くのに飛び石伝いになるのもやむを得ない。ミッドウェイでもウェーキと同様、食う、寝るの他は島内をちょっぴり散歩した程度、素通り同然である。
 ミッドウェイ島は、太平洋戦争で日米が争奪にしのぎを削った島である。海軍基地の島であるが、この島の印象はダイオウ松(だと思う)の林とアホウドリに尽きる。
 そこら中が二〇センチもある松葉を房のように垂らしたダイオウ松の林である。これが島内のほとんど唯一無二といえそうな樹木。そしてそのまた足元のそこら中にアホウドリの巣がある。
 アホウドリは翼を広げるとニメートルもあろうかという巨大さ、近くで見るとまなじりの張ったこわい眼をしている。巣に近づくとクワックワツと大声を上げ、曲がった嘴をカタカタ鳴らして威嚇する。思わず腰が引けるくらい迫力がある。三歩、五歩助走して風をつかみ、大きな翼でバツサバッサと飛び上がって行く様子は勇壮であるが、着陸はそううまくなくて、風にあおられてつんのめって転んだりする。これがアホウドリの名の所以かもと笑ってしまう。
 ともかく三日がかりでハワイ諸島にたどり着く。滞在先はホノルルのあるオアフ島のバーバースポイント海軍基地である。