翔べ!海上自衛隊航空学生 - パイロット人生38年の航跡 -

岡崎 拓生

またまた地上勤務 (1)

 昭和五十三年(一九七八年) 一月。
 海上自衛隊幹部学校。かの海軍大学校の後身で、場所は市ヶ谷(現在は日黒)である。
 私の入った課程は指揮幕僚課程(通称「CS課程しという。期間は一年ちょうど。一クラス二五名程で、皆高倍率の関門を通り抜けて来た俊秀(私も入っているのでこの語は少々面映ゆいが、世の中にはものの弾みというものも存在することに思いを致されたい)である。学生の階級は一尉または三佐(修業までに二佐に昇任する者もいる)である。
 課程名の示すとおり、ここでは指揮官、幕僚になるための術科素養、戦略、戦術、指揮統率、国際法などを履修する。この学校には、ほかに幹部高級課程と幹部特別課程という課程があり、こちらの学生は上級指揮官の推薦を受けた二佐、一佐で、メンバーの格が我々CS学生より一枚も二枚も上である。ただこれらの課程は、CS課程を履修していないことが入校の条件の一つなので、教務の相当の部分が、全課程共通である。

 教育は、幅広い見地から自由に学び自由に考えるというやり方で、A足すBはCである、というような教え方は少なく、問題提起あるいは素材の提供という形で示され、教官を含めての討論になるようなことも少なくない。話が上級司令部の方針の批判に及んでも、クーデターを起こそうか、というような方に進んでも、咎められることはない。アカデミツク・フリーダムである。
 知名人による講話もある。共鳴するものばかりでもないが、やはり一流と言われる人の考え方生き方には、啓発されるところが多かった。地方研修も多く、北は北海道から、南は沖縄まで、各地の部隊の実情、風土、歴史、人情その他、見聞を広めるべく計画されている。時間的にもまあまあゆとりがあって、艦艇、経理補給、整備、潜水艦などこれまで知る機会の少なかった職域の連中と、交遊を深めることができたのも大きな収獲である。
 学生という身分は、業務を遂行する面倒も責任もない。気楽にワイワイガヤガヤやつているうち一年が経ち、さして脳ミソの比重が大きくなったとも思えないままに修業の日が来た。
 この学校のもう一つ良い所は、成績を発表しないことで、優等生も劣等生も等しく機嫌良く修業できることである。私自身もどちらの部類であったかは知らない(ま、推測はできる)ままに、首席の次くらいの顔をして堂々と修業証書を受け取ったのであった。

 昭和五十四年(一九七九年) 一月。海上幕僚監部(海幕)勤務。
 この年あたりから幹部学校修了者は、すでに勤務経験のある者を除いて海幕勤務にする、という方針が実施に移されたらしい。クラスの半数近くが該当者で、私も当然その中に入っている。再びデスクジョッキーである。
 海幕勤務のご託宣を受けた我々は、修業パーティーのアルコールが残る赤い顔のままで、海幕差し回しのマイクロバスで六本木に向かう。
 私の配置は、防衛部運用課運用班オペレーション室である。仕事の内容は、かつての自衛艦隊司令部運用作業班とほぼ同様である。ただし海上自衛隊の全部隊等が対象なので、自衛艦隊の部隊ばかりでなく、地方隊、教育部隊、学校などを含めた訓練、行動、行事の状況把握も守備範囲に入っている。
 私が先任で、ほかに幹部が二名、海曹、海士が合わせて四名、私を含めて合計七名で要務を処理する。仕事は勤務時間内のみで、勤務時間外は各部から派出される幹部が当直として泊まり込む。
 自衛艦隊司令部同様、朝は早い。松戸市松飛台にある私の官舎から海幕までは、新京成電車、地下鉄千代田線を乗り継いで一時間二〇分かかる。朝五時半には家を出る毎日である。
冬はまだまっ暗い時間である。季節感の少ない都会勤務では、通勤の辛さ加減の変化もまた季節を感知するバロメーターである。