翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

YS-11 (3)

 計算外のこともときに起こる。
 昭和四十四年(一九六九年)、この年はなぜか春が遅く、三月の末だというのに寒波が日本上空に居すわっていた。私と越浦一尉のコンビは、定期便で羽田に向かっていた。雲中飛行、風防に粉雪が吹きかかる。白一色の中の飛行である。
 浜松で羽田の気象実況を確認すると、雪のために視界一〇〇メートル以下、ビロウミニマム(最低気象条件以下。進入できない)である。
「予報は悪くなかった。羽田に近づいてからもう一度確認しよう」
 ところが羽田からの返事はやはリビロウミニマム、しばらく続きそうだと言う。
「下総はどうですか」
 ここもやはリビロウミニマム。木更津は、宇都宮は、厚木は、百里は、と聞くがどこもかしこも雪のために進入できる状態ではない。
「どこか降りられる飛行場はありませんか」
 こんな質問をするのは初めてである。焦って声がうわずり加減になる。
「入間が実況からすると大文夫です。しかし一時的な状態です」
 なにしろ関東を離れて他の飛行場に行くほどもう燃料が残っていない。目的地変更の承認をもらって航空自衛隊入間基地に向かう。
 なんとか間に合った。それも間一髪、着陸したとたん吹雪の中に取り込まれて、見えるのは眼前ほんの一〇メートル前後という状況になった。超スロースピードで地上滑走、やっと格納庫前にたどりついたが、そのまま二日間足止めをくう羽目になった。
 三月に入ってからの雪としては観測所始まって以来の記録、とマスコミは報じていた。

 もう一つこの年の体験。
 南極観測支援の事前訓練のために道東地方に向かう「ふじ」の乗員を運んで、雪のちらつく千歳に着いた。帰投は翌日である。
「この雪は積もりますか」
「いや大したことはないでしょう。大体ここは積雪はそう多くありません」
 空自千歳基地の気象予報官はこともなげである。安心して旅館に向かう。
 翌日。
「やだあ、こんなに積もったの初めて見たわ」
 旅館の女中さんが目を丸くしている。気が気ではなく、膝までもある雪の中を基地に急ぐ。
 あらら、飛行機がない。よくよく目をこらすと我々のYSは小山のように雪を被った情けない姿。各所の除雪作業で器材が足りないところを拝み倒して周辺の雪を除いてもらい、あとは人海戦術、空自隊員の加勢ももらってなんとか飛行機を掘り出した。
 ところがエンジンを起動するため、除雪の済んだエプロンに移動しようと牽引車をつないだが、タイヤが地面に凍り付いてまるで動く気配がない。
 牽引車のトウバー(航空機の前輪と連接する鋼製の棒)には、航空機脚柱に過大な力が加わるのを防止するために、切れやすい材質のピンが入っている。牽引車がアクセルを踏む度にそのピンが切れる。
「予備のピンがなくなっちゃいましたよ」
 お手上げの様子である。ついにロープの出動、両方の主車輪にも数人ずつ人数を配して、セーノ、ウンショ、コラショでやっと動き出した。
 途中八戸に寄り、次の字都宮に降りてエプロンで飛行機を停止したとたん、一抱えもある雪の塊がフラップの後ろのほうからドサリと落ちた。寒さからではない冷たさが背筋を走った。
 このときの千歳地方の雪も、マスコミの報道では「記録的」だったそうな。

 広報飛行は主として高校生を対象とした募集広報のための体験搭乗で、各地の自衛隊地方連絡部の要望に応じて実施される。
 従来R4Dでも実施していたがYSが使われるようになると、広報効果に格段の差があるということで、YSでという要望が強く、いきおい出番が多くなった。旧式のR4Dと民間のローカル路線の花形としてデビューしたばかりのYSとでは、海自の印象度も違うし一度に搭乗できる人数も倍と半分だから、当然と言えば当然である。
 ある空港に広報飛行に行ったときのことである。滑走路の向こうに人が随分出ている。敷物の上に座って弁当を食べているらしいグループもいる。
「何か行事でもあるんですか」
「いや、今日はYSが来るというんで見に来てるんですよ。ここはまだフレンドシップ(フォッカーF‐27)しか飛んで来ませんから、珍しいんです」
 考えてみると、YSが誇らしく思えるいい時代だったのである。
 高校生が対象なので夏休みの期間は別として、出番は学校が休みになる日曜日が主になる。通常、土曜日に出発して、現地に一泊、翌日曜日に広報飛行を行なって帰投する。
 土曜日、到着後に地方連絡部の好意で近辺の名所旧跡を見物ということも多かった。そのおかげで、冬場を除いてはほとんどの週末がつぶれる有り様であったが、一向に苦にならなかった。
 出発前のにわか勉強と前日の見物で仕入れた知識をもとに、機内放送で、
「左に見えているのが安多多羅(安達太良)山、いま下に光って見えている川が阿武隈川」
 などとやりつつ、空中約二〇分の飛行である。みなおおいに満足して上気した顔で飛行機を降りて行く。こちらも嬉しくなる。
 地元の自衛隊協力会だの旧海軍関係の団体などから立派なお土産が来ることもある。
 当時は民間のローカル空港だと、一日一便か二便、暇で空港のエプロンも空いている。広報飛行が発着の支障になることはない。きわめて好意的に迎えてくれたものであるが、便数が増え、利用者も増えてくるとそうもいかないのであろう、いつのころからか、当日進出、さっさと体験搭乗を済ませて直ちに帰投する味気ないパターンに変わってしまった。