翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

YS-11 (1)

「君は一空に来て何年になる」
 そら来た、と私はズボンのベルトが緩んでいないかとそっと手をやる。下腹に力を込める。
 海自の転勤間隔は短い。若い幹部で二年、上の方になると一年過ぎた辺りでもう首根っこをよく洗っておかないと、いつ転勤を言い渡されるかわからない。
「ええと、三年とほんのちょっとです」
 だからもう首根っこはすりむけるほどに洗ってはあるのである。ではあるが、心拍数の上昇は抑えようもない。
「そうか。実はな、隣の二〇五教空に話がある。YS‐11の要員だ」
 思ったとおり転勤の話。しかし、飛行隊長からの話は悪いものではなかった。
 YS‐11は、戦後初めて日本が開発した輸送機で、六〇人の乗客を運べるターボプロップの新鋭機である。当時二〇五教空に二機が配備されており、海自の各基地を結ぶ部内航空輸送の任務についてまだ間がない。
 ただ海自のものは、正確にはYS‐11M型といい、座席数を四〇席に抑えて、貨物区画が設置してあり、ここに航空エンジンやヘリコプターのローターなど大型の貨物を搭載するための大型のカーゴドア(貨物扉)がついている。特注バージョンである。
 二〇五教空では搭乗員の飛行教育のかたわら、部内航空輸送に当たっている(このことが、新鋭のYSが畑違いとも思える二〇五教空に配備された理由でもある)。しかし定期便の運航その他、部内航空輸送の主役はいまのところR4Dである。R4Dは、民間名DC‐3、世界の名輸送機の名が高いが、なにせ戦前の設計製造、尾輪式の旧式機である。
 それはともかく、R4Dのパイロット陣の顔ぶれは凄い。海自の最古参パイロットがずらりと並んでいる。計器飛行課程で教わった教官も何人かいる。
 そこで出てくる最大の問題は、機長になれそうもないということである。航空学生出身の幹部パイロットも数人いるが、いずれも1P資格はもらっていても、コパイロットを務めてくれる者がいない。したがって万年コパイロット、機長として乗る機会がないのである。
「あの、R4Dには乗らないでいいんでしょうか」
「いや、YSを定期輸送に使いたいがなにしろパイロットが不足でローテーシヨンが組めない状況なんだそうだ。そういうことで、R4Dには乗りたいと言っても、そんな暇はないということだったよ」
 行かせていただきましよう。搭乗配置からの転勤先は、七分三分、いや八分二分で地上配置というのが常識である。それからしても願ってもないいい話である。

 昭和四十三年(一九六八年)六月、転勤発令。
 二〇五教空の庁舎は、隣のビルである。机の中のガラクタをダンボール箱に投げ込み、よいしょと担いで構内道路を一本横切れば着任である。
 隊司令、副長に着任の報告をした後、飛行隊に行く。
 飛行隊長は佃精一三佐、計器飛行課程で二、三度乗ってもらったことがある。理詰めで几帳面、精密機械のような操縦をする名パイロットである。この人がYSの教官パイロットである。もう一人の教官パイロットが宮内更生一尉(幹候六期、水産大卒)である。
 驚いたことに、YSのパイロットはこの二人だけ、他に二人いた若いパイロットが転出したばかりだという。YSが二機、パイロットは二人。これでは定期便の運航など望むべくもない。
 同日付で八戸の四空から発令になった越浦昭松一尉が着任するやいなや、超高密度の練成訓練が始まった。