翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

小笠原定期 (1)

 いま少しYS‐11に紙数を割いて、小笠原定期について書きたい。
 小笠原諸島、すなわち母島列島、硫黄島、南鳥島(英語名「マーカス島」)その他が米国の統治下から日本に返還されたのは、昭和四十三年(一九六八年)六月のことである。
 同時に父島、硫黄島、南鳥島所在の米海軍施設が海上自衛隊に移管された。
 父島には父島基地分遣隊、硫黄島には硫黄島航空基地分遣隊(略称「硫空基分」)、南鳥島には南鳥島航空派遣隊(略称「南空派」)が置かれた。父島基地分遣隊は横須賀地方隊、硫空基分は航空集団第四航空群の所属で、南空派は硫空基分に所属している。
 硫黄島、南鳥島にはいずれも、長距離航法用の無線施設ロラン局があるが、これはワールドワイドなシステムの一環ということからか、従前どおり米沿岸警備隊の管理下に残された。
 その当初、R4Dが週二便の割りで下総(母隊の第四航空群は当時まだ下総にあった)、硫黄島間を運航し、生鮮食料品などの航空輸送に当たっていた。当然、YS‐11はすでに海上自衛隊に配備されていたが、硫黄島にはYS用のジェット燃料(JP-4)がなく、往復するだけの航続能力もなかったため、就航が遅れたのである。
 R4Dは、世界の傑作機と称された時代もあったのではあるが、時代の波と寄る年波には勝てず、ペイロード(人員貨物搭載量)、速力、航法能力などいろんな面で時代遅れと性能不足は歴然であった。R4D便の飛行には、万一を考慮してP2VあるいはP-2Jのエスコートがついた。また硫黄島の航法援助無線施設の不備、不安定もあって気象条件が少し悪いと運航は中止された。
 しかし、返還後間もなく硫黄島にジェット燃料用のタンクが完成し、南鳥島にもドラム缶が陸揚げされて、YSが就航する条件は整った。

 前述のとおり当時はYS、R4D共に二〇五教空所属で、基地は鹿屋である。したがって定期便の起点は鹿屋である。
 YSの小笠原定期便の行動日程は、
 第一日 鹿屋から下総に進出、下総で人員、物資を搭載して硫黄島に飛行。硫黄島泊。
 第二日 硫黄島、南鳥島間を往復。硫黄島泊。
 第三日 硫黄島から下総経由、鹿屋に帰投。
 というものであった。(後に六一空が厚木に新編されてからは、第一日に南鳥島に進出、宿泊して翌日逆の経路で帰投するという二日行程に変更になった)
 YSの場合といえども片道燃料である。行く先は絶海の孤島で、なに天候が悪い、じゃ隣の飛行場に降りようか、というわけにはいかない。
到着時に天候が悪くて着陸できない場合は、上空で回復を待つしかない。天候が回復するのが早いか、燃料が切れるのが早いか、という胃にも心臓にも悪い状況に追い込まれる。
 おまけに硫黄島にも南鳥島にもロランのアンテナが立っている。これが高いのなんの、下に行って不用心に見上げると首の骨を痛めそうなほど、更にこれを支えるワイヤーが四方八方に張ってある。ということは、視界が悪くて滑走路が見つからない場合、アンテナやワイヤーに引っ掛かる心配のない高度で諦める必要があるということである。
 そこで、飛行しながら刻々の天候データをもらい、悪化の徴候があれば直ちに引き返す、という手順を定め、最終判断をする地点も決めてある。この点を越えると引き返そうにも燃料が足りないよ、そのまま行くしかないんだよという、いわゆるノンリターンポイントである。
 法律の定めでは、最低搭載しなければならない燃料の量は、目的飛行場が離島などで代替飛行場が設定できないとき、「目的地上空に到達して更に二時間飛行できる燃料」とされている。YSでもそれ以上の燃料を積めないことはないが、それでは輸送できる人員物資の量が少なくなって、着いてみたら何のために飛んで来たかがわからないといったことになるのである。
 下総から硫黄島へのコースを例にとると、YSにその規定の燃料を搭載した場合、ノンリターンポイントは北緯二八度線上になる。行程の残り三分の一弱、硫黄島まであと二〇〇マイルほどの地点である。ここから溜め息と共に、しぶしぶ引き返したことも何回かあった。